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名著、げすとこらむ。

◯『枕草子』ゲスト講師 山口仲美
「描写力抜群のマナー集」

『枕草子』は、さまざまな魅力に満ち溢れています。とりわけ魅せられるのは、作者清少納言の描写力です。たとえば、冒頭の「春はあけぼの」の章段。あまりにも有名な文章なので、諳んじている方も多いでしょう。

春はあけぼの。
やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりて、
紫だちたる雲のほそくたなびきたる。


簡潔だけれど、余韻がある。洗練された格調の高い文章です。目の前に、春の夜明けの空がだんだん白み、やがて山ぎわがほんのり明るくなって、紫がかった雲が細くたなびいている、そんな光景が眼前に広がります。清少納言は絵画的描写力にたけているのです。彼女の絵画的描写力は、自然描写のみならず、人物描写にまで及びます。後ろの( )内は、私の施した現代語訳。以下、この本での現代語訳は、すべて私の責任にかかるものです。

二つ三つばかりなるちごの、いそぎて這ひ来る道に、
いと小さき塵のありけるを、目ざとに見つけて、
いとをかしげなる指にとらへて、大人ごとに見せたる、
いとうつくし。

(二、三歳くらいの幼児が急いで這い這いしてくる途中、ごく小さいゴミが落ちているのを目ざとく見つけて、とても愛らしげな指で拾って、大人などに見せているのは、すごく可愛い。)

きれいに掃いたはずの床に、小さなゴミが落ちている。幼児はそれを目ざとく見つけて、それをあどけない仕草で大人に見せる。抱きしめたいほど愛らしい幼児の動作が、目に浮かびます。
こうした絵画的描写力に支えられた『枕草子』は、どこをとっても面白いのですが、とりわけ、人間をターゲットにした章段では、彼女の鋭い批判力と相まって、優れた人間観察が提示されています。たとえば、

にくきもの いそぐ事あるをりに来て、長言するまらうど。
あなづりやすき人ならば、「後に」とてもやりつべけれど、
心はづかしき人、いとにくくむつかし。

(癪に障るもの。急いでいる時にやって来て、長話をするお客。軽く扱ってもいい人なら「あとで」などと言って帰してしまえようが、気のおける立派な人の時は、そうもできず、ひどく憎らしく困ってしまう。)

いますよね、こういうお客。出かけようと思っている矢先に玄関に現れ、こちらの都合も考えないで長々と話す。こちらが落ち着かない様子を見せても、ちっとも察してくれないでどんと腰を据えて話している。清少納言は、こういう日常での出来事をとらえて、「許せないわよね、こういう人」という説得力のある例を次々に提示しています。「寒い時に一人で暖房器具を独占している人」、「周りの人間に知られたくない逢瀬なのに、目立つ音を立てたり、いびきをかいたりしてしまう男」などと。
列挙された事柄を裏返してみると、人として、あるいは男と女の間で、してはならないエチケットが説かれているとみることができます。急用がある人のところで長居をしてはいけないのです。寒い時には皆で分かち合って暖をとるべきなのです。人目を忍ぶ逢引では、目立つ音は厳禁です。同様に、「はづかしきもの」「にげなきもの(似つかわしくないもの)」といったマイナス面に焦点を合わせた章段で列挙された事柄は、すべて人として守るべきマナーや男と女のエチケットを説いていると見ることが出来てしまう。
逆に「心にくきもの(奥ゆかしいもの)」「めでたきもの」など褒め称えるべきプラス事項を列挙してある章段では、こうすると好感度が上がるというマナー集として読むことが出来る。鋭い批判力から生まれた『枕草子』は、古今東西に通用する礼儀作法の書としても読めるのです。こうした観点から、『枕草子』をとりあげたのが、拙著『すらすら読める枕草子』(講談社)です。
今回の放送では、拙著を踏まえつつ、「魅力的な男とは? 女とは?」「マナーのない人、ある人」などの話題を中心に据え、『枕草子』の魅力を存分に味わってみたいと思います。随所で、優れた描写力の生み出す絵画的な場面があなたを魅了するでしょう。

山口仲美
(やまぐち・なかみ)
日本語学者・埼玉大学名誉教授

プロフィール 1943年静岡県生まれ。お茶の水女子大学卒業。東京大学大学院修士課程修了。文学博士。埼玉大学名誉教授。専攻は、日本語学(日本語史、擬声語研究)。1977年、日本古典文学会賞受賞。1987年、金田一京助博士記念賞受賞。2007年、日本エッセイスト・クラブ賞受賞。2008年、紫綬褒章受章。著書に『犬は「びよ」と鳴いていた──日本語は擬音語・擬態語が面白い』(光文社新書)、『すらすら読める枕草子』(講談社)、『ちんちん千鳥のなく声は』(講談社学術文庫)、『日本語の歴史』『日本語の古典』 (ともに岩波新書)などがある。

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