陸前高田市の高校に通っていた直俊さん。津波に襲われ、震災から9日後に遺体が見つかりました。
間もなく9年になりますね。
私自身、忘れようと思いながら過ごした9年であり、何かを伝えなければと思いながら過ごした9年でもあったとも思います。
人それぞれの9年があるように、私自身も葛藤の中で過ごしてきた9年であり、これからも続いていくと思います。
この9年間、毎朝の写真へのあいさつや仏壇へ線香をあげること、何一つとして変わったことはありませんでした。写真の中からほほえむ直はいつも同じです。
私が楽しくても辛くてもいつでも「父ちゃん大丈夫だよ」と言ってくれているような気がします。変わったのは私が年を重ねたことぐらいです。
直も生きていれば今年1月5日で26歳ですからいい大人になっていたことでしょうね。私も今年の3月で定年の歳になります。今は、定年後の進路について悩んでおります。
何を聞いても直は、「父ちゃんの好きなようにすればいいよ」と言ってくれるような気がします。
先日11日の新聞に陸前高田市は、令和2年度内に高田町の中心市街地にある「東日本大震災追悼施設」に震災犠牲者の刻銘版等を設置するにあたり、今月末まで遺族らの意向確認を行っている。
市は来年度、追悼施設を再整備するにあたり、犠牲者の名前を刻んだ碑の設置を昨年11月に決定。震災で亡くなった人の刻銘版を整備するのは、県内の自治体としては釜石市に続き2例目となりますとの記事が掲載されました。
私も家族と相談して、「申出書」を記入し市役所に届け出をしました。
今の私達に出来ること、直俊に関わることを最大限してやりたいとの思いからです。
添付書類の遺体検案書、死亡届を改めてみた時、9年前のあの日の事が鮮明に思い出され涙が止まらなくなりました。
親として守らなければならなかった者を守れなかった悔しさ。失ったものがどれだけ大きなものだったかが、改めて思い知らされました。
今の私の生きがいは、熊本に住む少年、健翔君との交流です。
最初に熊本を訪ねた時は小学校1年生のあどけない少年でしたが、今は4年生になり、ひらがなだらけのお手紙は、今では漢字も少し増え文章も少し長くなってきました。
今年届いた年賀状は、私の名前は全てひらがななのに自分の名前は全て大きな漢字で書かれておりました。
一昨年私の家を訪れた時、仏前で一瞬黙り込んでしまった健翔君の表情を今でも覚えています。あの時健翔君は何を思ったのでしょうか?
この少年を思う時、必ず直のことが思い出されます。