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参考資料:『戦争と平和の詩』

茨木のり子について

1926年(大正15年)生まれ。十代後半を、太平洋戦争の最中に過ごした。愛知県の女学校から、東京の専門学校に進み薬学を学ぶ。しかし東京での寮生活は食事も満足になく空襲で学校も寮も焼けてしまうような状況だったとエッセイに書いている。海軍の薬品製造工場へと動員されていたとき、戦争が終わる。戦後は、文学への思いが募り、戯曲に取り組むかたわら詩を書き始める。1953年、詩人の川崎洋氏と同人詩誌「櫂(かい)」を創刊。以後、谷川俊太郎、吉野弘、大岡信らが参加し、日本の詩の潮流を作る。
時代や社会、自分自身をまっすぐ見つめて、力強くしなやかな言葉に綴り、女性を中心に、読者の共感を呼んできた。詩集に『見えない配達夫』『自分の感受性くらい』『寄りかからず』、エッセイ・評論『言の葉さやげ』『詩のこころを読む』など。2006年2月没。

詩「わたしが一番きれいだったとき」について

詩集『見えない配達夫』(1958年)に収録されている。

原民喜について

小説家・詩人。1905年(明治38年)広島市に生まれる。1932年慶應義塾大学文学部卒業。在学中より創作活動を始める。少年時代の思い出など、幻想と現実を行き来するような作品が多い。27歳で結婚。妻の貞恵は、当時まだあまり知られていなかった民喜の才能を信じ、励ました。また、極端に人見知りで無口だった民喜を、社会生活の上でも支えていた。1944年、病気で貞恵に先立たれた民喜は、生きる意味を見失う。広島で被爆したのは、その1年後だった。無数の死に直面した民喜は、このできごとを書き残さなければいけないという使命感に打たれ、しばらく生き続けて小説や詩を書き残す。
被爆の体験を書いた自伝的な小説に『夏の花』『原爆以後』など。

「原爆小景」について

被爆から5年後の1950年に雑誌「近代文学」8月号に発表した。9つの詩の連作。8つ目の詩までは、カタカナと漢字を使い、被爆直後の生々しい光景を切り取っている。最後の「永遠のみどり」は、ひらがなで書かれ、未来への祈りが綴られている。
民喜は、この作品を発表した数ヵ月後の1951年3月、中央線の吉祥寺と西荻窪の間の鉄道に身を横たえ、自らの命を絶った。