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これまでの放送 2015年4月25日(土)の放送

モーツァルト 勝負をかけた名曲集 クラシック界の 寵児 ちょうじ ・モーツァルト。
「天才」「天真爛漫」と謳われ、苦労とは無縁のイメージが強いモーツァルトですが、実は幾度となくピンチに見舞われた人生を送りました。今回は数多くのモーツァルト作品の中から、“天才”が音楽の都で生き抜くため、人生の節目で世に打ち出した、3つの勝負曲をご紹介します。
モーツァルト 勝負をかけた名曲集
クラシック界の 寵児 ちょうじ ・モーツァルト。「天才」「天真爛漫」と謳われ、苦労とは無縁のイメージが強いモーツァルトですが、実は幾度となくピンチに見舞われた人生を送りました。今回は数多くのモーツァルト作品の中から、“天才”が音楽の都で生き抜くため、人生の節目で世に打ち出した、3つの勝負曲をご紹介します。

ピアニストからの脱却…本格派「作曲家」への挑戦!

25歳で音楽の都・ウィーンに渡ったモーツァルトは、まず自身が作曲したピアノ曲を披露するコンサートで活躍しました。公演は評判を呼び、皇帝や貴族を魅了しました。しかし、モーツァルトは「天才ピアニスト」と認識されるのではなく、「作曲家」として認識されることを望んでいました。そこでモーツァルトは、尊敬する作曲家・ハイドンに倣い、高度な作曲技術が必要とされる「弦楽四重奏」に挑戦します。早書きで知られるモーツァルトには珍しく、入念な推敲を重ね、2年後に発表したのが“ハイドンセット”とも呼ばれる「弦楽四重奏曲集」でした。

宿願・ウィーンオペラ界への進出

モーツァルトが活躍した18世紀前半、ヨーロッパのオペラはイタリア語が中心でした。幼い頃に本場・イタリアでオペラ修行に励んだモーツァルトにとって、イタリアオペラの作曲は悲願、その機会を伺っていました。しかし当時のウィーンはイタリア人作曲家たちが軒を連ね、宿敵・サリエリがオペラ界を牛耳っていました。そんな中、モーツァルトはようやくオペラ作曲のチャンスをつかみます。そして、従来のイタリアオペラの型を破る斬新な作品「フィガロの結婚」で、その世界に打って出るのです。それまで独唱と語り中心だったイタリアオペラに、モーツァルトは「重唱」を多用し、物語をよりドラマティックに展開させる演出に成功したのです。

生き残りをかけた勝負の一曲

1787年以降、ウィーンは戦争の影響を受け、物価が高騰し、市民の生活は困窮していきました。モーツァルトら音楽家たちの活動の場も激減。さらに、最大のパトロンであった皇帝ヨーゼフ二世が逝去し、新たに皇帝になったレオポルト二世はモーツァルトにも音楽にもあまり興味を示しませんでした。モーツァルトは作曲しても発表の機会がなく、多額の借金に追われていました。そこで活路を見出したのが、新皇帝が唯一擁護した「教会音楽」でした。そんな中、匿名で「レクイエム(鎮魂歌)」の依頼が舞い込みます。モーツァルトはこれを足掛かりに、「教会音楽家」として再スタートすべく、意気込んでこの作曲に取り掛かりました。しかし、すでに病魔に侵されていたモーツァルトは、冒頭の一曲とわずかなパートを書き残したところで力尽きてしまったのです。

こぼれ話

モーツァルトに「レクイエム」の作曲依頼をしたのは、後に貴族のシュトゥパパ伯爵だと判明。伯爵はプロの作曲家に曲を書かせて、自分の曲だと偽って発表する趣味があった人物のよう。ただ、この時は作曲中にモーツァルトが亡くなってしまいます。しかも、モーツァルトの遺族による追悼演奏会が開かれた際、先に「レクイエム」が演奏されてしまいました。哀れな伯爵はその事実を知らないまま、その後に開いた演奏会で曲を演奏してしまったそうな…。

ゲスト

時代と向き合って闘いつづけた生涯だったのでは…。

時代と向き合って闘いつづけた生涯だったのでは…

山本耕史(俳優) 山本耕史(俳優)

山本耕史(俳優)

profile

舞台でモーツァルト役を演じ
その生涯に共感

楽曲情報

①「弦楽四重奏曲」から
≪不協和音≫第1楽章
②歌劇「フィガロの結婚」序曲
③「レクイエム」から
「涙の日よ」
モーツァルト

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