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名著、げすとこらむ。

◯「論語」ゲスト講師 佐久 協
総合的“人間学”の書

『論語』というのは、今をさかのぼること二千五百年ほど前、中国の春秋という時代を生きた「孔子」の言葉を集めた“語録”です。
孔子――といえば、皆さん、知ってますよね? “儒教の祖”としてあがめられている、偉いセンセイです。俗に三千人ともいわれる弟子を抱えて私塾を開いていた。本家の中国ではもちろん、日本でもおなじみで、東京の「湯島聖堂」とか、水戸の「弘道館」とか、全国各地に彼を“学問の神様”として祀まつっているところがある。その孔子が会話したり、質問に答えたりしたことが弟子から弟子へと伝えられて、没後何百年かのちにまとめられたのが、『論語』なんです。
おそらく、皆さんはこの本を、ものすごい大長編だと思っているんじゃないですか? でも、そんなことはないんです。収載されている章句の数は五百強くらいで、短いものはたった五文字。長くても三百字超。全部で一万三千余字。四百字詰めの原稿用紙にきっちりと詰めて書いたら、三十数枚にしかならない。
三十数枚といったら短編小説程度の長さ。ちょっと意外でしょう。
にもかかわらず、なぜ、多くの人が超大作だと思っているのかというと、孔子のオリジナルの言葉に対して、後世の学者が山ほどの解釈をつけ加えたからなんです。『論語』っていうのは、原文よりも注のほうがだんぜん多い。で、この後からつけられた解説が、けっこう問題で、孔子の考えていたことが誤解されて伝わるもとになってしまっているんですよ。
たとえば、「君 君たり、臣 臣たり、父 父たり、子 子たり」(顔淵第十二―十一)という、有名な言葉があります。どういう意味かというと、「君主は君主らしく、家臣は家臣らしく、父親は父親らしく、子どもは子どもらしく、それぞれ努め励みなさい」ということです。ところが、これを「君 君たらずとも、臣臣たるべし、父 父たらずとも、子 子たるべし」、つまり、「君主が君主らしくなくても、家臣は家臣として仕えなきゃいけない。父親が父親らしくなくても、子は子として尽くさなきゃいけない」というふうに、ねじまげて解説しているものがある。
こうしたねじまげは、孔子の約四百年後、武断政治から文治政治への転換をはかった漢の武帝の時代に盛んに行われたことで、なぜかというと、彼らは孔子の教えを国家イデオロギーとして、人民の支配に利用しようとしたからなんです。
こういうことがしばしば行われた結果、孔子の言ったことは、もとの意味を離れて支配者の側に都合のいいものになっちまった。これが、いわゆる“儒教的解釈”なんです。
儒教は日本に、聖徳太子のころにはすでに伝わっていたようですが、とくに盛んになったのは江戸時代。武家の心構えとして、おおいに学ばれた。当時は封建社会だから、“儒教的解釈”がぴったりだったんですよね。
皆さんもたぶん、儒教といえば、忠孝とか礼節とか、とにかく古くて説教くさいものだと思っているんじゃないですか? もちろん、そういう要素も、まったくないわけじゃないけれど、それがすべてではない。今われわれが思っている儒教と、孔子がもともと考えていたこととは、かなり違うんです。
というわけで、今回のワタシの講義は「孔子本来の意図にたちかえって、『論語』を読んでみよう」というものなんです。
で、始める前に、凡例みたいなことを、ちょいと述べておきましょう。
まず、『論語』という本は、孔子が語った言葉が、ただずらずらと羅列されているもので、特定のテーマや時系列などに沿って系統的に編纂されているわけではありません。そして、それらはほぼ均等に十等分されて「巻」と名づけられ、一巻はさらに二等分されて「篇」と名づけられています。つまり、十巻二十篇。そうして、各篇の冒頭の章句の中から、「学而」だとか「為政」だとか「子路」だとか、言葉や人名が拾われて、それぞれの篇名になっています。
そういうつくりなもんだから、『論語』の巻や篇や並び方には、ほとんど意味はない。ゆえに、馬鹿正直に頭っから読んでいくと、ぜんぜんおもしろくない。何が言いたいんだかよく分からないし、孔子がああ言ったり、こう言ったりと矛盾ばかりが目について、だんだんいやになってくる。そして、「ああ、めんどくさ、やーめた」となっちまう。じつはこれが、よく陥りがちな『論語』のワナなんです。
だから、ワタシが『論語』を教える時は、たとえば、「人生」とか「家庭」とか「社会」とか、なんでもいいけれど、任意のテーマを設定して、それに沿って再編集して教えることにしています。そうやって“並べ替え”をやると、孔子の言っていることが整理されて、頭に入りやすくなるんです。
で、今回は、「人生で一番大切なこと」「自分のアタマで考えよう」「人の心をつかむリーダー論」「信念を持ち逆境を乗り切ろう」という四つのテーマに沿って話してみることにしました。
もちろん、これだけで『論語』のすべてを網羅したことにはなりませんが、孔子が言わんとしたことの一端は、理解してもらえるのではないでしょうか。
ちなみに、そういうふうにいくらでも違った編集の仕方ができるというのが、『論語』の一つの特徴です。なぜかというと、『論語』はただ道徳的なことを教える本ではなく、人間が生きていくうえで必要なあらゆる点に言及した、総合的な“人間学”だからです。つまり、雑然と、しかし、すべてのことがここに投げ込まれているのです。
なお、おのおのの言葉の頭についている、例の「子曰く」(先生は、こうおっしゃった)は、この本ではほぼ省略して、訳文も孔子本人が語っているような形式にしました。というのも、弟子から間接的に伝えられている感じで読むよりも、孔子本人から直接話を聞いている感じの方が、素直に頭に入ってくるからです。
これは、ワタシが授業で高校生たちから教えられたことで、たしかに、孔子が言っている意味を考えようとする時、間に弟子の姿がチラついてくると邪魔くさいものです。
じつは、いま儒教は本家の中国でも大はやりで、一種“復古”的に注目されているのですが、これに関しては、今回は言及しません。それよりも、今、この日本の、ワタシたち自身の生き方のヒントとして見ていきたいと思います。
現代の日本は、政治も経済も個人の意欲もぜーんぶ落ち込んじゃって、誰もがどうやって生きたらいいのか分からなくなりつつある。世の中に理想もない、希望もない、みんな迷っている。そういう時代に、『論語』は、けっこう役に立つ本なんですよ。

佐久 協(さく・やすし)
文筆業、元慶應義塾高校教師

プロフィール 1944年東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒業後、同大学院で中国文学・国文学を専攻。大学院修了後、慶應義塾高校で教職に就き、国語、漢文、中国語などを教える。同校生徒のアンケートでもっとも人気のある授業をする先生として親しまれてきた。2004年に教職を退き、現在は思想、哲学、漢籍、日本語など幅広いテーマで執筆活動、講演活動を行う。主な著書に『高校生が感動した「論語」』(祥伝社新書)、『世界一やさしい「論語」の授業』(ベスト新書)、監修に『論語が教える人生の知恵』(PHP研究所)、『論語を楽しんで生かす本』(主婦と生活社)などがある。

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