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名著、げすとこらむ。

◯「ツァラトゥストラ」ゲスト講師 西 研
人間は“創造的”に生きよ

十九世紀ドイツの哲学者ニーチェの主著『ツァラトゥストラ』は、正確に訳せば『ツァラトゥストラはこう言った』という四部構成の書物です。書かれたのは一八八三年から八五年、ニーチェが四十歳前後のころです。この本は彼自身にとって、とても重要な意味をもつ本でした。「かつて人類に贈られた贈り物のなかでの、最大の贈り物」(『この人を見よ』序言§ 4)と後に述べたほど、大きな自負をもっていたのです。この後に書かれた彼の書物は、すべてが『ツァラトゥストラ』に込められた思想をもう一度自分で詳しく解説するといった趣があります。

しかしながら当時、この本はまったく売れませんでした。とくに第四部は、最初は自費出版で四十部を印刷し、友人に配ったのみだったといわれています。そんな本がその後、現在にいたるまで非常に大きな影響を与え続けています。それはいったいなぜなのでしょうか?
第一に、「私たちはどうやって生きていけばよいのか」という問いについて、これほどまっすぐに記した哲学書はほとんどない、ということがあります。意外に思われるかもしれませんが、哲学書では「認識」や「善悪」の問題などは詳しく扱っていても、人が悩みや苦しみを抱えたときにどう生きるか——いわば泥臭い、でもとても大事な問題——を正面から扱っているものはそれほど多くはありません。『ツァラトゥストラ』は、生きる姿を真摯(しんし)に問うている珍しい本で、読むと胸を打つものがあります。

この点に関わるニーチェの有名な言葉に、「ルサンチマン」というものがあります。これはフランス語ですが、「ねたみ」や「うらみ」の意味です。たとえば「なんで自分はもっと容姿に恵まれなかったのか」「なんで、自分たちばかりがこんな不況のなかで就職活動をしなくちゃいけないのか」といったようなことです。「もし違った環境ならば、自分ももっと幸せだったはずなのに」という「たら・れば」の気持ちを抱えることは、人間だれしも経験があることでしょう。しかし、ニーチェにいわせれば、この思いをずっと抱えていると、なにより自分自身を腐らせてしまいます。「では、この状況のなかで私はどう生きるか」という前向きの気持ちをもてず、受け身の姿勢になってしまいかねない。

ニーチェの人生も、不遇でした。その不遇をどう受けとめて、どうやって力強く創造的に生きるか。ニーチェはこのことを、ほんとうに深く問うています。その言葉は、現代を生きる私たちにも届いてきます。
『ツァラトゥストラ』が大きな影響を与え続けている理由は、もう一つあります。それは、この書物が、まさに「現代」の課題に答えを出そうとしたものだからです。

現代という時代のなかで、私たちには「これこそ価値あるものだ」というもの、つまり理想や夢が与えられていません。かつて二十世紀を生きた人々は、「科学技術の進歩によって人類は幸福になる」(進歩主義)、「市場経済をストップして計画経済にすることで人類は幸福になる」(社会主義)などの理想を信じてきました。また高度経済成長期の日本人は「欧米に追いつけ追い越せ」という夢をもってがんばっていました。しかしいま、私たちは、どちらに向かっていいかよくわからない。何が大切な価値ある生き方なのかもわからない。だから、なかなか元気が出ない。

このような状態のことを、ニーチェは「ニヒリズム」と呼んでいます。「ニヒル」とは「無」の意味で、ニヒリズムとは「これが大事だ」という信じられる価値を見失ってしまうことをいいます。ニーチェはある遺稿のなかで、「私はこれからの二世紀の歴史を描く。ニヒリズムの到来は避けられない。この未来はすでに百の徴候のうちにあらわれている」といっています(『力への意志(*)』序文§ 2)。この言葉は十九世紀末に書かれたものですが、ニーチェはまさに私たちの生きている現代を正確に予言していました。何を信じてよいかわからないこの世の中で、人間はどうやって生きていったらよいかということ、これが『ツァラトゥストラ』のもっとも大きな主題といってよいのです。

ニーチェの答えについてはこれからお話ししていきますが、あえて一言でいうならば、「固定的な真理や価値はいらない。君自身が価値を創造していかなくちゃいけない」というものです。自分がどんどん楽しくなってくる、アイデアや想いが溢れてくる、そんな方向を自分で見つけて行かなくちゃいけない、と。ニーチェはこのニヒリズムの時代に“創造”する生き方を私たちに提案したのです。それこそが「人類への贈り物」だと信じて。

*「力への意志」は晩年のニーチェ思想の鍵概念で、どんな生命体にも共通する根源衝動のこと。それは単に自己保存を目的とするだけでなく、よりパワーアップしようとする本性をもつ、とニーチェは考えた。ちなみに、彼が一八八五─八八年に書き溜めた断章(遺稿)の一部を、後に妹エリーザベトが恣意的に加工して『力への意志』という書物をつくりあげたが、現在ではこれはニーチェ自身の著作とはみなされていない。しかしここでは便宜的に『力への意志』の節番号を付しておくことにする。

西 研(にし・けん)
哲学者・東京医科大学教授

プロフィール 1957年、鹿児島県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了。京都精華大学助教授、和光大学教授を経て現職。主な著書に『ヘーゲル・大人のなりかた』(NHKブックス)、『哲学のモノサシ』(NHK出版)、『実存からの冒険』『哲学的思考』(ちくま学芸文庫)、『集中講義 これが哲学!——いまを生き抜く思考のレッスン』(河出書房)など、共著に『よみがえれ、哲学』(NHKブックス)、『完全解読 ヘーゲル「精神現象学」』(講談社選書メチエ)、『超解読!はじめてのヘーゲル「精神現象学」』(講談社現代新書)などがある。

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