あの日、そして明日へ

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金野亨さん(きんの・とおる/当時75歳)岩手県陸前高田市

亨さんと妻のセツ子さんは自宅の2階に避難している時に津波に流され、亨さんが亡くなりました。2人で薬局を営んでいました。

震災から12年を迎えて

妻のセツ子さんより

陸前高田市は有名な松原海水浴で賑わう所、夏は県内外1日5万人、3万人と来る。
子供会、親子会の集い、松林、それが一瞬にて無くなり奇跡的に残った1本の松。今、枯れも残している。今、観光となっている。
髙田の町もかさ上げされたけど空き地は草が枯れ蒙くなっている。
でも大きいスーパーと食事所、パン、本、スポーツと衣食住には不自由のないことです。
髙田駅、銀行、市民会館、運動公園、震災で亡くなられた方の名前を刻んだ追悼施設、又、市民会館でのイベントもなく、3年ぶりの三陸花火競技大会と少しずつ戻ってきました。
又、観光客の電気自動車が走っている様です。
野球場、川原川公園散歩道あり、少しずつ復興が見られます。
今、新しい土地に住んで6年過ぎて7年目と成りますが、近所つき合いなし。
会話もなく過ごす毎日、震災前は春はお花見、夏は七夕、秋はお祭りとあり、賑わっていたことが今は1人で過ごす毎日、息子夫婦、孫達もいるけれど、皆それぞれの仕事、家庭があり忙しく。
でも、お盆にはお参りにくるし、一年の年越しには皆んな一緒に年越しをすること。
孫達の顔を見ること一番の楽しみです。

私は老化し、ひざ腰の痛みがあるけれど1人での生活は出来ることで3食作って食べること、
朝は主人にお茶と水を上げて、孫と、子供、私と今日も何事もなく守ってくださいと手を合わせお願いします。
夜は又、ねる前にも手を合わせて守って下さいと語りかける。
時には主人も夢にも出ることあり、ただ「黒いかげだけ」目がさめる。
今私も元気で何年生きられますかと考える日々です。

震災を知らない世代に伝えたいメッセージはむずかしいこと。 震災はいつどこで何がおきるか知らない出来事です。
まずは身を守ること、外に出る、机の下に、頭を守る。
出来ることは、水、食料品を少し準備しておくこと。
1人でも高い所に逃げること。
それを日頃やっていないとだめです。
まずは継続あり。
でもなかなか出来ないことです。
私はその時はその時と思って生活します。

震災から11年を迎えて

妻のセツ子さんより

3.11早くも11年の月日と成る。
あの日の出来事は、忘れようと思っても、心の中に残っている。
私がこの世を去るまでは忘れることはないでしょう。

毎朝、お仏様に手を合わせ、今日一日何事もなく見守って下さいと、息子、孫達家族をお願いし、あと私を3年は生きられることお願いしますと。
今は1人で生活していますが、持病があり、いつ何が起きるのかは運まかせと。
心臓、めまい、今日も無事終わりと床につく。
震災前の高田の町も小さいけれども、春はさくら、夏は松原、海水浴と楽しいことが多く、8月は七夕祭り、1か月も作り方をする。
11台の飾り台が笛、太鼓でよるまで賑わうこと、商売していましたので、朝早くから夜遅くまで働き、人との会話はあり、楽しかった。

けど突然の15mの津波。私も海の中へとのまれた。
3キロ流され顔が出てなんとか生きること、木にすがり上った。
そのとき、向こうに主人がいた。何人か上がろうと手を動かしていた。
何度も私も叫んだが届かず、あの寒さに風、雪と私も耐えかねて気を失ったようだ。

助けて頂き、気がついた時、大船渡病院のベッドの上、ビックリ。ありがとうのひとこと。

誰がどうやって、2週間考え、未だにわからずにいる。
一度は会ってお礼をしたい気持ちでいっぱい。

あの日から11年となる。毎日忘れなく、お礼をしたい気持ちで過ごしている。
また、主人がライオンズ国際に入会していて、大分県豊後の方々にお世話様になったこと。
今もご婦人3人と付き合っていること、遠くにいても心のつながり、心から感謝しています。

仮設に3年半入って、なんとか出ることと、土地を見て歩き、やっと見つけた。
山の上、木を切ったところ、ただ一か所残っていた。
小さくても自分の家にてゆっくりと休みたいと思い、決めて建て、丸5年過ぎた。
でも近所づきあいはひとつとしてなく、会話もなく、勤めにいく、朝早く夜遅く、行事もなし、いまだに顔を見たこともないような日々。これが震災かと。

今や私は高齢、いつ何が起きてお世話になることかと、そのことだけ考えて生活を送る。
時に高田の町へ買い物に行く、スーパーへ。町の上に神社がある。その上り口が元の家。
だが今は12メートルのかさ上げされてしまい、土地はその下。形もなし、淋しい。
町の中は草だけがいっぱい枯れ果てている。駅通りとして数軒商売をしている。
また家も何軒か建ってきたようだ。あとは高台へと人口もなく、若い方は内陸へ行く。
この先、町の土地はどう変わりますか、高台の町はできることかと。
今や温暖化。北極もとけ始めている。海の水はふえるばかり。高く見える。
今度来るときは20メートルと話している。そのときは私のところまで来るかもと。

いつ起きるかは誰も知れない。生きているうちは何事もないことを願います。
人生生きることは運命まかせと。

震災から10年を迎えて

妻のセツ子さんより

3.11東日本大震災から10年。長い月日を過ごしてきた。
一日として忘れることないあの日の夕暮れの出来事、明治29年創業薬局を主人も三代目として後継ぎ働き40年、あの年はインフルエンザにて毎日高熱の患者が多く朝8時30分~夜10時頃まで働いていた。休みも取れず主人も疲れたと話していた。

あの日、突然の出来事M9の地震と思いきや、3メートルの津波が15メートルの津波となって一瞬に高田の街を飲み込んでしまい、私達夫婦も海へと飲まれた。死の覚悟した。気が付いたら3キロ流され止まっていた。海の中、何とか生きようと木の上に登り主人はと見たら海の中で手が動いていた。お父さんと呼んだが100メートルも遠い所で、あの夕暮れの風雪の中、私と反対にたくさんの家が流れて行く。目がまわり寒さにて気を失ったとか、気が付いた時はベッドの上、主人はと思うが聞くこともなく2週間。やっと息子にあえて、お父さんはと聞いたが返事なし。死と思った。退院して息子の所へと世話になり、遺体捜しに歩き、見つけた。そのときに私の姉(長女)も亡くなっていた。言葉も出ない心の痛み。これからどう生きようと、まずは火葬、多くて何日になるか、場所もとれずの様子。

遠野にて火葬、主人、どんなに悔しいと思ったこと。これからの人生を楽しもうと思ったことでしょうに。何十年たっても、心の痛みは続きます。今は写真を見て、お仏様を毎日、手を合わせてお参りして孫達家族を見守って下さいとお願いする事だけです。

写真を見ていますと、ただいまと、帰ってくる様な気持ちになります。
復興とは元高田の町6メートルのかさ上げにて面影もなく、家の場所を見ても寂しさだけが残ります。家を建て住む気持ちにはならず、元の町にもならずでしょう。

今高田町の中へ駐車場、スーパー、お店、食堂、図書館、高田駅、市民会館運動場公園、東日本大震災津波伝承館、博物館、リアスホールと大きい建物から出来上がったようです。高田小学校高台へとまた元の小学校へ、市役所7階 総合センター、高田病院と、ただ高齢化の私にとっては淋しいことばかりです。

震災から9年を迎えて

妻のセツ子さんより

3月11日から早くも9年目を過ぎようと、年月の早いこと。私にとっては昨年の出来事の様に思い、考えて毎日生活をしている。

朝、起きてはお仏様にお茶と水を上げて、お参りをしますが、主人の写真を見ますと、あの津波さえなかったなら、今も一緒に生活が出来たことと思い出し、心痛みます。地震は大きかったけれども、3メートルの津波が、あっという間に15メートルになり、私の家を、私達が3キロも流されたこと。水が首まで、何とか生きようと、ガレキをよけてやっと木の上に上ったこと。その時は主人も生きていた。ところが夕方の寒さ、雪がチラチラ降って、風の強さ、水に汚れた体は耐えきれずに、気を失ったこと。その時に私を助けて頂き、気がついた時は、大船渡病院でした。私もびっくり、死んだことと思っていました。その方に1度でも逢ってお礼をしたい気持ちが、何とかその方を知りたいと、9年も考えています。

入院2週間、着る物一枚なしの日々、家族とも連絡が取れず、ベッドの上。それからの生活は電気、水、トイレなし、月日が経って少しずつ、私は仮設生活に入り3年半。その後、新築して今の所に住んでいる。ところが、近所つきあいもなし、お話も、お茶飲みも一度も無い団地。毎日一人で生活しています。

月に病院へ歯医者、買い物と一人で行っている。又、月に一度の手芸。遠野から来て教えて頂き(菊池加代子先生)また少し習い事している。後は、知り合った九州大分県豊後高田市の方々と文通が続いていること、遠方の方々には、助けて頂き有りがたいです。電話での会話が一番楽しいです。私は震災にて兄姉6人も亡くなっています。災害はいつ又おきることか。二度と欲しくないこと願います。

高田の復興も少しずつ進んでいる様だが、元の町にはならず人間関係もバラバラと、どこに進んでいることか知ることなし。心から話す人もなし。自分は一人で生きることです。最近日本では災害がおきています。台風19号の横浜も大変な被害でした。家の中に水が流れ、どろがたまり、後片付けがどんなに大変かと、テレビを見ていました。

思い出しては私達高田の町は全部なくなったことです。私の家も跡地もなく、見ると悲しいことばかりです。同じ町でも私のように流された人、被害にあわない人は、明るく生活している。災害も忘れかけているのか集まっても、会話なし。家族を亡くした人は別として、私は一生忘れずに。

震災から8年を迎えて

妻のセツ子さんより

あの3.11日はあまりにも大きい突然の出来事でした。その数年前からは大地震が起きる事は話していました。それは30年位か20年位かと思っていたことです。

でも地震は、ずっと前から何度と続いていました。私の息子が生まれた年、昭和43年頃も大きく、1年は続いていました。私はその時ミルクにて育てていました。大きく地震が起きるたび、子供をだっこして外に出ますが、大事なミルクを持って出ることを忘れて大変な思いが残っています。

その後も大きい地震がありました。私が丁度スーパーへと買い物に行って、買い物をして、レジしようとした時、すごい大きいゆれにて、品物をおいて外へと飛び出ました。なんと電線が大きくゆれうごいていました。すぐ家へと帰りびっくりしました。店の品物が散りおちて、それがまた酢酸で強い物です。主人と、店員さんが後かたづけをしていました。それが何度と続いて来ましたことです。

でも地震だけでしたらそれでよかったのですが、あの大津波が東日本をおそうとは、誰もが考えのない出来事でした。地震がおきて20分~30分の出来事でした。あっという間に水が流れて玄関を通り、私達は2階へ上り、ここまではこないと思っていたことです。
その5分後位に、どんと屋根が飛び、その引き波にて、家々と私達も水の中へともぐりました。その時は死ぬ思い、それが運が良いのか大町を通り、竹駒の方へと流されとまりました。
そして水が、皆、何とかガレキをよけ、木の上へと上りましたが寒さにたえかねました。
主人はその場にて死亡、私は気を失った所を助けて頂き大船渡病院にて気がつき、2週間入院にて命を頂きました。
それから8年の月日がたちます。今でもあの日の思いが一日と心からはなれずです。昨日の様な思いで毎日を送っています。主人も時に夢に見ます。また、同じ町の人達の会話もなし。震災後に高田高校仮設にて、遠野より菊池加代子先生が手芸を教えに来て頂き、今も月1度習っています。また神戸より「ぞうさんまけない」と作っています。また、詩吟も少し習っています。
復興については、先の見えないことでしょう。高田の町は一番大変と思いますがあまりテレビにも話がなし、大槌町の方だけが話になっている様です。今高田の町は大変と思っています。私が生きている所では見る事ないでしょうね。人口なし、働く人なし、高齢者ばかりと淋しいことです。私もこの先何年生きられますことかと1人で毎朝お仏様に(主人、先祖様)お願いしています。1人では毎日の生活、少し病気がありますので夜は淋しいです。地震が大きく家が倒れない限りは、津波には心配がないことです。おそろしい事に遭わない方々は忘れかけている様です。

高田の町はかさ上げ12mと土をもった様ですが町の1部だけです。マイヤスーパーが第一と、お店、食堂と並んでいますが、それなりにお客様も入っている様です。私の家も荒町1、明治29年からの商売でした。先祖様には申し訳ないことです。面影もなく土にうまりました。私も時々通りますが、ただ涙が出るだけです。震災前の高田の町は、すごく静かで何でもあり、買い物にも不自由なし、夏は海水浴と遠くから来ていました。
それが一瞬の出来事。どんなに忘れようとも震災を受けた人でないことには、今、8年が過ぎようと、何年過ぎようとも私の心の中には、あの死を受けたことには、一日と忘れることのない一生をすごします。

また、毎日朝から夜まで話しする人もなく、テレビだけにて過ごしています。

震災から7年を迎えて

妻のセツ子さんより

どんなに月日が何年、何十年経ち、過ぎ去ろうとも、私の心には、あの3.11のことが頭の中から忘れ去ることはできないだろう。

あの日、主人が地震後、店の前に立っていた。1度、2度と大きい地震、落ちた物の片づけをしていた。
従業員5人は慌てて小学校へと走って行き、途中にて津波に追われて、すぐ高い方へと登ったよう。
私が主人に声をかけた時には、3メートルの津波との放送。慌てて2階へと上がる。
座って5分位でものすごい音。これなあにと思えや、15メートルの津波。どんと屋根が飛び、部屋の畳、掛け軸、神様などいっぱいと思いきや、一瞬に津波にのまれて水の中。
海へ行って終わりと覚悟した。
ところが大町を通り、竹駒、矢作の所にて止まり、顔が出て、水が私の首で、どうしようと、これでは死ぬ。ガレキをよけながら、なんとか木の上へと思い切り上がった。
ところが私の30メートル先に、主人の指2本が動いていた。なんと助けようもない。私も小雪、風の寒さで大変、誰もいないし。その場にて気を失ったよう?

気がついた時には大船渡病院のベッドの上だった。びっくりした。主人はその場にて死亡したらしい。
私も、血圧、心臓と病気持ち、薬もなし、食べ物も少ない。2日頃からカップラーメンとか食べた。
血圧も190くらいになって、先生が出してくれた。家族との連絡もとれない。下着1枚なし、1週間で一般室へと移り、姉が見舞いに来て下着を持ってきてくれた。
2週間で退院。めいが来て一緒に帰ることに。その時、1人の看護師さんが風呂に入れて、髪洗いをしてくれて帰った。ありがとうございます。
靴もなく、服は姉の。外に出て、車が走る。ガレキの山。高田の町もガレキだけ。
高田は鳴石団地が残っていて、そこに長男の家があり、世話になる。ところが食料品なし、温泉へと行く。

そして仮設へと入所3年半。26年10月に新築して、1人住んでいる。
3度の食事はできるけれども、会話は何日ともない。1人でテレビを見てニュースを聞く、嫁たちも来ない。家庭があるので、お盆と正月だけ。それでもよしと思う。
これから何年生きられるか、頑張り、いつかはお世話になることでしょう。
毎朝、仏様をお参りして、主人に、どんなにあの日は寒かっただろうと話しかけ、どうぞ見守ってくださいねとお願いをし、二度と会うことのできないさみしさに涙が出る。
時には「ただいま」と帰ってくるような。
私が元気で、先祖様もお守りしなくてはと、1人で思い、頑張ること。
亡き主人は、太陽の沈むところをみたいと、湯の浜温泉の海まで震災前に行ったことを思い出す。
今は、家の前の山に太陽が沈むところが、仏様の前で毎日見ている。復興は遅れているが、少しずつ町の灯が見えてきた。毎年7月15日に行われる伝統的神様、お天王さま、御神輿が町中へと運ばれた。嬉しいこと。

スーパーと食堂、お店も出てきたようだ。前の高田町商店街にはならないけれど、若年の方々に頑張ってほしい。
人口は少なく、老人ばかり多いけれども、毎日を楽しく、明るい町へと願う。

震災から6年半を迎えて

妻のセツ子さんより

高田町字荒町の家から4キロ流されました。竹駒町の滝の里でした。

あの3.11午後2時49分、長い地震4分、まさかと思う大地震。主人は商売中にて店にいました。
私は居間にて動くことできずに、やっと主人をむかえにお店へと行き声をかけたら、今3メートルの津波と、すぐ逃げようと思いましたが、もう水は流れ込み、2人で2階に上がり、主人は奥上へ、私は2階に座っていました。ところが5分後にはドンと屋根が飛び、すぐに引き波に家ごと水の中に、もう松原へ行って終わりと覚悟をしました。
ところが運良く大町通り、竹駒の方向へと流され、やっと止まった時には、私は水が首に。ガレキをよけながらやっと木にすがり、その上へと上がりました。
そして見たら主人が、30メートル先の所、指2本、動いていました。が、私も、寒さと、誰もいないし、ヘリコプターが1機飛んで行きました。その後に男の声があったけれども、そのまま私は気を失いました。気がついた所は、大船渡病院のベッドの上、なんと涙も出ない、あの恐ろしい水の中、助けていただいたことに感謝でした。
主人は、その場にて死亡と、ひと言話なしの別れでした。
そして近くに、私の姉(長女)1人暮らしの当時88歳が住んでいましたが、津波に流され、その日に死亡したとのことでしたが、骨体がわからず、10月末までかかりました。そして姉(次女)当時85歳は私を心配して病気で4月24日死亡。また、主人のお兄さんも(盛岡)5月25日、私たちを心配、高田の家が全部ないことに驚き、脳梗塞にて死亡(86歳)。金野家が失われてしまったこと、私1人でお仏様を守ることです。
6年5か月たっても、何年経っても、あの恐ろしい出来事は忘れることなき毎日です。
高田市の復興は、少しは進んでいるのでしょうが、まだまだ何年先のことかと思っています。
道路は今度、市役所もいつのことか?人間関係も、どこに住んでいることやら、知ることもできないことです。
子どもは2人、長男、妻と孫3人。次男、妻と孫1人。日頃はなんの連絡なし、親として1人でさびしい毎日の生活を送っています。

震災6年5か月たち、嬉しかったこと。ことしの6月21日、私の誕生日を息子夫婦、孫達8人でお祝いをしていただきました。みんなで食事会は本当にうれしく、ありがたいことです。家族あってのことでしょうね。
「今、思ったこと」震災後の高田町の商店街の跡地へ2度行きましたが、悲しいことです。何百年と住んだ跡地の上に、かさ上げ12メートルと土を上げ、その上を歩くということは、本当に心の痛む気持ちでいっぱいでした。自分の土地も同じ、泣いてきました。嬉しいことではありません。

長年住んだ町、700本の松、高田松原砂浜、海水浴場、500人と賑わった高田の海でした。どんなに考えても、二度と戻ることのできないことです。今、木を切り、山を崩し、土地を作り、民家が建てられてきたようです。高田病院、小学校も2年後、まだまだ遠い先のことです。私も生きていて見られますかと思っています。これからの工事はいっぱいあり、一番道路が何度と変わり、町へ行くことも大変です。また工事で働いている方々には本当にご苦労様です。暑い中、寒い時と、一歩一歩と復興に向かっていることなのでしょうね。一番かわいそうなのは子ども達です。体力が落ちる、勉学にしても大変と思っています。
早く、安心した、明るい生活、活動、送ることを願い、毎日の生活を送っています。 

震災から6年を迎えて

妻のセツ子さんより

あの東日本大震災から早くも6年目が立ち過ぎる来年の3月11日を迎えます。
こんなに早い月日のたつ事に、毎日心が痛みます。
毎朝、お仏様にお参りをします。ご先祖様、ご主人の亡き写真を見て涙が出ます。あの、3.11の夕暮れの大津波に、家ごと、私と主人と3キロも流され、私は何とか生きようと水が首のところを立ちのぼり、30メートル位流れて主人の手が見られ、動いていましたこと、今も目に見え、助ける事のできなかったことが心に残ります。

平成25年に独自で土地を見て歩き、26年の10月16日に新しい家へと住みました。
近所の付き合いはなし会話もない毎日の生活です。
元は同じ町の人達です。あの大津波がなかったならと悲しい毎日を一人で送り続けることではなかったのに?
復興は進んでいるようですが今は公営住宅が3ヶ所に建てられて入居者と個人で高台に建築中と29年30年となりますことかと、29年には元、宮田町・商店街が予定通り土地に計画中のようです。
また、公営住宅に入所して良いのですが、老人の方には大変らしい戸が重く開かず近所の会話がなく、買物も遠くて大変らしい。
交通が不便にて毎日の生活、食事などは変わりはないと思います。ただ、変わり崩れた町土地は30年また何十年経っても、元には戻りかねる事でしょう。

今年は(故)主人がライオンズに入会していました。北は北海道、南は大分豊後高田市の方々に、たくさんの力を頂きました。現在も続いています。また、秋田・大阪、全国から助けて頂きました。お便り・電話での会話・お送り物などたくさん親戚・甥・姪・いろいろ知人と助けて頂いています。今生きていて良かったと本当に思います。有り難うの気持ちいっぱいです。
後は自分が何年生きられますか?元気で自分の目で復興を見たい気持ちです。
息子2人いますけど、それぞれの家庭生活があります。
子供達を育て中にて、別家庭にて、近くに住んでいますが会う事もなかなか、電話さえない毎日、孫も顔を見たいけれども忙しい、お盆と年越にお会いします。

孫達は誕生日とお年玉はいつも差し上げます。修学旅行とおみやげを頂きます。嬉しいです。

震災から5年半を迎えて

妻のセツ子さんより

あの東日本大震災、思ってもいない出来ごとでした。
初めてのことにはあまりにも大き過ぎました。
月日の立つ早さ、5年6か月と過ぎて行きます。
いまだ私の気持に変りなし、昨日の様な心の中にしみ込んでいます。

2階に上り、15mの波に飲み込まれ、流された時は、死ぬ覚悟、主人と3kmも流れ、私は何とか、ガレキを取りわけして頭だけを外に出し、ああっ生きたい…木の上に力いっぱい飛び上りつきました。ところが、夕暮、雲、風ふき、寒くて立っていること出来ず。気を失った様です。
気がついた時は大船渡病院のベット上。
主人は、その場所にて亡くなったとか、何がどうしたことも知ることなし。
主人は毎日、元気で店にて働いていて、早く休みたい、旅行でもと、話していましたのに、本当にもう2度と逢うことが出来ない。
毎月、お仏様にお参りをすることしか、月1回はお墓参りをして会って来ます。
会話なく別れ、2度と逢うことのない淋しさ。
私の心の中は、誰とも話すことのない毎日。あの震災がこなかったらと心痛みます。
今は皆様と会っても、震災の話もなく、皆様が前向きに、一歩一歩と進んでいる様と思われます。
公営住宅も出来て住む人、個人の家、アパート、考え方がいろいろと思われます。
また、子供さんのある方は、内陸へと住み、現在の高田町の人達は、どこかへと知る事もない。
近所の方々にも毎日会話することさえないです。
時に買い物に行って会いますか、また病院内にて会いますかです。
高田町の昔の人たちはどこへ、淋しい事ばかりです。

高田町の復興は進んでいないと思う。第一町全部が海の水、どう変わりますか。
また家族としても、親として息子を思う気持はいっぱいありますが、息子たちも孫のことにて、生活もあり、仕事もあり、親1人を見ることも無理。
せめて私は孫達との電話での声も聞きたくても、忙しく電話もなく、震災前には一諸に会話が出来たことに腹が立ち、まあ、1人で生活出来るまでは生きましょうと(クスリ飲み)。
私は皆様に助けられ、お友達(大分県九州、北海道、東海、大坂の方にお世話様になっていつも元気を頂いています。これが忙しくても私の生きがいです。
老化して生きることの辛さ身にしみます(時に夢に見る主人の姿かな)。

震災から5年を迎えて

妻のセツ子さんより

①現在の気持ち
あの大震災から5年目の月日をむかえます。早い。
亡くなった主人ですが、なんとか生きて「ただいま」と玄関に入ってくるような気持ちです。
津波さえなかったなら、主人もいまだ生きていたことと思い、毎朝、仏様に向かいお参りをしています。
最大の津波15メートルと、どんな思いと、寒さ、絶えきれずだったこと、私も一緒に流された。私も海の中、死の覚悟はしたが、運が良く、奇跡的に助けていただいた。
だが、家も、財産、全部が流されて、何にもない世界。どうして生活をするのかと思い、悔やみ続きます。何年何十年、一生忘れることがないでしょう。

②変わったこと
仮設生活を3年半過ごしましたが、30年までは待ちきれずに、自分1人で土地を探し歩き、やっと見当たり、思い切って建てました。
平成26年10月16日に引っ越しをし、1人で生活の始まりでした。ところが近所づきあい、隣との会話なし。
私はあの大震災後から、遠い大分県の方々から色々と助けをいただき、生きる力をいっぱいいただきました。頑張ろう・・・今でも続いています。遠くの方々の方がありがたいです。

③家族とはなんでしょう?昔と今の違い
今、私には、わからないことがいっぱいあります。親として子供を思う気持ちには変わりないことです。
だが、子供も大きくなり、結婚し、子供を持ち、生活が始まりです。親のことは外におき、まずは息子達の家族になることでしょう。でも親は、いつまでも孫達を思いお小遣いをあげる。
これが家族のつながりでしょうか?私は知りたい。
今、私は、息子・嫁よりも、甥・姪に助けていただき、震災後、ご馳走を運んでいただき食べています。本当にお礼のしようもない、助けていただいています。

④復興
陸前高田の場合は、一番大きい被害、高田町全部が破壊され、いくら盛り土をしたところで何年後かが心配されます(くずれなければいいですね)。

震災から4年半を迎えて

妻のセツ子さんより

早い月日の流れ。あの日から、4年半になります。
毎朝、主人にお参り。75歳にて早かったこと、もし津波さえなかったら今も生きたいたことと思う。
今は亡き人、私を見守って下さいと、ご先祖様と共にお参りしています。
あの時に、波に飲まれ流されたことは、どんな年数が経とうと、私の気持ちには一生忘れることはないです。
私の目の前にて主人の指が動いていたこと、生きている主人をなんとか助けたい気持ち、それができなかった私の思い、風に雪、自分もわからず気を失ったこと。
気がついて病院のベッドの上、驚きです。声も出ない。ただ寒さだけだった。1枚の服だけ、赤ん坊と同じ。生まれて初めてのこと、お金は1円もなく、ティッシュもなし・・・
注射の終わったガーゼを除き、鼻をかむ。1週間、過ごす。あと1週間の入院は一般室にて。
いまだに思うことは、あの日、私を助けて、海から運び上げていただいた人、一度でいい、お礼をしたい気持ちだけが、いつも心の中に残っています。できることなら会いたいと。
仮設生活で3年半過ごし、思い切って土地を探し、やっと平成26年10月16日に新築をして入所。1人で生活しています。
自分も体が血圧、心臓と弱いもので心配はあります。その時はその時と、いろいろと病院へ。でも車があります、1人で行きます。
今は詩吟に入り3年目、難しいけれどやっています。月に2回です。
また、仮設にいた時の「まけないぞう」をいただいて作っています。少し肩がこり、疲れます。
あとの心配は老後生活、明日のことはわからず、その時はその時と思い、1日を過ごすことでしょうね。
市町村はいまだ復興には遠いこと、どんなに皆様が大変な生活をしていますことでしょうね。
せめて私は、オリンピックだけは欲しくなかったことです。もう少し震災の人たちのことを考えて、もっと早く仮設生活から出られること、また、学校で子供達が校庭で運動ができることを望みます。

震災から4年を迎えて

妻のセツ子さんより

仮設生活4年、月日のたつこと早いです。
あの恐ろしい日がやってくることも、考えることも嫌です。
仮設生活の1人の1室で暮らすことの悲しい毎日、泣いてばかりいました。
毎朝、仏様をお参りしながら、亡き夫の顔を見ることが1番の辛い気持ちです。

また、ご先祖様に対しても申し訳なく、心の痛むことでした(早く仏壇をかざりたい)。
歩き回り、やっと小さいけれども土地を見つけました。
だが、働く人達もなし、材料もあまりないとかで心配しました。

やっぱり、前の町の家が恋しい。1年以上は夢見ていました。
今、買い物に行き、いろいろとお話をしていると、すぐに津波のことになり、涙が出ます。
顔で笑っても、心の中は恐ろしいことばかりです。何年経っても忘れることがないです。

家族、子どもを亡くした親の方々は本当にどんな思いでしょうね。私の姉たちもみんな亡くなりました。
でもやっと家を建て、10月16日に新しい家へと住んでいます。
1人でね。

私も何年生きられるかわかりませんが、ご先祖様にお墓参りはします。 守っていきたいです。今年はやっと年越しを私の家で、息子、孫家族9人でやります。
主人だけには申し訳なく思います。

妻のセツ子さんからのメッセージ

まさか、あんなに大きい津波が来ることは誰もが知らなかったと思う。
私も津波に流されましたが、はりにつかまってなんとか助かり、気がつくと病院でした。
水、電気、ガソリン・・・。自衛隊の人たちに助けていただきました。本当にありがとうございます。
人間、生きるということは大変なことです。
震災前は、朝から晩まで薬局の店頭に立ち、お客さんと話をする機会も多かったのですが、今は仮設住宅の一室での生活です。
がんこで気ままな主人でしたが、事業家でした。ありがとう。

金野亨さんへのメッセージ・写真を募集しています。

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