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これまでの放送 2017年6月23日(金)の放送

埴生の宿~「日本人の心」になったクラシック~ 名作映画「ビルマの竪琴」のクライマックスで歌われるなど、
日本人が親しんできた「埴生の宿」。
元はイギリスの「ホーム・スウィート・ホーム」という
オペラの中の曲でした。この歌が、どのようにして
日本人の心をつかむ曲になったのか。
そこには明治時代の人々が歌に込めた思いがありました。
埴生の宿~
「日本人の心」になったクラシック~
名作映画「ビルマの竪琴」のクライマックスで歌われるなど、日本人が親しんできた「埴生の宿」。元はイギリスの「ホーム・スウィート・ホーム」というオペラの中の曲でした。この歌が、どのようにして日本人の心をつかむ曲になったのか。そこには明治時代の人々が歌に込めた思いがありました。

世界に広まったオペラの歌

「みすぼらしくともわが家に勝るものはない」と歌う「埴生の宿」は、昔から日本人の心をつかみ、歌い継がれてきました。この原曲「ホーム・スウィート・ホーム」は、実はイギリスのビショップが作曲した「クラリ」というオペラの中の1曲。宮殿暮らしをすることになったヒロインのクラリが、貧しくとも満ち足りていた故郷の家を懐かしむという内容です。1823年にオペラが上演されるとこの歌はたちまち大ヒット。「わが家」を歌うこの歌は、多くの人が家を持つようになった開拓時代のアメリカで特に人々に浸透し、広く歌われることになったのです。

「日本の歌」ができるまで

「ホーム・スウィート・ホーム」がどのようにして「埴生の宿」になったのか、「ポカスカジャン」の3人が東京藝術大学へ。 明治初期、アメリカで音楽教育の必要性を学んだ官僚の伊沢修二は、東京藝大の前身、音楽取調掛という機関を設置し、教材として「唱歌集」を作成します。伊沢は、当初は西洋の音楽のメロディーに、日本的な歌詞をつけて唱歌を作ります。その中の一曲こそ「埴生の宿」でした。「埴生の宿」は明治22年に発行された「中等唱歌集」の中に採用。古い言葉で「みすぼらしい家」という意味を持つ「埴生の宿」ですが、この言葉が意味していたのは明治初期の日本そのもの。西洋に比べて物質的に劣っていても、美しい風土、精神的、文化的に豊かな日本を大事にしていこうという意味合いが込められていたのです。

美しき日本語の歌詞

林望さんが「埴生の宿」の歌詞を解説します。1番は桜が咲き誇り、鳥が鳴くのどかな春の景色に囲まれた「わが家」こそ豊かで 心のよりどころになる場所だと歌い、2番では秋の夜、美しい月光が差し込む窓辺で虫の声を聞くという場面が歌われています。さらに、解説に登場した森麻季さんは、「語頭にアクセントのつく日本語の歌詞は一つ一つはっきりと、言葉がつながるような英語の歌は流れるように」と、歌い方の違いを説明しました。
写真:(左)1番(右)2番

ゲスト

林 望(国文学者、作家) 林 望(国文学者、作家)

林 望(国文学者、作家)

ケンブリッジ大学客員教授、東京藝術大学助教授を歴任。
イギリスの音楽や文化に詳しく、自身も作詞を手がける

楽曲情報

「ホーム・スウィート・ホーム」
「埴生の宿」
ビショップ
ペイン
里見 義
三宅一徳
森 麻季(歌)、山岸茂人(ピアノ)

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