あの日、そして明日へ

こころフォト

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佐藤悟さん(さとう・さとる/当時82歳) 博子さん(ひろこ/当時73歳)
宮城県石巻市

津波のあと、博子さんは自宅で亡くなっているのが見つかりました。悟さんは安置所で見つかりました。

震災から11年を迎えて

長女の髙橋匡美さんより

私自身は「死後の世界」というものを信じていない。
死んだらそこで消えておわりなのだと思う。
私が死んだあと、父や母に会うことはできないと思っている。
でも矛盾しているとわかっているが、父や母が亡くなったあとに先に亡くなった母の母や、父の戦死した兄に会うことができていればと思う。

2021年の初夏に、震災後にひきこもりでねたきりになっていた私のそばにいつもそっといてくれた愛猫のソルトを13才7ヶ月で亡くした。
とても辛かったが、猫が好きだった母にかわいがってもらえればいいなと思った。
でもやはり、私は自分が死んでも先に亡くなった人達には会えないと感じる。

2015年から、かたりべとして(この表現キライなのだが・・・)活動し、英語でのかたりべにもチャレンジしている。
でも、今後続けていくべきかどうかいつも悩んで苦しんでいる。
49%のやりたくない気持ちと、51%のやりたい気持ちでかろうじて続けている。
突拍子もないかもしれないが、サンドイッチマンのお二人に私のスピーチを聞いていただき、伊達ちゃんにははげましをトミーにはダメだしをもらいたい。
続ける意味が見い出せなければ、いさぎよくやめて次の人生のステージを考えたい。

震災から4年を迎えて

長女の髙橋匡美(たかはし・きょうみ)さんより

2014年、NPO JEN主催の「メモリースピーチコンテスト」に参加させていただきました。
全国大会で銀賞をいただき、このたびご縁があって、ニューヨークの3月8日の祈祷会にてスピーチをさせていただくことになりました。

出場を決めるまで、かなり悩み、エントリーしてからも思い出すことがつらくて、原稿を書けずにいましたが、思い出し苦しみながら書き出し、ひとりで向き合い、人の前でそれを話した時に、 不思議なことに心がとてもすっきりしました。それは達成感とは少々違うたぐいのものでした。

この大会のゲスト審査員としていらしていた、東北学院大学教授の金菱清教授によると、先生がまとめられた71人の手記(「3・11慟哭の記録」)を書かれた方も、同じようなニュアンスのことを言われていたそうです。これを(記録筆記法)被災者が精神の平安を取り戻すために有効だったのだと、実感されたとのこと。

震災の辛い経験や、大切な人を失った痛みを、忘れたりのりこえたりするのではなく、共によりそい、共に生きることで、サバイバーズ・ギルトからの開放や、フラッシュバックやPTSDから救われると説いています。(「震災メメントモリ」)私もその本を知らずに、スピーチコンテストに参加し、それを実践し、実証・実感することになったのです。

孫の千葉颯丸(ちば・かぜまる)さんからのメッセージ

誰を恨めばいいの?
誰を恨めばいいの?
どんなに叫んだって、
どんなに思ったって、
どんなに泣いたって、

俺が小さい時から休みのたびに過ごしてきた、石巻市南浜町の面影も、その街に詰まった思い出も、じぃじもばぁばも戻ってこないんだよね。

2人の家に遊びに行くと、じぃじの目はさらに細くなって、ばぁばの笑顔はさらにキラキラ輝いて、いつも嬉しそうに迎えてくれた。
そうやって幸せに過ごした津波にも耐えて残ったあの家も今年の6月に取り壊されちゃったよ。
東南アジアでのボランティアから帰国して、なんにもなくなった場所に母に連れて行ってもらって、俺はしゃがみこんだまましばらく立ち上がることができなかったよ・・・。

ねぇ、俺はこれから何を支えに生きて行けばいいの?

1人で悩んでる時、母親が病気になった時、両親が離婚した時、いつも俺のことを一番に考えてくれてどこまで味方だったじぃじとばぁばだったのに。

震災の一週間前に、俺の家の近くに用事があってばぁばが来てくれたのに、試験勉強を理由に会わなかった俺。
俺は後悔した。
アンドレ・ギャニオンの「めぐり逢い」の曲を聞いて、部屋で1人、俺は声を殺して泣いた。

家から見つかったばぁばの長年の趣味である短歌の下書きを書いてあるノートの一番最後の歌は俺の歌だった。
“〈落ちる気がしないと 豪語して 深夜に学びし 我が受験生は〉”
それを読んで、俺はまた悔しくて泣いた。

でもね、俺は誰よりも強く生きていこうと思う。じぃじとばぁばの分も精一杯に。誰よりも強く、今この瞬間を生きていこうと思う。
それしか俺にはできないから。
だから、じぃじ、ばぁば、いつまでも見守っていてね。

娘の高橋匡美(たかはし・きょうみ)さんより

私達が石巻市南浜町にたどりつけたのは、3月14日のことでした。
日和山から見た変わり果てた故郷を目の前に、ショックで声も出ませんでした。
たくさんのヘリコプターの音、真っ黒な焼け野原となりあちこちで煙がくすぶり、焦げ臭い匂いに包まれて、山の坂道の途中までせりあがっている家や車「だったらしきもの」の残骸。私の隣で呆然としていた当時高校二年生だった息子が、ぽつりとひとこと、「ねえ、これって戦争のあと?」とつぶやきました。
それほどまでに衝撃的な光景だったのです。
津波でほとんどがなぎ倒され、焼けただれた住宅地の中で、私の実家はかろうじて残っていました。
泥と瓦礫と焼け焦げた家と砂に、何度も履いていた靴をとられながら一歩ずつ実家に向かいました。
周囲からは「危ないから行くな!」「何かあっても助けてあげられないぞ」と声をかけられましたが、あの時の私には自分の歩みを止めることができませんでした。
食いしばった口元で、歯がガチガチと震えるのが止まりません。
当時、父は足が思うように動かなくなっていたので、母は「地震がきたら二階に逃げるのが精一杯だわ」と言っていたので兎にも角にも散乱している家財道具を乗り越えながら二階にあがりました。
二階には天井から10cmほどのところまで津波の跡がついています。
でもそこには父母の姿はなく、胸をなでおろして帰りかけた時に、息子が「もう一度奥の廊下を見てみようよ」と言ったので、見に行って見たら、足元にうつぶせになって、きれいでおしゃれで明るくて、ちょっぴり天然で優しくて、私の大好きな自慢の母が、まるでボロ雑巾のように泥と砂にまみれて倒れていました。
二人でしがみついて、「お母さん!」「ばあば!」と何度も何度も叫びましたが冷たくなった母は答えてくれませんでした。
その辺に壊れて転がっていたふすま板に、引きずり出した母を横たえて、持って行ったペットボトルの水で母の顔を洗ったら、まるで眠っているような穏やかな顔で、今にも起き出してきそうな気がしてなりませんでした。
いつまでもそばにいたかったけれど、崩壊し電気など通っていない街は陽が落ちると真っ暗で、まだ、自分たちに何が起きているのか全くわからないまま再びもと来た道を戻るしかできませんでした。
ガソリンが切れるまで、ほぼ毎日それからも石巻に通い続け、腰が痛くなっても、父を探すために家の中や周辺をスコップで掘り続けました。
母の遺体が安置所に収容されたのは19日。
父の遺体が身元不明の遺体として安置所に収容されてそれを私が見つけることができたのは25日でした。
たくさんのご遺体を踏まないように気をつけながらまたいで歩き、父を確認しましたが、いつもニコニコと私や息子に優しかった父の顔しか知らないので、口をあけて蝋人形のようになった父親をぼんやり眺め続けていました。
でも、細くて長いきれいな指をしていた手は父の手でした。
父母の亡骸は、主人の尽力で、私の住む塩釜市の自宅のすぐ近くの葬儀社で安置させていただきましたが、はじめは母の遺体だけだった広いホールが、父の遺体が運び込まれる時には、棺が20は並んでいたでしょうか?
棺や骨壷、ドライアイスも不足しているという、異常事態でした。
そんな中、まだ現実を受け入れられないまま、4月1日に父と母を火葬することができました。

佐藤悟さん、博子さんへのメッセージ・写真を募集しています。

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