もどる→

名著、げすとこらむ。

◯「モンテ・クリスト伯」ゲスト講師 佐藤賢一
至福の読書体験

『モンテ・クリスト伯』は『巌窟王』という邦題でも知られ、日本では大筋を短くまとめたジュニア向けの本が多く出版されてきました。皆さんの中にも、世界の名作集に入っていた『巌窟王』を子どもの頃に読んだ記憶がある、とおっしゃる方が多いと思います。
私が最初に手にとったのも、ジュニア向けに書かれた『巌窟王』でした。小学校高学年の頃だったと記憶していますが、じつはそれほど印象に残っていません。主人公が脱獄するまでをドキドキしながら読んだのは覚えていますが、そのあとに続く復讐譚や結末は朧な記憶でしかないのです。
その後、大学に進学して西洋史を専攻することになった私は、フランスの歴史を知る参考になればと、アレクサンドル・デュマが書いた歴史小説『三銃士』を読むことになります。読み終わった後に、同じデュマの代表作に『モンテ・クリスト伯』という本があることを知り、「ついでに読んでおこう」と思ったのが再読のきっかけでした。そこで、子どもの頃に読んだ『巌窟王』と『モンテ・クリスト伯』が同じ本であることに気づいたのです。
全七巻からなる完訳本を読み始めると、これが想像していたよりも遥かに面白い。子どもの頃の記憶では、囚人の脱獄劇が中心の冒険物語と思っていたのですが、実際は脱獄までのストーリーなどほんの序章に過ぎず、そこから本格的な復讐のドラマが展開していきます。復讐劇の部分が記憶に残っていなかったのは、おそらくジュニア向けの本では大幅に削除されていたためでしょう。
個性豊かな登場人物たち。複雑にいくつもの伏線を張り巡らしながらも、最終的にはすべての伏線が一本につながり、怒濤のようにクライマックスへと収斂していくストーリー。ぐいぐい物語の中に引き込まれていき、次々に現れる山場に興奮しながら「次はどうなっていくのか」と手に汗握って読み進めていくうち、あっという間に全七巻を読み切っていました。こんなに一気に読んでしまう読書体験は初めてといっていいものでした。
その後、何度か読み返すうちに「こんな面白い小説を書くデュマとは、いったいどんな人物なのだろうか」と、作者自身のことが知りたくなってきました。
フランス革命後の十九世紀という時代に、黒人の血をひく褐色の肌をもって生まれたアレクサンドル・デュマは、自身が小説さながらに波瀾万丈の人生を送った人でした。同じ名前の父親はナポレオンとともに戦った将軍で、やはり同じ名前の息子は、あのオペラの名作として知られる『椿姫』の作者デュマ・フィスです。そうやって調べていくうちに、小説の題材として、ぜひデュマのことを書きたくなりました。デュマのことを書くなら父親のことを書かないと始まらないと気づき、そこから始めてデュマまで書いたら、今度は息子のことを書きたくなりという感じで、それが父親・デュマ・息子の三人それぞれをモチーフにした『黒い悪魔』『褐色の文豪』『象牙色の賢者』という三部作小説になったわけです。
今回、番組に出演するにあたって、久しぶりに『モンテ・クリスト伯』を読み返しました。ストーリーはすでに頭の中に入っているにもかかわらず、また楽しく読むことができました。
何度読んでも面白いと感じる理由は、読者を物語に引き込む工夫や仕掛けが随所に凝らされているだけでなく、この作品には、作者であるデュマ自身の姿が投影されているからだと思われます。単なる空想物語ではなく、そこには作者自身の生きた時代や社会、当時の人々の願望などがリアルに描かれている。いわばノンフィクション的なフィクションなのです。だから、説得力がある。何度読んでも物語の中に引き込まれていくし、読むたびに新しい発見があるのです。
もちろん、何の予備知識も持たずに読んでも十分楽しめる作品ですが、作者デュマの人生や人柄を知っておくと、この作品はよりいっそう面白く読めるはずです。そこでこのテキストでは、第1回と第2回で「作品の魅力」を、第3回と第4回で「作者デュマ自身の人生と作品の関係」を探っていきます。
『モンテ・クリスト伯』は完訳版で七巻からなる大長編ゆえに、その魅力のすべてはお伝えできないと思いますが、テキストと番組から面白さのエッセンスなりとも、感じ取っていただけたら幸いです。

佐藤賢一(さとう・けんいち)
作家

プロフィール 1968年山形県鶴岡市生まれ。山形大学教育学部卒業後、東北大学大学院文学研究科西洋史学専攻修士課程修了、同博士課程単位取得満期退学。93年『ジャガーになった男』で第6回小説すばる新人賞、99年『王妃の離婚』で第121回直木賞受賞。デュマ家三部作(『黒い悪魔』『褐色の文豪』『象牙色の賢者』)のほか、主な小説作品に『傭兵ピエール』『カルチェ・ラタン』『双頭の鷲』『二人のガスコン』『女信長』『アメリカ第二次南北戦争』『新徴組』『ペリー』『小説フランス革命』(全12巻刊行中)など、ノンフィクションに『ダルタニャンの生涯 史実の「三銃士」』『英仏百年戦争』などがある。

ページ先頭へ