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名著、げすとこらむ。

◯『茶の本』ゲスト講師 大久保喬樹
「百年前に自然との共生を説いた先見の書」

『茶の本』は、明治時代に活躍した美術運動の指導者、文明思想家である岡倉天心(一八六二~一九一三)が、その後半生にアメリカに渡り、欧米の読者に向けて英語で執筆した日本文化論です。天心は、茶には日本文化および伝統的な東洋文明の精神が凝縮されていると考え、茶の歴史や、その背景にある哲学、茶が生み出した芸術や美意識などさまざまなテーマを通して、日本文化および伝統的東洋文明の根底に流れる世界観がどのようなものであるかを説いています。明治時代と言えば、文明開化という言葉にも象徴されるように、日本が欧米の進んだ(と考えられていた)文化や技術、制度などを熱心に取り入れようとしていた時代です。その時代にあって、アメリカで日本の伝統文化を説く本が出版されていたとは、意外に思う方もいらっしゃるかもしれません。
『茶の本』の著者である岡倉天心は、幕末の開港地横浜に生まれ、幼いころから英語を母語のように習得したいわゆるバイリンガルでした。一方で、漢学や仏教など伝統日本文化も身につけ、東京大学で第一期生として学んだあとは文部官僚となり、強いカリスマ性をもって明治期の日本の美術行政を主導しました。そこで天心が特に力を注いだのが、当時は文明開化の勢いに押され、衰えかけていた伝統日本美術を復興再生し革新させることでした。天心は、日本の伝統美術の精神性の高さを早くから見抜いていたのです。しかし、西欧化一辺倒の時代にあってそうした天心の考えはなかなか理解されず、次第に孤立していきます。そして、ついに日本での活動に見切りをつけ、拠点をアメリカに移します。以後、天心はボストン美術館の東洋美術部門の責任者として古美術収集活動などの仕事に従事するとともに、広く欧米世界に向かって自分の理想とする伝統東洋文明のありかたを説くことに力を注ぎました。その集大成が、今回とりあげる『茶の本』です。
『茶の本』は、近代欧米の物質主義的文化に対して、東洋の伝統的な精神文化の奥義を説きつくす、天心の文明思想のエッセンスを示す一冊です。しかし日本においては、天心自身と同様、なかなか正当に評価される機会に恵まれなかった本でもあると言えます。というのも、さきほども触れたように、いまから一世紀以上前の明治社会においては、近代化、西欧化路線が主流であり、その路線に逆行する伝統的東洋文明を理想とするような本は、時代遅れで反動的だと見なされることが多かったからです。さらに、天心の死後、日本がアジアへの侵略路線をとるようになると、その思想的根拠として、アジアの団結と再生をうたった天心の言葉がその本意を離れてさかんに使われたため、戦後はその反動で天心はファシストとして糾弾されます。
しかし、そうした誤解を乗り越え、今日になってようやく、天心の思想の本質が理解される時期を迎えているように思います。天心は、彼が生きた当時の日本においてはその活動や思想が十分理解されず、孤立しがちでした。しかし、一世紀以上経った現在からふりかえってみると逆に、天心の方こそが、時代に先んじた存在だったと言うことができます。当時の多くの日本人がもっぱらその時代の日本という限られた視野から近視眼的なものの見方しかしていなかったのに対して、天心ははるかに広い視野──さまざまな文明から成り立つ世界全体と、数千年におよぶ歴史の流れ全体を見据えた視野──から大局的なものの見方をしていたのであり、そのうえで、この近代化、西欧化の路線には限界があり、その限界を乗り越えるには伝統的東洋文明理想に還ることが不可欠だと見なしたのです。その意味で、天心のこうした思想は、単なる復古思想ではなく、未来を見据えた思想だったのです。
天心の先見性がもっとも感じられるもののひとつが、「自然との共生」というテーマです。天心は中国の老荘思想を土台として、人間が自然の一部として、自然の摂理に組み込まれて生きることをくりかえし説きました。それは、近代化にともなう工業化の影響で甚大な環境破壊が起こった二十世紀以降の社会において、その反省として環境保護への取り組みや、自然とともに生きるエコロジー思想が広がったりしている、そのことをまさに予言したものだと言えるでしょう。
そのほかにも、天心の著作には、これからめざしていくべき新しい文明のありかたを垣間見せてくれるようなさまざまな示唆が見出せます。その意味でも、今日天心を知り、天心を読むということは、単に過去の思想を振り返るという以上に、いま現在私たちが置かれている文明状況の意味を理解し、そこから未来の可能性を展望することだと言えるでしょう。百年以上前に天心が説いた茶の思想の中に、私たちはどんな未来を見出せるのか。これからみなさんと一緒に探ってみたいと思います。

大久保喬樹
(おおくぼ・たかき)
東京女子大学教授

プロフィール 1946年生まれ、横浜に育つ。東京大学教養学部教養学科フランス科、同大学院比較文学比較文化修士課程を経て、フランス高等師範学校およびパリ第三大学に学ぶ。現在、東京女子大学日本文学 専攻教授。『岡倉天心 驚異的な光に満ちた空虚』(小沢書店)で第1回和辻哲郎文化賞受賞。 訳書に岡倉天心『新訳 茶の本』(角川ソフィア文庫)、編著に九鬼周造 『「いき」の構造』(角川ソフィア文庫)、主な著書に『日本文化論の名著入門』(角川選書)、『川端康成 美しい日本の私』(ミネルヴァ書房)、『洋行の時代 岩倉使節団から横光利一まで』『日本文化論の系譜『武士道』から『「甘え」の構造』まで』(ともに中公新書)などがある。

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