あの日、そして明日へ

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中島久子さん(なかじま・ひさこ/当時74歳) 福島県南相馬市

夕食の買い物のために車で出かけた時に地震の揺れを感じ、家に残っていた孫を心配して戻り津波に巻き込まれたとみられます。

※福島民報社の冊子「ハイッ!みんぽう」に掲載された写真を許可を得てページに掲載。

震災から12年を迎えて

長男の眞一さんより

母ちゃんへ
この12年間を振り返ると、嬉しいこと、楽しいこと、苦しいこと、悲しいこと、いろいろありました。

今年は定年になり再雇用制度で65歳まで横浜で仕事ができると思っていたのですが、転勤の辞令が出て神奈川県の松田町になりました。60歳で新しい事を覚えるのが難しく厳しい状況です。(なんで、60歳過ぎて異動?)いっそのこと、退職しようか?母ちゃんに相談しても返事が帰って来ないし何だか涙が出てきて悲しくなりました。そう言えば、生前、母ちゃんが「生きていれば何とかなる」と言っていたことを思い出しました。そうだね“生きてるだけで丸儲け”だよね。悔いの残らない生き方をしたいと思います。

新型コロナウイルスが収束して自分の役割が果たせたならば、妻と共に日本中の温泉巡りをしたい。それが、今の自分の夢です。

本当にいろいろあった。生きて行くって大変だなぁー、母ちゃん。

眞一

震災から11年を迎えて

長男の眞一さんより

母ちゃんへ

あれから11年、静岡県三島市に自宅を再建、ここを息子たちの第2の故郷に、そして終の棲家に決めて6年になりました。
南相馬市小高区館山の共同墓地にお墓を再建し、
母ちゃん父ちゃん、じいちゃんばあちゃん、健二の納骨・法要も終了しました。

この11年を振り返ると、家族が行方不明・放射能からの避難・その日のごはん・ ガソリン不足・これからの生活・学校・仕事など不安要素がいっぱいで、決断の連続だったように思います。
家族としっかり話し合い、これからの方向性を確認して、ゆっくり確実に前に進むことを考えていた気がします。
焦らず、ゆっくり確実に、一歩ずつ前に進んでいくことを震災から学んだような気がします。

貴布根神社で、お神楽ご奉納をしたり盆踊りをしたり、母ちゃんは田植え踊りをしていたことをよく覚えています。
館山の崖下では、母ちゃんが海の恵みを拾って来て食卓に上っていたことを思い出します。
恵みの多い海に育てられたことを忘れません。
そんな故郷を捨てなければならなくなったのは、今でも残念に思っています。

嬉しいこと、楽しいこと、苦しいこと、悲しいこと、いろいろありました。
これからは、悔いの残らない生き方をしたいと考えています。
自分の役割が果たせたならば、妻と共に日本中の温泉巡りをしたい。
それが、今の自分の夢です。

母ちゃん、見守っていてください。

震災から10年を迎えて

長男の眞一さんより

母ちゃんへ
あれから10年、静岡県三島市に自宅を再建、ここを息子たちの第2の故郷に、
そして終の棲家に決めて5年になりました。南相馬市小高区館山の共同墓地にお墓を再建し、父・弟の葬儀と納骨、母・祖母の法要も終了しました。

この10年間を振り返ると、家族が行方不明・放射能からの避難・その日のご飯が食べられず、ガソリンも無く、これからの生活・学校・仕事など不安要素が一杯でどうしていいのかわからない状況。決断してまた決断の連続だった様に思います。家族でしっかり話し合い、これからの方向性を確認して、ゆっくり確実に前に進むことを考えていた気がします。焦らず、ゆっくり確実に、一歩ずつ前に進んで行くことを震災から学んだような気がします。

貴布根神社で、お神楽ご奉納をしたり盆踊りをしたり、母ちゃんは田植え踊りをしていたことをよく覚えています。館山の崖下では、母ちゃんが海の恵みを拾って来て食卓に上っていたことを思い出します。恵みの多い海に育てられたことを忘れません。そんな故郷を捨てなければならなくなったのは、今でも残念に思っています。

嬉しいこと、楽しいこと、苦しいこと、悲しいこと、いろいろありました。これからは、悔いの残らない生き方をしたいと考えています。新型コロナウイルスが収束して自分の役割が果たせたならば、妻と共に日本中の温泉巡りをしたい。それが、今の自分の夢です。

本当にいろいろあった。

母ちゃん、見守っていてください。

眞一

震災から9年を迎えて

長男の眞一さんより

母ちゃんへ

あれから9年が過ぎました。昨年の8月22日に父ちゃんが老衰で亡くなりました。
84歳で3日前に好きだった刺身をうまそうに食べて「んめぇ~。」と満面の笑顔で話していたことを忘れられません。
昨年から今年にかけて忙しい出来事がありました。自分の左目がカスミがかかった感じと光がまぶしく感じたため眼科受診、緑内障発作を起こしていたことがわかり緊急で手術をすることになり動揺した。
手術して目が見えるのか?見えたとして、どんなふうに見えるのか?不安がいっぱいでした。

順天堂大学医学部附属静岡病院に紹介してもらい手術を受けることになったのですが、ボタンの掛け違いなのか?待たされて、今年の2月6日に左目を2月27日に右目を手術する事が出来ました。
手術の次の日にガーゼを外した時はビックリするほど見えなくて仕事を辞めなくてはいけないと思い涙が止まらなかったことを覚えています。
教授に「目で見るのではなくて脳で見るんだ。2か月ぐらいかかって見えてくる人もいる。」と言われ様子を見てみました。
本当に見えだしてきて、何とか日常生活が出来るぐらいになり復職を考えています。
母ちゃん、見守っていてください。
名前は出せないけど、元村上の住人が二人今年亡くなりました。天国で話していることと思っています。
9年も過ぎたんだなぁ~としみじみ思いました。

ここに書けない事も沢山ありました。前にも話したが、後悔しないように楽しんで生きて行きたい。
自分の役割を果たしながら、妻と温泉旅行に行きたい。これが自分の夢です。

母ちゃん 見守っていてください。

眞一

震災から8年を迎えて

長男の眞一さんより

母ちゃんへ

あれから8年、静岡県三島市に自宅を再建、ここを息子たちの第2の故郷に、そして終の棲家に決めて3年になりました。今年は弟の急死、親父が倒れて救急病院に入院し自力で歩行できなくなり要介護5で有料老人ホームに入所。何だか身体的にも精神的にも経済的にも苦しい年です。

 この8年間を振り返ると、家族が行方不明・放射能からの避難・その日のごはん・ガソリン不足・これからの生活・学校・仕事など不安要素が一杯で、決断と決断の連続だった様に思います。家族としっかり話し合いこれからの方向性を確認し、ゆっくり確実に前に進むことだけを考えていた気がします。焦らず冷静に、ゆっくり確実に一歩ずつ前に進んで行くことを震災から学びました。

貴布根神社で、お神楽ご奉納をしたり、盆踊りをしたことを忘れません。
母ちゃんが田植え踊りをしていたことを忘れません。
館山の崖下では、母ちゃんが海の恵みを取って一緒に食べたことを忘れません。
恵みの多い海に育てられたことを忘れません。
母ちゃんに「体が弱くなるから、食い物でケチるな」と言われたことを忘れません。
母ちゃんに愛情いっぱいで育てられたことを忘れません。
そんな故郷を捨てなければならなくなったことを忘れません。

 嬉しいこと、楽しいこと、苦しいこと、悲しいこと、いろいろありました。これからは、悔いの残らない生き方をしたいと考えています。自分の役割が果たせたならば、妻と共に日本中の温泉巡りをしたい。それが、今の自分の夢です。

 母ちゃん、見守っていて下さい。

眞一

長男の眞一(しんいち)さんより

母ちゃんへ

今年は大変忙しい年です。
5月に弟の健二が急死。9月に父ちゃんが救急車で搬送されて現在(要介護5)で施設に入所した。いろいろと大変なことが多く、ついつい愚痴が多くなっているように感じます。
子供たちは健康で元気に生活している。孫が増えそうな連絡もあり、うれしいことも多く、苦しい事や嬉しいことが入り混じった年になっている。

ゆっくりゆっくり確実に歩んで行こうと考えている。

それから、南相馬市に未練が無くなった。これからは終の棲家で楽しんで行くことにします。

母ちゃん天国で見守っていてください。

眞一

長男の眞一(しんいち)さんより

母ちゃんへ
あれから7年。静岡県三島市に自宅を再建、ここを息子たちの第2の故郷に、そして終の棲家に決めて2年になりました。
南相馬市小高区館山の共同墓地にお墓を再建し、母と祖父の納骨・法要も終了しました。

この7年間を振り返ると、家族が行方不明、放射能からの避難、その日のごはん・ガソリン不足、これからの生活・学校・仕事など不安要素がいっぱいで、決断の連続だったように思います。
家族としっかり話し合い、これからの方向性を確認して、ゆっくり確実に前に進むことを考えていた気がします。焦らず、ゆっくり確実に、一歩ずつ前に進んで行くことを震災から学んだような気がします。

貴布根神社で、お神楽ご奉納をしたり盆踊りをしたり、母ちゃんは田植え踊りをしていたことをよく覚えています。
館山の崖下では母ちゃんが海の恵みを拾ってきて、食卓に上っていたことを思い出します。
恵みの多い海に育てられたことを忘れません。そんな故郷を捨てなければならなくなったのは、今でも残念に思っています。

嬉しいこと、楽しいこと、苦しいこと、悲しいこと、いろいろありました。
これからは、悔いの残らない生き方をしたいと考えています。
自分の役割が果たせたならば、妻と共に日本中の温泉巡りをしたい。それが、今の自分の夢です。
母ちゃん、見守っていてください。

震災から6年半を迎えて

長男の眞一(しんいち)さんより

あれから6年半、静岡県三島市に自宅を再建、ここを息子たちの第2の故郷に、そして終の棲家に決めて1年4か月が過ぎました。

母ちゃんとの思い出の場所は、やっぱり村上の館山(たてやま)かな!
貴布根神社があって、お神楽ご奉納をしたり、盆踊りをしたり、母ちゃんは田植え踊りをしていたことをよく覚えています。
田植え踊りは福浦小学校の生徒に教えて「中島先生・・・」と呼ばれて嬉しそうに笑っていた母ちゃんの顔を思い出します。
ここに載せてある写真も、その時に写したもので、本当にうれしそうな写真です。
館山の崖下では、母ちゃんは海産物を取ってきて食卓に上っていたことを思い出します。恵みの多い海に育てられたことを忘れません。

昨年、母ちゃんの納骨、祖父ちゃんの法要を行いました。いろいろと忙しかったけど、なんとなく一区切りついたような、ホッとした思いです。
焦らず、ゆっくり確実に、一歩ずつ前に進んで行きます。

早いもので、震災から6年半。嬉しいこと、楽しいこと、苦しいこと、悲しいこと、いろいろありました。
震災が起きてから「思い立ったら、すぐ行動する」と考えるようになりました。「悔いの残らない生き方をしたい」と考えています。
自分の役割がすべて果たせたならば、妻とともに日本中の温泉巡りをしたい。それが、今の自分の夢です。

母ちゃん、見守っていてください。 眞一

(「思い出の場所」についてお聞きしました。)

震災から6年を迎えて

長男の眞一(しんいち)さんより

あれから、6年が過ぎようとしています。
発災直後は、何をどうしてよいのか?途方に暮れ唖然としていたように思います。

母親との突然の別れ。自分がこんなに泣き虫なのかと思う位泣きました。
家族の前では毅然として振る舞い、これからの方向性や可能性のことを何度も何度も話し合いました。まず、放射能から逃げることを最優先にしました。福島三春の避難所(ガソリン不足)、新潟で柏崎の友人宅(一週間ぶりに風呂に入った)、そして静岡県三島市(親戚の家にやっと着いた)に命からがら避難した覚えがあります。
夢であって欲しいと思いながら現実がひしひしと押し寄せ、それが大きな不安につながっていきました。

次に、仕事がなければ収入がなくなり生きていけなくなると考えました。自分は南相馬の職場に戻りました。
子供たちの再就職を探し、高3の三男の就学(半年間)、卒業。そして就職を進めて、それぞれ就職して自立しました。

今は、静岡県三島市に自宅を再建し横浜に単身赴任で仕事をしています。南相馬市小高区村上に、お墓を建立し母親の納骨と7回忌法要・祖父の33回忌法要を小高町で行い一安心しているところです。

震災によって大きく生活スタイルが変化し、部落や地域のつながりが希薄になり寂しいところもありますが、少しずつ新しい友人も増え、前向きに…いや、前だけを向いて一歩一歩進んで行きたいと考えています。

嬉しいことがありました。次男が結婚し孫が二人。今年の暮れに三男が結婚します。家族が増えることは何よりうれしいことです。
自分たち家族だけでは、立ち上がれなかったと思います。
支えていただいた全ての方々へ「感謝」を忘れないで生きていきたいと思います。

長男の眞一さんより

母ちゃんへ
今年の4月に静岡県三島市に中島家を新築した。外構工事が進まず、10月頃に何とか形になり生活を始めています。
今までは借り上げ住宅、仮設住宅を転々としていて 落ち着かなかったけど、やっとホッとできる居場所が見つかった感じです。
それから、今年の8月吉日 南相馬市小高区村上字館腰242番地村上字館腰共同墓地(旧ゲートボール場)に中島家のお墓を建立した。
他の部落の人たちのお墓は洋風でまた地震が来た時に倒れないように”とのことらしいが、中島家は和風のお墓にした 。(これは俺の拘りだ。)
今年の10月15日に母ちゃん(故 久子)の七回忌・納骨、祖父ちゃん(故 富衛)の三十三回忌を行った。母ちゃんの骨をお墓に納骨するときは涙が止まらなくなった。
なんだか、納骨ができて一区切りついた感じと苦しい事や辛い事を思い出して胸が詰まる感じが入り混じって、複雑な気分になったが、肩の荷が下りてホッとしているのが正直な気持ちです。
息子たちもそれぞれに就職し、次男は結婚し孫も二人。元気に頑張っている。三男は結婚したいなんて言ってるから、今度あちらの両親に会う様なると思います。
いろいろなことがあるが、ゆっくり確実に前に進んで行こうと考えている。あんまり肩に力を入れすぎないように楽しみを見つけながら歩んで行きます。
母ちゃん、これからも見守っていてください。

震災から5年半を迎えて

長男の眞一さん(51)より

母ちゃんへ
あれから5年半、静岡県三島市に自宅を再建した。
ここを息子たちの第2の故郷に、そして終の棲家にする。
中島家のお墓は今年の8月頃に南相馬市小高区村上の共同墓地に再建する。
そして10月15日に母親(久子)の納骨と7回忌法要・祖父(富衛)の33回忌の法要を南相馬市小高区で行う。
今年は自宅とお墓の再建・母と祖父の納骨・法要と忙しい年になりそうです。
焦らず、ゆっくり確実に、一歩ずつ前に進んで行きます。

早いもので、震災から5年半。嬉しいこと、楽しいこと、苦しいこと、悲しいこと、いろいろありました。
震災が起きてから「思い立ったら、直ぐ行動する」と考えるようになりました。
「人には寿命があります。自分の寿命が長いのか短いのかはわかりませんが、悔いの残らない生き方をしたい」と考えています。
自分の役割がすべて果たせたならば、妻と共に日本中の温泉巡りをしたい。それが、今の自分の夢です。
母ちゃん、見守っていてください。
眞一

震災から5年を迎えて

長男の眞一(しんいち)さんより

母ちゃんへ
あれから5年、いまだに避難生活(静岡県三島市の借り上げ住宅)は続いています。
昨年、静岡県に長男の就職が決まり、三島市に移住を決断。2015年10月に土地を購入しました。
今年は静岡県三島市に自宅を再建する予定です。ここを息子たちの第2の故郷に、そして終の棲家にします。
中島家のお墓は、南相馬市小高区村上の共同墓地に再建する予定で話を進めています。何事も初めてなので、村上行政区長様・金性寺住職様・葬祭センター様など皆さんに相談をして進めて行き、今年の10月頃に母親(久子)の納骨と7回忌法要・祖父(富衛)の33回忌の法要を南相馬市小高区で行いたいと考えています。
今年は自宅とお墓の再建、母と祖父の納骨・法要と忙しい年になりそうです。
焦らず、ゆっくり確実に、一歩ずつ前に進んで行くことを震災から学んだような気がします。

この5年間を振り返ると、家族が行方不明、放射能からの避難、その日のごはん・ガソリン不足、これからの生活・学校・仕事など不安要素がいっぱいで、決断の連続だったように思います。
家族としっかり話し合い、これからの方向性を確認して、ゆっくり確実に前に進むことを考えていた気がする。
震災の次の年に次男・三男は茨城県に就職。去年、長男が静岡県に就職が決まり一安心。

この震災で、まだまだ子供だと思っていた息子たちのたくましさを感じ、うれしく思ったことを思い出す。
これからも見守っていくが、親としての自分の役割をなんとか果たせたような気がします。
後は、息子達の故郷とお墓を再建すれば自分の役割は果たせることになると考えています。
自分の役割がすべて果たせたならば、妻と共に日本中の温泉巡りをしたい。それが今の自分の夢です。
母ちゃん、見守っていてください。

震災から4年半を迎えて

長男の眞一(しんいち)さんより

あれから4年半、いまだに避難生活(静岡県三島市の借り上げ住宅)は続いています。
長男が静岡県三島市に就職したので、三島市に移住を考えています。今年度中に土地を購入して、家(息子たちの故郷)を建てたいと考えています。
実際に土地探しをしてみると、地価が南相馬の自宅の6~10倍で、経済的にかなり厳しい現実が待ち構えていました。
家を建てるとなると、今まで考えたこともない価格になることがわかり、開いた口がふさがらない感じです。
防災集団移転促進事業に参加すれば補助金が受けられるのですが、それは福島県に戻る人しか利用できない。
防災集団移転促進事業で移転元土地買い取りがあるのですが、自分がそれに該当しているのかわからないところがある事と、買い取り地価が安すぎて、今後の事を考えると厳しすぎる現状です。
被災・罹災者が他県に移住を考えている方々も多いかと思います。自分も含めて、助けてほしいところです。

悲しいことがありました。
叔母(悦子)が5月9日に亡くなり、5月15日告別式・納骨に出席しました。
「小さいころにおむつを替えた」と叔母に聞いていたので、その叔母の骨を拾う時には悲しくて悲しくて仕方がありませんでした。
今ごろは、母ちゃんといろんな話をしているのかなぁー!と思います。
人生で初めて伊勢神宮に行ってきました。神秘的でパワーを感じました。何か“頑張れよ”と背中を押された感じがしています。
生きていれば、いろいろ大変な事もありますが、一段一段会談を上るように、ゆっくり生きていきたいと思っています。
母ちゃん、見守っていてください。

長男の眞一(しんいち)さんより

天国の母ちゃんへ
平成27年4月1日に裕人が静岡県三島市で就職した。
高校を卒業して就職し、1年も経たないのに会社が倒産。南相馬市原町区に就職したが、東日本大震災の影響で解雇され、静岡県三島市で就活していた。
今回、正職員として就職したので報告します。
これで、息子たち3人が就職した。ゆっくり確実に前に進んでいる。
これからの予定は、静岡県三島市に家を建てる。福島県南相馬市小高区村上の共同墓地に中島家のお墓をつくる(母ちゃんの生きた証を残すから)。
茨城県鹿嶋市に就職した悠也と将太の土地の購入の手助けをする。
この3点が終了すれば、親としての自分の役割は一区切り。あとは、良子と温泉旅行(できれば日本一周ぐらいしたい)に行きたい。
それが自分の夢です。

震災から4年を迎えて

長男の眞一(しんいち)さんより

あれから4年。県外に避難している人の中には、辛い思いをしている人たちもいるのではないかと思います。
それは、避難した地域の人と話すと「原発の賠償が入ったんだろう・・・」と言われ、福島の地元の人には「逃げて行ったくせに・・・」と言われ、だれにも相談できずに生活しています。
この頃は、避難していることを隠して生活している毎日で、ストレスがたまってしまい、夜中に起きると眠れない時があります。時には涙が止まらなくなることもあります。
今は、仕事をして忙しくしている時が一番楽です。楽というか、逆に考えないようにしていると言った方が良いかもしれません。
後ろを向くと、あの時、母親が行方不明なのに避難判断は間違っていなかったのか?家族の安全と安心は?自分の行動は?仕事に対する責任は?などを自問自答してしまいます。
結局、答えは出ず「ダメだ!ダメだ!このままじゃ自分がダメになる」と思い、考えるのをやめる。頑張って前向きに行こうと思いますが、なかなか難しいのが現状です。
これからは、前だけを向いて生きて行こうと思います。そうだ、平成24年7月に次男が結婚し、平成25年と26年には孫が誕生した。これがまた、かわいい。
三男は平成24年に就職し、18歳で社会人になった。親としての自分の役割はなんとか果たせた。そして息子達の故郷とお墓を作れば、自分の役割は果たせたことになると考えています。
自分の役割がすべて果たせたならば、妻と共に日本中の温泉巡りをしたい。それが、自分の夢です。

長男の眞一(しんいち)さんより

母ちゃんへ
ありがとう。裕人が就職試験に合格した。
裕人の背中を押してくれたんだね、本当にありがとう。
裕人の就職が決まったので、静岡県三島市に移住します。
ここから第二の故郷を作って行こうと思います。
もちろん、お墓は福島県南相馬市の舘山につくります。
自分もそこに入ることになるし、富衛爺ちゃん・キミ婆ちゃん・久子母ちゃんの生きた証を残すためです。
天国の母ちゃんへ
 

長男の眞一(しんいち)さんより

母ちゃんへ
裕人が、今年の1月10日に就職試験(1次試験)を受けて、1月16日に1次試験合格の発表があった。
1月24日に2次試験を受けた。合格発表は1月28日の予定。
2次試験の面接は緊張して、何も自分の思っていることが話せなかったみたいで、表情を硬くして帰宅し、部屋にこもってしまったので何も聞けない状態。
どうか、どうか、裕人の背中を押してあげてください。
天国の母ちゃんへ
 

長男の眞一(しんいち)さんより

母ちゃんへ
平成26年も今日で終わりだ。今年の12月12日に昭利叔父ちゃんのヨシ叔母ちゃんが85歳で亡くなった。
東日本大震災で、俺が福島市に避難していた時に昭利叔父ちゃんに「ここを実家だと思って、いつでも来なよ!」と言われ、家が流され途方に暮れていた俺は涙が止まらなかった。そしてヨシ叔母ちゃんには「腹減ってっぺ!食べろ!」と腹一杯、食べさせてもらったことが忘れられない。
花が好きだったことを聞いたので、お悔やみと生花で供養した。今頃は天国で一緒に話をしているころかな!
裕人が来年1月7日に三島市の職員試験を受験する。合格するように見守ってほしい。
悠也は家族4人で楽しく暮らしている。
将太は今年、車の事故を起こして事故処理が大変だった。
色々あった1年でした。来年は良い年でありますように 天国から見守っていてください。 天国の母ちゃんへ 眞一より
天国の母ちゃんに届くよう時々メールする。
(平成26年の年末に寄せていただきました)

震災から3年を迎えて

長男の眞一(しんいち)さんより

母ちゃんへ。

健二は工藤さんと楽しくやってる。
美樹は栃木県佐野市に避難している。
奈々子は結婚して子供が2人。
有一も結婚して子供ができた、外孫で一杯だな!
裕人は三島市で臨時職員として3年が過ぎた。
悠也と将太は鹿嶋市の新日鉄住金に就職して3年、頑張ってるぞ。
悠也は結婚、夢姫・暖馬ができた。内孫だな!

生きていれば、孫の所に行って楽しい日々だったろうなぁ~。
これから茨城県鹿嶋市に移住しようと考えている。
俺と良子がいなくなったら、兄弟3人で生きていけるようにと考えた結果だ。
お墓は小高区村上の舘山に作る予定だ。じいちゃん・ばあちゃん・母ちゃんの生きた証を残す。

天国の母ちゃんに届くよう時々メールする。

長男の眞一(しんいち)さんからのメッセージ

母親(久子)は、中島富衛・キミの間に生まれ、6人姉妹の長女として北海道の根室國で生まれ、キミが昭和42年に亡くなった後は、6人姉妹の母親代わりとして頑張ってきました。
昭和33年3月24日、菅頭功喜と結婚し2男1女を授かりました。
晩年は孫達に囲まれ、かわいがり、内孫に中島裕人・悠也・将太、外孫に安部奈々子・春菜・有一と本当に太陽の様に温かく、何かあればいつも寄り添っていてくれる安心感がありました。
平成12年8月14日、突然、多発性骨髄腫と診断され、余命6ヶ月の告知を受け、平成12年8月16日に宮城県立がんセンターへ入院。
治療を開始して奇跡的に回復し、完全寛解。その後は、車の運転も始めて、田植踊りや老人会などに積極的に参加。この写真は、田植踊りを福浦小学校の生徒たちに教えていたものです。

しかし、東日本大震災の津波で母が行方不明になり、2011年4月29日、DNA鑑定で母親を確認しました。家には内孫の悠也と将太が残っていて、母親(久子)は、夕食の買い物の為に車で出かけていて、心配で戻り、津波に巻き込まれたと思われます。

思い出がなくなり、母親(久子)の生きた証を残したいので、今回応募させて頂きました。
津波で家が全壊して写真(思い出)は何も残らず、葬儀をするにも遺影も作れずに途方に暮れていた時に、福島民報社の「ハイッ!みんぽう」に写真が掲載されたことを思い出しました。
福島民報社の担当の方に相談して、何とか遺影を作ることが出来ました。生涯忘れることができない恩人です。

中島久子さんへのメッセージ・写真を募集しています。

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