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ハテナ?のメール箱の回答。皆さんからお寄せいただいた“ハテナ?”のメール。番組では、代表的な質問や、多かった疑問を、講師の先生にお聞きしました。

第1回「ツァラトゥストラ」編 西研さん回答!

Q

やまとん さん(20代・男性・東京)

東京に住む学生です。
永遠回帰の思想、とても興味深かったです。
しかし、東日本大震災を経験した今、その思想を頭で理解することは出来ても、身をもって受け入れることはとても難しいと思います。

私のまわりにも、家族や親類が被災した、という友人が結構います。そんな被災した人たちを前に、永遠回帰の思想や超人について説くことは可能なのでしょうか。(ニーチェならどう声をかけるでしょうか。)

A 西研さんからの回答。

やまとん さま

とても大事な質問ですね。やまとんさんと同じように感じている方は、たくさんおられると思います。永遠回帰の思想とは、<悦びも苦しみを含んだこの人生を何度も永遠に繰り返すことを、君は欲しうるか?そのためには君は、苦しいことにもイエスといえるのでなくてはならない>と語りかけてくるものでした。しかし、「じゃあ震災も受け入れろということか?冗談じゃない!」と反発する方もおられるでしょう。やまとんさんは、「この永遠回帰の思想は、ほんとうに生き方の思想として通用するのか?」という疑問をお持ちなのでしょう。
でもなぜ、ニーチェは「苦しみを受け入れなくてはならない」というのでしょうか。そこからもう一度考えてみましょう。

受けとめがたいマイナスなこと(震災のような事件だけでなく、親が不仲で雰囲気の悪い家庭に生まれ育つしかなかった、なども含まれます)が起こってしまった。このことは自分の力でどうにもなりません。時間軸を巻き戻すことはできないからです。しかし多くの人がそれを受け入れられず、恨みます。「なぜ私(たち)だけがこんな目に」「こんなことさえなかったら……」と。ニーチェのいう<ルサンチマン>ですね。

このルサンチマン(恨み)の気持ちはごく自然なもので、まずはそれを発散することが必要です。ニーチェ自身も「祝福できない者は、呪うことを学ぶべきだ!」(『ツァラトゥストラ』第三部「日の出前」)といっています。しかし、恨みのなかにずっと埋没していると、二つの大切な人生に対する感覚を失ってしまいます。
1. 主体性の感覚の喪失—では、ここで自分は何を・どのようにやっていこうか、と前向きに問いかける気持ちを忘れてしまう。自分は自分の人生の主人公だと思えなくなってしまう。
2. 悦びの感覚の喪失—いままで生きてきたなかで、自分もささやかな悦びや深い悦びを受け取って生きてきたことを忘れてしまう。そして、いまの状況からでも悦びを受けとって生きよう、という姿勢をもてなくなる。
ルサンチマン(恨み)は、このようなことを招いてしまいます。もちろん、自分の人生は自分の人生ですから、恨み続けて生きるのもその人の自由かもしれません。しかし長く病気で苦しみ、ひどい失恋をも経験したニーチェは、恨んで生きたくない、主体性と創造性と悦びを感じて生きていきたいと強く願った。そのためには、起こってしまったことを認め受け入れるしかない、と考えたのです。そうした思いから、永遠回帰の思想も生まれたのです。

ですからニーチェは、「震災も受け入れなくてはならんぞ」とただお説教するようなことはしないでしょう。「君が主体性と悦びをもって生きていきたいと願うのなら、時間はかかっても、震災が起こってしまったことを受けとめなくちゃいけない。やっぱりそういうことになるよね」と、ニーチェならいうでしょう。
震災を経験された方のなかにも、「恨みや後悔なんかに負けてられない、どうやって前に進むかを考えるんだ」と自分に言い聞かせている方もおられるのではないでしょうか。そういう方々は、まさにニーチェ的な生き方をしようとしているのだと思います。
しかし一点、ニーチェの思想には足りないところがあります。「どうやったら受け入れていけるか」についてきちんと考えていない点です。ニーチェのなかには、雄々しくがんばって苦しみを受容していくんだ、というヒロイックな感覚が強くあります。でもそれには無理がある。震災は多くの方にさまざまなショックや後悔を与えたことでしょう。そうした経験と思いを互いに語り合うことが、苦しみを受容していくためには大切だとぼくは思います(一人ずつの個別の心理的なケアよりも、有効かもしれません)。ようするに、一人だけでがんばらないほうがよい、と思うのです。
その点を補いさえすれば、震災のような受けとめがたい事件のときにこそ、ニーチェの主体性と悦びに向かう思想は大切だと、ぼくは思います。やまとんさんの疑問にうまく応えられていればよいのですが。

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Q

ユトカ さん(23歳・女性・大阪)

私は一昨年、芸大を卒業し、今は障がい者福祉サービス施設で働いている23歳です。
今回東北で起きた東日本大震災に対して、日本全体が大きなショックを受けたにも関わらず、(自分が?周りが?)あまり変わらずに普段通りの生活を続けていることに、少しだけ違和を感じています。人が変わらない事の背景には、どのような考え方があるのでしょうか?ニーチェのような“思想”や“哲学”というのは、もっと強くこの国に、根底を支えるものとして広まっていくことはないのでしょうか?

A 西研さんからの回答。

ユトカ さま

東日本大震災が起こったのに、震災に会わなかった人たちはまるでそんなことがなかったみたいに、普段通りの生活を続けていっているように見える。このことにユトカさんは違和感をもっておられるのですね。その違和感の中身をもっとお聞きしたいところですが、たとえばこんな感じでしょうか?—「なんで困っている人たちに協力しようとしないんだろう。もっと慌てた顔ぐらいしたっていいんじゃない?私も仕事さえなかったらほんとは駆けつけたいよ。こんなすごいことが起こっているのに、みんな他人のことなんか関心ないのかなあ」と。
もしこんな感じだとしたら、ぼくはややちがった感触をもっています。むしろ、自分の親族や知り合いが直接に被害を受けたわけではないのに、この事件に胸を痛めたり何かできないかなと思った人がたくさんいたように感じています。普段通りに生活しているように見える人も、心のなかにはそういう気持ちがあったのではないでしょうか。そして個人的に義捐金を出したりしているかもしれません。
そもそも、普段通りに生活することをぼくは決して悪いことだと思わないのです。自分の生活のために働くことは、なんといっても大事なことですから。この点について、少しお話ししてみます。

「自分のため」(私利私欲)と「他人のため」(利他)というふたつがありますが、たいていの宗教が「利他」の姿勢を大衆に説いてきました。しかし、<自分を投げ出して(私利に×をつけて)他人のためにとことん尽くす>という姿勢こそが真に素晴らしい生き方であって、だれもがそうなっていくのが望ましい、といえるでしょうか。

ニーチェは、利他主義の宗教や道徳を批判した人です。それらは「他人に尽くせ」を強調することで、「自分はどうやったら元気になるか」「自分にとっての悦びとはどういうことか」を考えさせなくしてしまう。正しい生き方をあらかじめ決めてしまって、各人が自分なりの価値観を育てていくことをできなくさせる、と考えたのです。
とはいっても、ニーチェは他人のために何かすることを否定しているわけではありません。自分にとっての悦びとは何か?とよく考えてみたら、他人の苦しみや必要に手をあてるようにして応えてあげる、そうした交流し共振する悦びが自分にとってはいちばん大事だ、と思う人もいるかもしれない。ボランティアをする人は、「他人のため」と「自分のため」を二者択一にせず、他人のために何かしてあげるときに感じる自分の悦びを追求しているのかもしれません。
哲学(文学もそうですが)は、自分の魂を気遣うための一つの方法だと、ぼくは考えています。何が価値あることなのかを互いに語り合うことで、他人の魂にふれ、自分自身の魂にも向き合っていく。ソクラテスが実践した対話の哲学とはそのようなものでした。
ひょっとすると、ユトカさんが危惧しておられるのは、現代を生きる多くの人たちが互いの魂のことを考えあうこともなく生きているように見える、そういう点かもしれませんね。しかしほんとうは、だれもが心の底では、「よい生き方」を求め「互いのあり方にふれたい」と思っているのかもしれません。でも、言葉や行為を通じて互いの魂に触れるような機会がなかったり、また、話し合っていく仕方を知らなかったりします。
ですからぼくは、ソクラテス以来の哲学のやり方をこの社会に蘇らせたいなあ、と思っているのです。知識としての哲学ではなく、互いを感じ取りともに考えあうような、そんな哲学を。ユトカさんも、そういった関わり方を求めておられるのかなあ、と思いました。ご質問、ありがとうございました。

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