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名著、げすとこらむ。

守屋淳
(もりや・あつし)
作家、中国古典研究家

プロフィール

1965年、東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。中国古典の研究者として多くの著作を発表するとともに、渋沢栄一や明治の実業家にかんする著作・翻訳を数多く手がける。渋沢栄一関連の主な著書・訳書・編著書に、『渋沢栄一の「論語講義」』『現代語訳 渋沢栄一自伝』(ともに平凡社新書)、『現代語訳論語と算盤』(ちくま新書)、『渋沢栄一「論語と算盤」の思想入門』(NHK 出版新書)などがある。

◯『論語と算盤』 ゲスト講師 守屋淳
近代日本の「原点」に学ぶ

元号がまもなく平成から令和に変わろうとしていた二〇一九年四月、財務省は、二〇二四年度に紙幣のデザインを一新することを発表しました。新しい一万円札の図柄に採用された人物は、「渋沢栄一」。お札になったこと、さらに今年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公になったことをきっかけに、渋沢という人物に興味を持たれた方も、多いのではないでしょうか。

渋沢栄一は、明治時代に活躍した実業家であり、近代日本社会や経済の礎を築いた人物です。生涯で約五百の会社や約六百の社会事業にかかわり、ノーベル平和賞の候補にも二回なりました。経済分野のみならず、社会全般、ひいては国際関係にまで大きな業績を残した人なのですが、十年ほど前まで一般にはその名前があまり知られていませんでした。その頃、私が企業研修で渋沢の業積について話すと、多くの参加者から返ってきたのは「そんなすごい人がいたんですね、全然知りませんでした」という反応だったのです。しかし、この十年ほどの間に知名度が上がり、最近では、今回読んでいく『論語と算盤』を愛読書に挙げる人も増えてきました。

『論語と算盤』は、厳密には渋沢栄一の「著作」ではなく、渋沢の膨大な講演の記録を、編集者の梶山彬が十のテーマに分けて切り貼りし、再構成した「講演抄」に当たるものです。中国古典を専門に研究する私は、『論語』の影響を受けた日本人について調べたことがあります。そのなかで、渋沢栄一と本書に出会いました。読み解いていくと、日本、さらには世界の経済や社会の行く末を考える上で、非常に参考になる考え方が示されていました。彼の「論語と算盤」というモットーに端的ですが、渋沢栄一の思想を学ぶことで、社会や政治、経済、倫理、そしてビジネスなどの大局的なバランスを俯瞰する重要さをあらためて考えさせられたのです。

渋沢栄一と『論語と算盤』が注目され始めた時期は、リーマンショックで世界経済が大打撃を受けた時期と重なります。当時、日本の経営者たちは、このまま強欲な資本主義や経営を続けていては、社会も会社も維持できなくなると考え始めていました。しかし、リーマンショックの震源地であるアメリカも、国家レベルの財政危機が起きていたヨーロッパも、お手本とはなり得ませんでした。では、日本の資本主義や経営は何を道しるべにすべきなのか。そう考えたビジネスパーソンたちがスポットを当てたのが、「近代日本の建設者」とでもいうべき渋沢栄一でした。そして、彼の考え方や行動にもう一度学ぼうという気運が広がり始めたのです。

『論語と算盤』や渋沢の考え方は、海外にも広がっています。特に『論語』が生まれた中国での人気は高く、九種類もの翻訳が出版されています。その背景にあるのが、九〇年代に始まった市場経済の導入でした。

資本主義化にともない、中国の経済は急激に成長しました。しかし残念ながら商業道徳の面では、契約が遵守されない、コピー商品が蔓延するなど諸外国からさまざまな批判を受けました。中国国内でもその点が問題視されるようになり、『論語』をベースにして、モラルある資本主義を育てようという気運が高まりました。そうした流れの中から渋沢栄一──『論語』を商業道徳の源泉として日本の実業界を発展させた人物──が注目されたのです。中国以外の国でも、著名な経営史学者が何人も渋沢の研究に取り組み、数年前には、国内外の研究者による共同プロジェクトも行われています。

今、日本企業では、旧来の「家族主義的経営」と、バブル景気以降にアメリカから入り込んできた株主至上主義や、利益至上主義の経営との間で、せめぎ合いが起こっています。そして、そこから生じたひずみを、社会も企業自身もうまく扱いきれずにいます。社会に生きるわれわれすべてが幸せになる経済の形や、ビジネスの形を考えなければならない時代が、すでに始まっているのではないでしょうか。

現在、われわれが直面している問題の本質は何か、その問題の解決には何が必要なのかを知るためには、原点に立ち返ることが不可欠です。そして、現在の日本の制度や仕組みの多くは、近代化を推し進めた明治期に端を発しています。渋沢栄一が百年前に唱えた「合本主義」──企業だけでなく社会全体を富ませようとする経済のあり方(第3回で詳しく見ていきます)──は、現代に生きる私たちが未来を描く時、大きな示唆を与えてくれます。これからの経済と社会をどうしていくべきなのかを考えるにあたって、立ち返るべき原点は、渋沢栄一にほかならないと私は考えています。

また、渋沢栄一の姿から私たちが学べるのは、経済や社会にまつわることだけではありません。渋沢は、その人生で何度も苦境に陥りますが、その度に逆境をはねのけ、立ち上がり、自らの道を歩み続けました。現在の日本、そして世界は、新型コロナウイルス感染症、自然災害、経済格差など数多くの問題を抱え、人々は苦難に直面しています。そうした逆境にあって、私たちはどう生きるべきなのか。みなさんには、『論語と算盤』、そして渋沢の人生や思想を通じて、ぜひそのヒントを見つけていただきたいと思っています。

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