もどる→

もっと『罪と罰』

七月の初め、異常に暑いさかりの夕方近く、ひとりの青年が、S横町にまた借りしている小さな部屋から通りに出ると、なにか心に決めかねているという様子で、ゆっくりとK橋のほうに歩きだした。
階段口で彼は、下宿のおかみとぶじ顔を合わさずにすんだ。彼が借りている小部屋は、五階建ての高い建物の屋根の真下にあって、部屋というよりもどこか戸棚を思わせるところがあった。

おれは一刻もはやく踏み越えたかった……おれは人を殺したんじゃない、主義を殺したんだ! 主義はたしかに殺したが、じゃあ踏み越えたかっていうと、踏み越えられず、こっち側に居残った。やれたのは、殺すことだけだ。

「ぼくにはもう、きみひとりしかいない」「ぼくらはふたりとも呪[のろ]われた者同士だ、だからいっしょに行こう!」

その感覚は、発作のようにいきなり襲いかかってきた。心のなかにひとすじの火花となって燃えはじめ、とつぜん、炎のように自分のすべてをのみつくした。自分のなかのすべてが一気にやわらいで、涙がほとばしり出た。立っていたそのままの姿勢で、彼はどっと地面に倒れこんだ……。
広場の中央にひざまずき、地面に頭をつけ、快楽と幸福に満たされながら、よごれた地面に口づけした。起きあがると、彼はもういちど頭を下げた。

ページ先頭へ