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もっと「こころ」

自由と独立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、
其犠牲としてみんな此淋しみを味はわなくてはならないでせう

「私は淋しい人間です」と先生は其晩又此間の言葉を繰り返した。
「私は淋しい人間ですが、ことによると貴方も淋しい人間ぢやないですか」

Kは中学にゐた頃から、宗教とか哲学とかいふ六づかしい問題で、
私を困らせました。
是は彼の父の感化なのか、又は自分の生れた家、即ち寺といふ一種特別な建物に属する 空気の影響なのか、解りません。

彼は卒然「覚悟?」と聞きました。さうして私がまだ何とも答へない先に
「覚悟―覚悟ならならない事もない」と付け加へました。

私は私の過去を善悪とともに他の参考に供する積です。
然し妻だけはたつた一人の例外だと承知してください。
私は妻には何にも知らせたくないのです。
妻が己れの過去に対してもつ記憶を、
成るべく純白に保存して置いて遣りたいのが
私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、妻が生きてゐる以上は、
あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、
凡てを腹の中に仕舞って置いて下さい。

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