ハテナ?のメール箱の回答。

第1回「ツァラトゥストラ」編 西研さん回答!

Q

もも さん(30代・女性・東京)

日本人には「ルサンチマン」が満ち溢れていると感じます。
自分は改めたいと思いますが、自身のルサンチマンに気付いていない人と、どう関わっていったらよいでしょうか。お教え下さい。

A 西研さんからの回答。

もも さま

たしかに、自分のなかにルサンチマンがたまっていることに気づいていない人がいます。自分のルサンチマンを自覚している人がいて、「~のことが気になって仕方がない、そんなの気にしても意味ないとわかっているんだけど」と話してくれると、こちらも共感できるかもしれません。
しかし無自覚なルサンチマンは発散を求め、それが攻撃性につながります。たいていそういう人は世界を「善と悪」の二つに分け、悪に分類された人や制度を攻撃し、しかもそうすることが正義だと思いこんでいます。
そういう人と関わると、気を遣いますね。自分が攻撃されないように気を遣わないといけませんし、攻撃されなくても、その人があれこれ他人を攻撃するときに発散する「毒」を吸うとほんとうにイヤな気分になるものです。タバコの副流煙よりもっとひどいかも。
ニーチェは、「自分が愛せない場所は通り過ぎよ」(『ツァラトゥストラ』第三部「通過」)といっています。愛せないならば関わらずに立ち去るのがいい。愛せないのに妙な義務感で関わり続けると、自分のがわにも不満やルサンチマンがたまってきてしまうから、というのです。
「妙な同情は止めよ、そして自分が快活になることを考えよ」というのが、一貫したニーチェの教えでした。ですから、距離をとる、思い切って関係を絶つのも、一つの選択としてありうると思います。しかし相手が職場の同僚や上司だったり、親戚だったりして関わり続けないわけにはいかないこともありますねよね。さてどうするか。

大きく二つの方向があるように思います。なるべく関わらず、あの人は病気と思って対処する手が一つ。心理的に距離をとる、ということですね。もう一つは、ルサンチマンを含めたその人の人生を理解しようとする方向です。場合によれば(あくまでも場合によれば、ですが)、この人のルサンチマンの発散は嫌だけど、人間としてわからなくはないなあ、というふうに、少し許せるようになるかしれない。でも、理解しようとするためには、少しはその人に「いいところ」が感じられないとその気になれないので、いつもこの方向をとれるとは限りません。

ハッキリした答えにならなくてごめんなさい。でも、こういうことには決定的な答えはないのです。いちばん大切なことは、自分自身がルサンチマンに冒されず快活さを保つこと。そのために知恵を使い、自分なりにそのつどハッキリと決断する姿勢を保ち続けることだと思います。グズグズになって人生の主役であるという感覚を失わないこと、ですね。
どうぞ、知恵をつかってみてください。

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Q

赤羽ミキ さん(30代・女性・東京)

「自分は超人になった」と自覚するのは、具体的に自分がどのような状態になったときなのでしょうか?

A 西研さんからの回答。

赤羽 さま

「超人になる」ということは、実際にはありえないのだと思います。超人というのは、ニーチェが神に代わって掲げた人類の目標であって、到達可能なものではありません。「超人に憧れ、将来に超人を生み出そうとして努力せよ、そのために没落してもよいではないか」という感じです。つまり、自分自身が超人になるというより、超人を生み出そうとして努力する、というような、「努力目標」なのですね。

とはいっても、超人になったときの感覚についてニーチェがまったく語っていないわけではありません。「一個の高揚した感情そのものであるような人間、比類なく偉大な気分の権化であるような人を、歴史はいつか生み出すかもしれない」(『悦ばしき知』§288)。たとえばサッカーをやっていて「今日のオレはいつもとちがう。とんでもなくすごい。できないことはないんじゃないか」と思えるような、独特な集中感・高揚感・全能感をもつことがあるでしょう。音楽をやっているときにもそんなことがありますね。そうした高揚感がずっと持続している状態が、超人だということになります。

そしてニーチェはしばしば、そうした超人のことをものすごく強力な生命体のように語っています。ちょっとしたことでクヨクヨしたりしない、イヤやこともすぐ忘れてしまう、きわめて健康な生命体として。でも、そうした超人の姿はニーチェ思想の核心ではないとぼくは思います。

なぜなら、超人とは永遠回帰を受けいれる人だからです。苦しみも悦びもともに含めて自分の人生を肯定できる人が、超人なのです。これはつまり、自分の苦しみやルサンチマンに負けず、どうやって快活で高揚した方向に行けるかをそのつど考えて生きる人、ということになると思います。ただ「生物学的に強力」ということではなく、人生という困難なゲームに向き合ってそれを楽しみ快活に生きようとする、そんな知恵と勇気をもった人のこと、それを超人と呼べばいいのではないでしょうか。「生物学的に強力で高揚感が持続する」というのはちょっと無理ですけれど、そのつど考えて快活に生きようとすること、だったら目指すことができそうですね。そちらを目指してみてはいかがでしょうか。

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