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ハテナ?のメール箱の回答。皆さんからお寄せいただいた“ハテナ?”のメール。番組では、代表的な質問や、多かった疑問を、講師の先生にお聞きしました。

第7回「幸福論」編 合田正人さん回答!

Q

TKJさんほか(40代・男性)

素朴な質問です。アラン自身は、「幸福」だったんでしょうか?
私生活はどうだったのか?どんな人生を歩んだ人だったのでしょうか?

A 合田正人さんからの回答。

TKJ さま

私生活についてはテクストを読んでくだされば嬉しいですが、北フランス・ノルマンディー地方の自然を頑健な身体に凝縮し、獣医であった父親の生態学的経験知を体で学び、宗教的に猜疑の目を向け、政治的にはリベラルな共和派、音楽など諸芸術をこよなく愛し、高校生と民衆に向けて、さらにはメディアとも積極的に係って、哲学と日常、市民生活の関係を根底から変えた人でした。40代後半で従軍したこと、晩年まで独身であったことも特筆すべきでしょうね。
ただ、アランが「幸福」であったかどうかというご質問は、「幸福」の基準がどこかに存在していることを前提としていますね。アランが否定したのは実はこのことなのです。「幸福」というものはあるものではないのです。あるのは「幸福」であろうとする意志と活動と責務だけなのです。これはひとりよがりではありませんよ。「礼節」という「幸福」の対になるものがそれを禁じています。ですから、アランは「幸福であろうとした」、それも、休息しながら、こわばることなく、としか言えないでしょうね。

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Q

幸福さん(50代・男性)

第3回で「自分の不幸を人に話さない」とありましたが、どういう意味なのでしょうか?
自分の不幸を他人に話すと、それが不幸の伝播になり、相手も不幸になるという意味なのでしょうか?
しかし人は、苦しい時こそ、「誰かに悩みを聞いて欲しい」「相談したい」と思うのが普通だと思います。
それとも、人に自分の不幸を話す前に、内なる自分ととことん対峙し、不幸の原因を自分で探し、解決せよという事なのでしょうか?

A 合田正人さんからの回答。

幸福 さま

アランはね、こんなことを言っています。誰もが、自分の「不幸」を話すときは大俳優になる。また、自分は『幸福論』のなかで「本物の不幸」のことは話していない、あくまで「自分で自分を不幸だと思い、そうみなそうとした」者たちのことを語ったのだとも言っています。「幸福」と同じく「不幸」の基準もそれ自体で存在するわけではありません。ですから、「自分の不幸」と思うことがすでに「自分を不幸にしている」のです。
そして、それを人に話すとき、必ず私たちは役者のようにそれを不必要に誇張してしまう。そのことがまずは話す人の「不幸」を更に増大させてしまう。そのことが他人への「不幸」の感染を惹き起こすこともあるでしょうが、逆に、だからこそ他人は「同情」や無関心、嫌悪という「復讐」をしてくるかもしれません。つまり、感染だけが怖いのではないのです。
もちろん、誰かに悩みを聞いてもらいたいと思いますよね。そう思っていいし、相談してもいい。でも、そのとき大事なのは、大役者のように「不幸」を語ることが自分ならびに他人への「礼節」をしばしば忘れさせてしまうということです。忘れるとね、他人が、「あなたが自分を不幸にしている」原因はこれかも、とせっかく言ってくれても、そうじゃない、あなたには分からないと応酬してしまうのですね。だから、自分ひとりで解決しろと言っているわけでもないと思いますよ。

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