にっぽん縦断 こころ旅
熊本県八代市、故郷のまだ見ぬ風景
火野正平様、スタッフのみなさま
いつも楽しい旅に連れていっていただき、ありがとうございます。
「生まれ変わったら、こんなふうに自転車に乗れる人になりたいなあ」と、つぶやきながら、拝見させてもらっています。
私が見たいと願っている風景は、熊本県八代市の白百合八代中学(今は移転して跡地になっているそうです)から、文政村の加藤神社に向かって自転車で通う道です。
私は、戦争が終わったとき、9歳でした。中学生になったころ、サイクリングという言葉がはやるようになり、自転車を持っている友だちは、連れだって出かけるようになりました。
私も流行の女性用の自転車がほしかった。父に頼みましたが、倹約家の父は、「きっとお前はすぐに飽きる。まず、父ちゃんの自転車で練習して、乗れるようになったら、買ってやる」と言うのです。でも、その父の自転車というのは、当時の男の人が配達の仕事や通勤で使っていた、あの黒々として、荷台が大きいごっつい自転車。サドルの前のフレームが三角なので、足を後ろに上げて乗る「男乗り」しかできないし、身長が150センチに満たない私には、ペダルが下にいくと、足が届かない。立ちこぎみたいな姿勢しかとれません。結局、私は自転車に乗れないままでした。
そんな中学2年生のころ、学校に通う道で、毎朝、決まって見かける新入生の女の子がいました。自転車通学グループのいつも一番うしろについて走り、歩いている私を自転車で追い抜いていきます。彼女が乗っているのは、黒い男自転車でした。体を左右に大きく傾けながら、サドルにお尻をこすりつけるように一生懸命にこいで来るのです。いつもニコニコと、少し恥ずかしそうな笑顔を浮かべていました。
私が父の自転車に乗ったら、そうなるだろうなと思う、恥ずかしい乗り方そのものでした。
それから一年くらいがたち、しばらく通学路で彼女の姿を見ないな、と思っていた春の盛りのころ、学校で追悼式が開かれました。結核で亡くなる人を見送るのが日常の時代でした。
亡くなったのは、黒自転車の彼女でした。追悼式で、彼女の家が加藤神社のすぐ近くだったと聞き、びっくりしました。以前その神社に、汽車と歩きで、やっと訪ねたことがあったからです。あんな遠くから、毎日、往復していたのか--。彼女があの黒くて重たい自転車を、雨の日も嵐の日もこいで来ていたのを思い出し、私は初めて、自分が恥ずかしいと思ったのです。
あの子が通っていた道を、いつか自転車でたどってみたい。
自分の宿題にしていましたが、高校を出てから上京し、めったに故郷に帰れぬ人生になりました。自転車にも乗れぬまま、今や、81歳。残りの年月を数える年になりました。
正平さん、彼女が自転車で通ったであろう道を、だとってみてはくださいませんでしょうか。
今ではバイパスも通ったと聞いているので、昔と風景はだいぶん違っているとは思いますが、あのころを思い出しながら、13歳の彼女が走っていた景色を見てみたい。学校に通うことだけが、未来に続く明るい場所に思えた時代をたどってみたいです。
川崎市 北村幸代 拝
81歳、女
P.S. 私の育った家は、毘舎丸という町にあり、八代市のまん中の白百合八代中学校に向かって歩く私を、いつも彼女の自転車が追い越してゆきました。
神奈川県川崎市
北村幸代さん(81歳)からのお手紙