もどる→

名著、げすとこらむ。

島田雅彦
(しまだ・まさひこ)
作家・法政大学教授

プロフィール

1961年、東京都生まれ。東京外国語大学ロシア語学科卒。83年『優しいサヨクのための嬉遊曲』でデビュー。84年『夢遊王国のための音楽』で野間文芸新人賞、92年『彼岸先生』で泉鏡花文学賞、2006年『退廃姉妹』で伊藤整文学賞、08年、『カオスの娘』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。近畿大学文芸学部助教授を経て、現在は法政大学国際文化学部教授を務める。10年下半期より芥川賞選考委員。主な著書に、『天国が降ってくる』『僕は模造人間』、無限カノン三部作『彗星の住人』『美しい魂』『エトロフの恋』、『フランシスコ・X』『佳人の奇遇』『徒然王子』『悪貨』『ニッチを探して』『往生際の悪い奴』など多数。評論に『オペラ・シンドローム』など。

◯『オイディプス王』ゲスト講師 島田雅彦
「物語」の元型がここにある

人類が言語を獲得したのは、一説には五万年前とのこと。以降、古今東西にわたり、多種多様な神話がつくられ、現代まで伝承されてきました。言語能力とは抽象化の能力であり、自然界に存在しないもの、たとえば、貨幣、法、芸術などを創造する力の源泉です。天地創造はむろん、自然の営みですが、それを神の偉業と考えること、それが神話です。人類が言語能力を駆使して築きあげてきた神話には私たちの祖先の思考の痕跡を見出すことができます。
神話はその地域に暮らす人々の生活の指針としてありました。人間が過酷な自然と対峙し、理不尽な運命に向き合うときの心構えが、多く教訓として示されています。各地の神話に精通したアメリカの神話学者ジョーゼフ・キャンベルによれば、隔絶された地域に伝わる神話にもおどろくほど多くの共通性が見出せるといいます。
場所や時代が違っても、人間の身体や脳の基本的な構造は変わりません。それゆえに、言語を使って生み出す神話が互いに似通ってくるのは、ある意味で当然なのかもしれません。私たちの脳には自分たちが生まれる遥か以前の記憶が刻まれているといわれます。自然と文化、夢と現実、感覚と論理を切り離した近代以後の世界に生きている私たち現代人は、しばしば神話の荒唐無稽さに唖然とします。神話は古代のシャーマンが見た夢から紡ぎ出されたといわれていますが、私たちが毎朝見ている夢だって、ナンセンスの極みです。いわば、私たちは夢を通じて、神話の世界とつながっているのです。ただ、神話を読み解くには解釈を補ってやらなければなりません。
世界各地の神話の中でもとりわけギリシア神話は、奔放な想像力によって紡がれる残酷な物語と多彩なキャラクターたちの痛快な行動でいまなお私たちを魅了します。八百万の神が活躍する日本の神話とも何処か似通ったところがあります。

紀元前八世紀頃、ギリシア各地には多数の都市国家が成立し、イオニア初め地中海、黒海沿岸に植民都市の開発が進みますが、フェニキア文字を借用したギリシア語アルファベットが編み出されたのもこの頃です。それからわずかの時を経てホメロスの『イリアス』『オデュッセイア』がイオニア語で成立し、各地で吟遊詩人がこれを吟じるようになります。それらの「英雄叙事詩」はギリシア神話に対する批評、解釈という形で書かれています。さらに前七〇〇年頃にはヘシオドスが『神統記』や『仕事と日々』で神話を自然と人間社会の関係、人間が辿って来た労苦の歴史として語り直しました。後世の人間はホメロスやヘシオドスの解釈を通じて、神話を学んだのです。さらに時代が下り、紀元前七世紀後半頃からはタレス、アナクシマンドロス、ピタゴラス、ヘラクレイトス、ヘロドトス、ソクラテスなど続々と賢人、哲学者、自然科学者、歴史家たちが登場します。アイスキュロスやソポクレスら劇作家の手によって「古代悲劇」の形式が確立されたのは紀元前四〇〇年代半ばです。彼らは、先行する賢人たちの知恵に鼓舞されるようにして、ギリシア神話に描かれた神々や人間の所業を、より自分たちに身近な問題として、戯曲に焼き直していったのです。

今回、私が取り上げるのは、ソポクレスが残した最高傑作『オイディプス王』です。紀元前五世紀に書かれ、また民衆の娯楽として演じられてきたこの戯曲を、遠く時代が隔たった二十一世紀の私たちが読むことに意味があるのかと問う人がいるかも知れませんが、私たちはここに、過去から現在まで脈々と続く「物語」の元型を見出すことができます。
ざっと挙げるだけで、父殺し、近親相姦、自分探し、捨て子の物語と、いまもなお小説などで人気のテーマが、すべて盛り込まれています。さらには「起承転結」という、物語を展開するうえで重要な形式の元型も見てとれる。謎解きを基本とする手に汗握る展開は、まさに推理小説のようです。波瀾万丈な運命にさらされるオイディプスという男が登場しますが、彼はセリフのひとつひとつのなかに、起伏の激しい喜怒哀楽や、神も呪う絶望や、ときに自分でも抑えきれない暴力や、あるいはあわれみの情などを、さまざまに発露していきます。このいかにも人間くさい男の懊悩する姿に、私たちは惹かれずにはいられません。
古代ギリシア哲学では、規範としての法のことを「ノモス」と呼びました。それに対する概念が「ピュシス」、自然です。この『オイディプス王』という悲劇は、王らしい威厳と風格を持ちながらも激情をあらわにするオイディプスの存在を通して、人間もまたその内側に「ピュシス」を抱え込んだ存在であることを、私たちに教えてくれるはずです。
また、素朴なことを言うようですが、二千四百年も前にギリシア語で書かれた戯曲を、もちろん翻訳を通じてではあるものの、現代の日本人にもよく理解できるというのは不思議なことです。人間は、進化し続けているようでいて、本質的なところでは二千四百年前となにひとつ変わっていない。彼らと私たちはひと続きの存在なのだと、しみじみ実感することができるのです。
それでは、ギリシア悲劇の傑作として名高い『オイディプス王』を、これから読み解いていくことにしましょう。

ページ先頭へ
Topへ