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名著、げすとこらむ。

斎藤幸平
(さいとう・こうへい)
経済思想家、大阪市立大学准教授

プロフィール

1987年東京都生まれ。米国ウェズリアン大学卒業後、渡独。独フンボルト大学哲学科博士課程修了。専門はマルクス経済学。2018年、マルクス研究における最高峰「ドイッチャー記念賞」を日本人初、史上最年少で受賞。著書に『大洪水の前に』(ドイッチャー記念賞受賞作“Karl Marxʼs Ecosocialism ”の日本語版、堀之内出版)、『人新世の「資本論」』( 集英社新書)、編著に『未来への大分岐』(集英社新書)。訳書にマルクス・ガブリエル&スラヴォイ・ジジェク『神話・狂気・哄笑』(堀之内出版)等。マルクスとエンゲルスの新全集を刊行する国際プロジェクト「MEGA」の国際編集委員会メンバー。

◯『資本論』 ゲスト講師 斎藤幸平
人新世の危機に甦るマルクス

今回はドイツの経済思想家、カール・マルクス(一八一八〜一八八三年)の主著『資本論』を読み解いていきます。『資本論』第一巻の初版が刊行されたのは、一八六七年。当時、人々の暮らしを激変させていた「資本主義」のメカニズムを徹底的に解析し、その矛盾や限界を明らかにした名著です。

ただ、出鼻をくじくようですが、『資本論』全三巻を読破するのは、かなりの難行です。分厚くて、叙述スタイルも独特。随所に出てくる哲学的表現につまずく人もいるでしょう。マルクス自身が認めているように、第一巻の冒頭部分はとりわけ難解で、そこで挫折した人も少なくないはずです。

『資本論』は、経済学はもとより、哲学、文学、歴史から自然科学まで、幅広い素養が求められる難攻の大著。「一五〇年も前に資本主義を論じた本を、今さら苦労して読んでも……」と躊躇してしまうかもしれません。

実際、マルクス主義を謳ったソ連が崩壊して以降、世界中で左派は弱体化していきました。日本の大学ではマルクスを学びたいという学生も、マルクス研究者のポストも激減しています。そして、多くの人たちは『資本論』を読まなくなってしまいました。

そのせいでどうなったでしょうか? 資本主義を批判する者がいなくなり、グローバル化が一気に進み、「新自由主義」という名の市場原理主義が世界を席巻、世界全体のあり方を資本主義が大きく変えていったのです。人類の経済活動が地球のあり方を根本的に変えてしまったという事実を強調するために、「人新世」という地質学の概念が、様々な分野で使われるようになっているほどです。

世界中に豊かさをもたらすことを約束していたはずの資本主義。ところが、「人新世」は、むしろ社会の繁栄を脅かすような数多くの危機によって特徴づけられています。金融危機、経済の長期停滞、貧困やブラック企業。そして、新型コロナウイルスのパンデミックと気候変動の影響による異常気象が、私たちの文明的生活を脅かすようになっています。

要するに、資本主義の暴走のせいで、私たちの生活も地球環境も、めちゃくちゃになっている。なかでも深刻な問題の一つが格差の拡大です。国際開発援助NGO「オックスファム」によると、世界の富豪トップ二六人の資産総額は、地球上の人口の半分、実に約三九億人の資産に匹敵するそうです。

南北問題のせい? いや、そうではありません。アメリカ一国に目を向けても、超富裕層トップ五〇人の資産は二兆ドルで、下位五〇%の一億六五〇〇万人の資産に匹敵するのです。これが、トランプ現象を引き起こしたアメリカの分断の原因の一つであるのは、間違いないでしょう。

日本にも、柳井正さんや孫正義さんのように、超富裕層に属する人たちがいます。けれども、私たち庶民は、長時間労働、不安定雇用、低賃金などを余儀なくされ、貧しくなっていくばかりです。必死に働いても、貯金はなく、子どもも作れない。年収二〇〇万円以下の人が一二〇〇万人もいる社会では、若い世代が将来に希望を持つことなどできないのも当然でしょう。医療費は高く、十分な年金のない高齢者にも生活に不安を感じている人は少なくありません。

さらに、グローバル資本主義の暴走が引き起こした気候変動に代表される世界的な環境破壊も深刻です。カリフォルニアの山火事、氷河や氷床の融解。日本でも梅雨時の集中豪雨や台風の超巨大化など、気候変動の影響は無視できなくなっています。

また、人類がインフラ整備のために、過剰な森林破壊を引き起こし、生物多様性が失われていくことが、新型ウイルスのパンデミックの原因にもなっています。気候危機も、パンデミックも「人新世」の帰結です。地球全体を掘りつくして、商売の道具にしてしまう資本主義のツケを払わされるのは、今を生きる私たち、そして未来を担う若い世代なのです。

このまま資本主義に人類の未来を委ねておいて、本当に大丈夫なのでしょうか。様々な問題が、想像を超えるスピードで拡大し、深刻化しているのに、なぜ資本主義にしがみついて〝経済を回し〟成長し続けなければならないのでしょうか──。

そんな疑問が湧いてくる世界だからこそ、『資本論』が再び必要なのです。顕在化してきた危機の根本原因は資本主義であり、だからこそ問題解決のためには、資本主義から脱却する必要がある、と私は考えています。もちろん、それは『資本論』を読破するよりもずっと難しいことですが、その一歩に向けた想像力と創造力を与えてくれるのが、マルクスなのです。だから今、世界では、改めて『資本論』が論じられるようになっています。

実際、近年のアメリカでは、ミレニアル世代*やZ世代*と呼ばれる若者を中心に「社会主義」を肯定的にとらえる人が増え、サンダース旋風*を巻き起こしました。Z世代の代表的な人物、国連の会議で、各国の気候変動対策を痛烈に批判したスウェーデンの環境活動家グレタ・トゥーンベリも、「無限の経済成長というおとぎ話」を批判し、資本主義に代わる「新しいシステム」を求めています。環境意識が高く、資本主義に批判的な若者が「ジェネレーション・レフト(左翼世代)」として、社会主義に共鳴するようになっているのです。

もちろん、ジェネレーション・レフトが求めているのはソ連や中国のような社会主義を標榜する独裁国家ではありません。果たして、資本主義ではない、もっと自由で、平等で、豊かな社会を私たちはどうやって構想すればよいのでしょうか。かなり難しいですよね。けれども、そのヒントが『資本論』に眠っています。

〝眠っている〟というのは、刊行されている『資本論』を一読するだけでは気づかないかもしれないからです。気づきの助けになるのが、「MEGA」と呼ばれる国際プロジェクトで刊行が進められている、マルクスの新資料です。

実はマルクスは『資本論』の第一巻は刊行したものの、全三巻の完成を見ぬままにこの世を去っており、第二巻以降は盟友のフリードリヒ・エンゲルスが後を継いで刊行しました。マルクスが晩年に遺した膨大な草稿や研究ノートには、エンゲルスの編集した『資本論』には収められなかった重要な論点が含まれています。けれども、それらは刊行されずに長らく眠っていたのです。

詳しくは第4回でご紹介しますが、マルクスが遺した手紙や晩年の研究ノートといった新資料を重ね合わせることで、彼のエコロジー研究や共同体研究といった、これまでとは違う視点からの『資本論』の読解が可能になります。今回は、そうした近年の研究成果も踏まえて『資本論』を読み直し、一五〇年眠っていたマルクスの思想を二一世紀に活かす道を一緒に考えていきたいと思います。別の社会を想像する力を取り戻すために──。

ところで、日本のマルクス研究の歴史は古く、実は、世界で初めて全集を刊行したのは日本です。世界中に一〇〇冊ほどしか現存しない『資本論』第一巻初版も、その約半分を日本が所蔵しています。戦前戦中の思想弾圧を乗り越え、戦後日本は、世界的に見ても稀有な〝マルクス研究が盛んな資本主義国家〟でした。

しかし、高度経済成長に沸き、労働者たちの生活が改善を続け「一億総中流」が謳われるようになると、リアリティをもってマルクスを語ることが難しくなっていきます。「資本主義の矛盾は国家によって十分に制御することができ、完全雇用のもとでの経済成長は実現可能だ」というケインズ主義のほうが、マルクス主義よりも説得力をもって現実を説明することができたのです。

絶好調の資本主義を前に、マルクス研究者の多くは哲学的で難解な抽象論に傾倒し、マルクスを現実から切り離して象牙の塔に閉じ込めていきました。皮肉にも、『資本論』の難解さが、研究者たちが自らの権威を守るために役立ったのです。

けれども、マルクス本人は、大学で教えたり研究活動をしたりしていたわけではありません。ジャーナリストとして頭角を現すも、当局に目を付けられて亡命を迫られます。ヨーロッパを転々としながら、貧しい暮らしのなかで、労働者階級のために『資本論』を書き上げた、在野の理論家なのです。

そんな彼が「健康も、この世の幸福も、家族をも犠牲にして」(マルクスからジークフリート・マイアー宛の手紙。一八六七)執筆した『資本論』は、学術論文ではなく、社会変革に向けた〝実践の書〟なのです。

今こそ『資本論』が必要です。資本主義が危機に陥り、その暴力性がむき出しになっている二一世紀は、再びの「マルクスの世紀」だからです。現代を生き延びようとしている私たちにとっても、よりよい将来社会を構想するための、実践的な道標になってくれるでしょう。

『資本論』では、今回取り上げたテーマ以外にも、様々な経済学的考案がなされていますが、今回は、これまでの研究では必ずしも重視されてこなかった「資本主義の暴力性」に注目してマルクスの問題意識を浮かび上がらせることを主目的とします。できるだけ身近な事例を挙げながら、現代社会の問題と、ポスト資本主義の社会像を考えていきたいと思います。

第1回は、マルクスの理論的土台となる「物質代謝論」を軸に、自然との関係で人間の「労働」について分析し、モノに振り回され、大事な物を失っていく私たちの生活について考察します。さらに、マルクスが『資本論』で展開している「剰余価値論」をもとに、資本主義のもとで長時間労働や過労死がなくならない理由を第2回で、イノベーションや生産性の向上が労働者を貧しくし、「クソどうでもいい仕事(ブルシット・ジョブ)」が増えるメカニズムを第3回でみていきます。最終回は、晩年の自然科学研究や共同体研究の足跡を示す新資料も踏まえつつ、資本主義が自然破壊を止められない理由と、ポスト資本主義社会の可能性を展望するつもりです。

マルクスというと、ソ連や中国のような共産党による一党独裁社会を連想する人も多いと思いますが、マルクス自身は「共産主義」とか「社会主義」という言葉をほとんど使っていません。代わりにマルクスが用いたのが「アソシエーション」という用語です。

アソシエーションによって形成・維持される社会とは、どのような社会なのでしょうか。マルクスが構想した「コミュニズム」とは、ソ連や中国のような中央集権的な共産主義とどう違うのでしょうか。それがわかると、「人新世」の危機が文明を脅かし、「資本主義社会の終焉」が謳われる今こそ、『資本論』が読むべき名著だと得心していただけると思います。

*ミレニアル世代
二〇〇〇年以降に成人した世代。一九八〇〜一九九〇年代前半生まれを指す。
*Z世代
一九九〇年代後半以降に生まれた世代。
*サンダース旋風
二〇一六、二〇年のアメリカ大統領選に民主党から立候補したバーニー・サンダース上院議員(一九四一~)は、民主社会主義者を自認し、国民皆保険制度の設置やマイノリティの権利保護、教育支援制度の充実、再生可能エネルギーの利用促進や雇用の確保などを公約に掲げ、若い世代から絶大な支持を受けた。特に選挙資金調達にクラウドファンディングを導入した一六年のヒラリー・クリントンとの民主党候補指名争いでは少額の個人献金が大量になされ、同年三月には四四〇〇万ドル(約四九億円)が集まった。

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