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名著、げすとこらむ。

◯『愛するということ』ゲスト講師 鈴木晶
「愛――この素晴らしきもの」

私がエーリッヒ・フロムの『愛するということ』の翻訳に取りかかったのは、今から二十年以上前のことです。
一九五九年にすでに同じ出版社から邦訳(旧訳版)が出版されており、私自身も学生時代に読んだことはあったのですが、正直に言うと、その時はあまり面白い本だとは思いませんでした。まだ恋愛経験が少なかったからでしょうか、「面白そうなタイトルのわりには難解な本だなぁ」という印象しか抱けなかったのです。自分から読もうと思ったのではなく、大学の授業で読まされたのでしたが。旧訳は誤訳があまりに多く、文章もひじょうに読みにくかったので(だから私が改訳を依頼されたわけですが)、それで内容がよく理解できなかったのかもしれません。旧訳をお読みになった方の中には、なんとなく読みにくいという感想を抱いた方が多いのではないでしょうか。なんだか宣伝めいてしまいますが、そうした方にはぜひ新訳を読んでいただきたいと思います。
さて三十代後半になって、いざ改訳に取りかかってみると、フロムの考え方や言葉にどんどん引き込まれていきました。新しい「気づき」がこの本の中にはたくさん隠されていることが分かってきたのです。それから何度も読み返していますが、そのたびに新たな発見があります。
内容を簡単に説明しておきますと、“The Art of Loving”という原題が示すとおり、これは「愛の技術」について書かれた本です。とはいっても、どこにデートに連れていって、どんな会話をして、どういうファッションをすれば異性にモテるか──といったことが書かれた「恋愛マニュアル本」の類ではありません。同じ恋愛の技術といっても、この本に書かれている「技術」は、そのようなものとはまったく異なっています。そもそも、書店に並ぶ多くの恋愛本が「人から愛されるための技術」をテーマにしているのに対して、この本は逆に「人を愛する技術」をテーマにしているのです。「愛される」ことよりも「愛する」ことのほうがずっと重要なのだ、と著者は強調しています。
また、人間の心理を下敷きに「本当の愛とは何か?」について言及しているだけでなく、「愛が人間から失われた原因は、現代の社会構造にある」という立場から、「愛」と「社会」をリンクさせ、「愛」というものを深く分析しているのも、この本ならではの特徴です。
こうした観点から見ると、この本は単なる恋愛論ではなく、社会のあり方や人間の心理を出発点に愛の本質を分析した、哲学書、社会思想書といってもいいでしょう。 『愛するということ』をフロムが書いたのは一九五六年。それから数えると、はや六十年近く経ったわけですが、今読んでも内容にまったく古くささは感じられません。いや、ストーカー事件やひきこもりが大きな社会問題となり、世の中から愛がどんどん失われつつあるように見える最近の日本においては、「今だからこそ読む価値のある本」といってもいいと思います。それに類書、つまりこれと同じような本は、書店の棚を見渡しても、一冊も見つかりません。とてもユニークな本なのです。
新訳版では、できるだけ多くの世代に読んでもらいたいと思い、平易な表現を使って訳したつもりですが、それでも、日頃、本を読み慣れていない方にとっては、少々難しくて理解しづらい部分があるかもしれません。タイトルに興味を抱いて読み始めてはみたものの、途中からだんだん理解できなくなって、読み通すのを諦めてしまう人もいるかもしれません。
すべてをきちんと理解しようとすると、それなりの読解力と集中力が必要になってきますが、ボリューム的には二百ページ程度のコンパクトな本です。心してかかる必要はまったくなく、理解できない部分は読み飛ばしていただいていっこうに構わないので、とりあえずは最後まで読み終えることを目指してチャレンジしてみてください。
「愛は世界を救う」といったキャッチフレーズをみた時、「ただの美辞麗句」「無内容」「関心ない」「他人事」「自分とは無関係」「勝手にすれば」と感じる人が多いのではないでしょうか。「世の中でいちばん大事なのは、べつに愛じゃないだろ」と考えている人も多いことでしょう。でも、ひょっとしたら、愛があるからこそ、人類は生きながらえているのかもしれません。病、飢餓、戦争、環境破壊、人種差別、性差別など、私たちが直面している問題はすべて、愛がなければ解決されない、いや私たちは解決しようとすら思わないのではないでしょうか。
この本を読んだからといって、異性にモテるようになるわけでもないし、恋愛の達人になれるわけでもありません。しかし、読み終えた前と後では、自分の中の愛についての認識ががらりと変わっていることに気づくでしょう。今まで私たちが「愛」だと思っていたものは本当の愛ではなく、「愛」とはもっと深く素晴らしいものであった──と。

鈴木晶
(すずき・しょう)
法政大学教授

プロフィール 1952年東京都生まれ。東京大学文学部卒業、同大学院博士課程満期修了。現在、法政大学国際文化学部教授、早稲田大学大学院客員教授。専門は文学、精神分析学、舞踊学。心理学および精神分析学の見地から「こころ」を、舞踊やダンスの領域において「からだ」を考察し、両者の関係についての思索を深めている。著書に『フロイトからユングへ』『「精神分析入門」を読む』(ともにNHK出版)、『オペラ座の迷宮 パリ・オペラ座バレエの350年』(新書館)など、訳書にフロム『愛するということ』(紀伊國屋書店)、スヘイエン『ディアギレフ 芸術に捧げた生涯』(みすず書房)などがある。

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