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名著、げすとこらむ。

◯「戦争と平和」ゲスト講師 川端香男里
「人はいかに生きるべきか」の探求

 ロシアがヨーロッパの大国として成長していった十八世紀は別名フランスの世紀とも言われ、フランス語フランス文化がヨーロッパ全体を支配していた時代でした。ロシアでも貴族や金持ちたちは幼い時からフランス語漬けで、日常会話はもちろん手紙もフランス語でした。貴族の間では名前をフランス風に呼ぶというのが一般的でした。『戦争と平和』の主人公の一人は一貫して「ピエール」というフランス語名で呼ばれます。この長編小説の登場人物は何と五百五十九人になりますが、ストーリーは四つの貴族(ボルコンスキイ家、ロストフ家、ベズーホフ家、クラーギン家)の家庭を中心に繰り広げられます。この四家族のうち最も品のない家族として描かれるクラーギン家では子供が全員フランス語名です(イッポリート、アナトール、エレーヌ)。ここにはトルストイの意図がはっきりとうかがえますが、またあとで詳しく述べましょう。
 まず物語の時代背景は、貴族たちが祖国のように思っているフランスから、フランス革命の遺産を引き継いだ英雄ナポレオンが攻めて来る、しかも若者の間にはナポレオン崇拝が高まってくる──という状況です。フランスかぶれのロシア人たちが、時代の追い風を一身に集めた英雄ナポレオンに抗して戦うことを余儀なくされ、フランスべったりのロシアの歪みからの脱却を迫られることになるのです。
 次に、戦争ということを中心に考えると『戦争と平和』には二つの山があります。一八〇五年のアウステルリッツの戦いが前の山で、一八一二年のボロジノ会戦が後の山になります。第一部と第二部がアウステルリッツを中心にして個人生活を軸に展開する小宇宙の世界であるとすれば、第三部と第四部はボロジノを中心として、国家・民族の歴史がかかわる大宇宙の世界です。両方の世界で共通していることは、作中人物がほとんどみな何かを、何かある絶対的なものを追い求めているということです。その代表的な人物がアンドレイです。いかに生きるかという模索を徹底的に行うという点で、トルストイの分身とも言っていいこの主人公に対し、トルストイは辛くあたっています。絶えざる「やり直し」の処分にあい、結婚も失敗、戦場に出るたびに負傷し、生死の境目で辛うじて絶対的なものにふれることを許されます。
『戦争と平和』はそれこそ「超」がつくほどの大作です。それを一〇〇分で味わおうというのですから大変ですが、その作者トルストイは正に巨人の名を与えるのにふさわしい人です。ロシア語には巨人を表す言葉がいくつもあります。ギガーント、ヴェリカーン、ティターン、いずれもトルストイを形容する言葉として愛用されています。その思想・行動の振幅の大きさ、その苦悩の奥深さも巨人的です。長く生き、長く書き、まるで「不死の人」(ゴーリキイ)のように時代を越えて生きた人です。
 この巨人の生涯の中で『戦争と平和』がどのような位置を占めるかということを中心に『戦争と平和』解読の鍵となるような知識をいくつかあげて「はじめに」を閉じることにいたします。  トルストイは自ら語っています──「私の性格の一つの特徴は……私自身に逆らってまでも、常に時流に乗じた勢力に抵抗したということである。私は一般的傾向というものを憎んだ」と。時代の「一般的傾向」を自分の自立性をおびやかすものと考え、それに抵抗することから常に出発するというわけです。ロシア文学の主流に対するアウトサイダー、批判者として登場したトルストイは、例えばロマン派の文学を不自然と感じとり、その代わりすでに「過去」のものとされていた十八世紀のルソー、ヴォルテール、スウィフト、スターンなどに親しみをもったのです。異邦人、局外者、新参者、子供という既成概念に囚われないものの眼ですべて見直すという手法です。ピエールという戦争未経験者の眼で見られた『戦争と平和』の戦闘場面もそのいい例でしょう。  トルストイが十八世紀から受け継いだ立場は、「自然」によって人為、文明を批判するということで、この立場はそのまま思想の領域にも適応されることになります。原始キリスト教、ナロード、コサック、ジプシーなどは「自然」を代表し、教会宗教、西欧などは、否定されるべき人為、文明の代表格となります。
 最後に見落としてはならないことですが、トルストイが独立独歩の態度を貫き得たのは彼が地主貴族であったからです。生活のために闘わなければならなかったドストエフスキイやチェーホフとは全く違う世界にいたのです。ゴーゴリに発する「ちっぽけな」貧しい人間を描くという十九世紀ロシア文学の伝統に逆らって、貴族の生活を真正面からとりあげた『戦争と平和』は、実はロシア文学史上希に見る大胆な挑戦だったのです。

川端香男里(かわばた・かおり)
ロシア文学者・東京大学名誉教授

プロフィール 1933年東京生まれ。東京大学教養学部教養学科フランス分科卒。同大学院比較文学比較文化課程に学ぶ。北海道大学文学部、東京大学教養学部講師を経て、94年まで東京大学文学部教授。現在は川端康成記念会理事長、日本トルストイ協会会長。著書に『人類の知的遺産52 トルストイ』『ユートピアの幻想』『ロシア──その民族とこころ』『薔薇と十字架──ロシア文学の世界』、訳書にバフチーン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』、ザミャーチン『われら』、ベールイ『ペテルブルグ』、ヒングリー『19世紀ロシアの作家と社会』など多数。

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