あの日、そして明日へ

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佐々木秀子さん(ささき・ひでこ/当時76歳)岩手県宮古市

一度、山に逃げましたが、その後自宅に戻り、津波に巻き込まれたとみられます。

震災から13年を迎えて

娘の佐々木るみ子さんより

私は職場に居たため、助かりましたが、母と家は津波にのみこまれ、亡くなりました。
母は38kgしかない痩せっぽっちでしたが、芯の強い働き者でした。
私と弟の事を思って最後まで金庫のカギを持っていました。私は何もしてやれなかったけれど、1枚のセーターを編んであげた事くらいです。機械あみの薄紫色のシダのツルを模したセーターはお気に入りだったのか、寒くなるとよく着てくれました。娘の私は太っていて母の2倍も重いのに。母は毎日、働き通しで苦労させました。
弟が病院に入院中に、母の手を取り、バスを追って走った事。その時の母の姿を鮮明に覚えています。
魚の加工場で、冬も働き、手を真っ赤にはらしていた母。でも辛いとか、苦しいとか一言もなかったです。又、今さらですが。もっと習っておけば良かったとか。優しく接してあげれば良かった。親孝行のオの字もしてあげられず。後悔するばかりです。

母と旅をしたかった。母の背中を洗ってあげたかった。
私に出来る全ての事をお返ししてあげていたら…。
父母に感謝の気持を告げられぬままで残念でなりません。今も仏壇の上に、こころフォトのパネルが残っています。行場の無いまま。

59才の弟にお嫁さんが来てくれ、楽しい一家団らんを毎日送っています。
これも母が守っていてくれたからと感謝しています。   合掌

震災から12年を迎えて

娘の佐々木るみ子さんより

母は魚の加工場で寒い冬も働いて居ました。
苦しくても辛いとは口には出さず、私たち姉弟の学校行事には、必ず参加してくれました。
気に入ってくれていたらしく、私が機械で編んだ編み込み模様の薄紫色のセーターを冬になると良く着てくれました。
弟は脳内出血で津波の前の年、入院、難をのがれました。
又、父も脳こうそくでした。母が私達を養ってくれました。
今、考えると母は働き通しの生涯でした。
いつも母に反抗していた私。

「逆った 親の背中が 越えられぬ」

反省と、自分への戒めのこもった川柳です。もっと色々な事を習っておけばよかったと後悔ばかりです。
母は小格でありながら力は強くとても働き者でした。

「夜もすがら 息 案じる ほろ苦さ」

夜遅くまで帰って来ない弟を待って起きていた母、母の気持ちがわかる様な気がしました。
魚のさばき方、裁縫、等、母にはかなわない事ばかり、六十才の私ですが、未だ子供と同じです。
何かこれだけは人に「負けない」と言える物を持てる様に頑張りたいと思います。
例えば、仕事上の作業とか、人への優しさとか自分らしく私らしく、真面目に取り組む姿勢を一生涯もちつづけられたらと思います。
いつしか、母の歳と同じになったとしてもそれだけは貫けたらと思います。
私には夫も子供も居ませんが人に恥ない生き方をしたいと思います。
母がそうだった様に!!
体格は母の2倍、心も2倍大きくなりたいな
十三回忌 母さんの事忘れません 感謝

震災から11年を迎えて

娘の佐々木るみ子さんより

母は私が編み機であんであげた薄紫色のセーターがお気に入りだったのか、冬になるとよく着てくれていました。
36㎏しかない小さな母でしたが、私達を支えて育てあげてくれました。
父に代わり、水産加工場で働き、真っ赤に手をはらしても、辛いとか苦しいとかいっさい口にしない強い人でした。
父は喘息持ちで、晩年は脳梗塞を患い、「母さん!母さん!!」と母を呼びながら旅立ちました。
母は最後まで私達の事を想ってか、金庫のカギを開けようとして首に掛けて発見されました。
お金より、命を大切にしてほしかったと、つくづく思っています。
家の裏山に逃げれば助かったはずの命、最初からあきらめていたのではないかと思うと悲しくなります。
私ももう60歳。還暦です。
母のおかげでここまで生きてこられました。
ありがとう、母さん!父さん!
大切な命をこれからも大事にします。
まだ母の2分の1の力量も持ち合わせていませんが、体格は2倍の私です。
心は母の強さをゆずり受けたいと思っています。
震災から11年。町は大きく変わりましたが、復興といえるのでしょうか。
ハード面は出来上がったかもしれませんが…。

震災から10年を迎えて

娘の佐々木るみ子さんより

あれから10年。1昔と昔話にはしたくありません。
街は新しくなりご近所とのコミュニティーは薄れつつあります。
昔、隣どうしだった人も今はどこに住んでいるのかよくわかりません。
仮設住宅にいた頃、声を掛け合っていた人は今どうしているのでしょうか。
物は十分とは言えませんが元に戻りつつあります。
しかし人と人との人情は変わってしまった様に思います。
母が生きていたなら86歳です。
もう元気でいられなかったかもしれませんが、もっと色々な事を教わっておけば良かった。
それだけが残念です。

毎月11日が来る度に母の事を思い出します。
時には涙をこぼし、あの日「どうして裏山に逃げてくれなかったの?」と問いかけます。
そして私自身も再び大津波が来るような事があったらすぐより高い所へ逃げなければと心に強く思いました。

10年、されどまだ忘れてはならない10年です。
母は辛抱強く働き者でした。とうてい私がまね出来る人ではありません。
私達のために尽くしてくれた母「ありがとう」と心から感謝したいです。
また、父、祖父のお弟子さんから今年も新米が届きました。恩を忘れず受け継いでいきたいと思います。
ただただ、働きづめだった母、父に代わって一生懸命でした。そんな母がふびんでなりません。
大地震の後、母が行方不明と分かった時流した涙がよみがえってきます。
弟は脳内出血の後遺症克服のためリハビリ中でした。
あの時、寄りそってくれた方にも感謝したいです。
何年経過しようとも忘れず、地震の後には津波がくるかもしれない
避難をしよう。弟とともに母と父からもらった命を大切に生きようと思います。

震災から9年を迎えて

娘の佐々木るみ子さんより

まだリハビリ中だった弟の病院の帰り、バスに遅れないように母の手を引いて走った事が思い出されます。
何一つ親孝行が出来なかったけれど私が編んであげた薄紫色のセーターを冬になると毎年着てくれていたのをおぼえています。娘からのたった一つの贈り物がお気に入りだったのかと思いホッとします。
母は外で働き家にいなかったので私は母に反抗していました。
しかし、母は学校の授業参観など行事には必ず来てくれていました。ありがたかったです。冬になると凍った魚の加工をするので真っ赤に手をはらし、湯花に手をひたしてあたためていました。しかし辛いとか苦しいとか一度も言わぬ偉い母でした。私にはとても出来ない事です。
母はあの津波で命を失ってしまいましたが天国でまた私の編んだセーターを着ていてくれるのでしょうか。あの色、あのガラ、母さん好きだったの?!

あの震災から9年が経ち私達の生活も様変わりしました。
弟は左手、足の障がい、私は心の障がいを持っています。こんな私たちではありますが、負けないで生きて行こうと思います。母が亡くなったと気づいた時、弟にこう言いました。「気を落とさずに聞け、母さんが亡くなった。これからは二人本当の大人として生きて行こう!」と。私が49才、弟は46才の時でした。母を亡くし、父はすでに亡く、二人の生活の始まりでした。仮設住宅から市営住宅へと移り、なんとか暮らしています。親を亡くした悲しさ、淋しさは口では言い表せません。家が無くなり、母が見えなくなり唖然としました。涙が頬をつたい、どうすれば良いか分かりませんでした。しかし、みんなの力をお借りしてどうにか今日までやってこられました。葬式も何もしてあげられなかった事。弟も参列出来なかった事を残念に思っています。

母さんごめんなさい!もっと素直な心で接していれば良かったね。もっと色んな事、習っておけばよかった。後悔先にたたずとはこの事ですね。母さん。私たちを産んでくれてありがとう!育ててくれてありがとう!

震災から8年を迎えて

娘の佐々木るみ子さんより

復興住宅へ移りホッとしています。
毎月11日には母のことを思い出しています。
花をかかさない様にしています。
今は弟と二人仲良く暮らしています。
母さんにコレを食べさせたかった。
こうしてあげれば良かったと後悔することしばしばです。
母の立場に立って物事を考えてあげれば良かったなと思っています。
父に代わり外に出て働いてくれた母。
真っ赤に手をはらして水産加工に力を注いでいた母。
グローブみたいとバカにした自分を悔やんでいます。
大変な仕事をしても「痛い」と言わぬ母でした。
私も母をみならい仕事にうち込めたらと思います。
震災の時、家を守ってくれた母。私達のことを忘れなかった母。
鍵を持って金庫を開けようとした母。お金の事は考えないで山に逃げて欲しかった。
財産より命である事、今もって考えさせられます。
身体に障害の有る弟と心の障害の有る私。二人三脚で頑張っています。

震災から7年を迎えて

娘の佐々木るみ子さんより

7年前の3月11日、私は職場でいつものように働いていました。
母は1人、家で留守番をしていました。
また、弟は前の年に脳内出血で入院、リハビリ中でした。
感じたことのない強い揺れにおどろき、屋外へ避難しました。遠い海の波は三段に割れ、波立っているのが見えました。あれが津波だったのでしょうか?!
3日後、自宅へ戻ってみると、跡形もなく、無残にも家はくずれるどころか、土台のみになっていました。
母の姿はなく、避難先のお寺、役場、高校とさがして歩きましたが見つかりません。涙が頬をつたいました。
いつもの通り「行ってきます!」と声をかけ、出かけた我が家でしたが、形はなく、母も見えませんでした。

10日ばかり経ったでしょうか。警察から連絡があり、遺体が見つかりました。
母は北高校から500メートル下流の神田川で見つかったそうです。目立った傷もなく、眠っているような顔をしていました。
「痛かったでしょう!」「寒かったでしょう!」と考えると、哀れでなりません。
でも、死んでしまっても、苦しんだ表情をしていなかった事だけが救いです。

しばらくの間、自立生活支援センターで宿泊し、色々な手続きを済ませ、仮設へと移りました。
元の自宅の前をバスで通るたびに、涙でグシャグシャになり、「母さん、まだここにいるの、私たちは仮設にいるよ」と言葉をかけるように空き地に目をやりました。
顔をみられないよう、外の窓へそらしました。
左半身に後遺症が残ったものの、弟が元気に帰ってきてくれて2人の生活が始まりました。
そうして5年後、今の公営住宅へ入居することができました。

今やっと、涙を流さず、落ち着いた暮らしができるようになりました。
母さんにもっと教わっておけばよかった、もっと優しく接してあげればよかったと後悔することばかりです。

母さん、天国から私たちのことを見守っていてください。本当にありがとう。

震災から6年半を迎えて

娘の佐々木るみ子さんより

私は、母と自宅を津波で失いました。
思い出すのは、前に住んでいた家です。

最近は、亡くなった母や父を夢にみるようになりました。そして、出てくるのは、昔の2階建ての住み慣れた家です。
今は公営住宅の1階に住んでいますが、なぜか夢に出てくるのは昔の家です。
昨晩は、断捨離をしている夢をみました。使い慣れた机の引き出しを全部出し、思い出の数々詰まった物を捨てようとする夢です。
でも実際は、色々な思いが残り、捨てることができません。時々、母の笑っていた写真がゆがんで見える時があります。あぁ、母さんは心配しているんだなと心苦しくなります。
もっと母の立場にたって、優しく接してあげれば良かったと反省しきりです。
働き者だった母を見習い、仕事に力を注ぎたいと思います。

弟と「私たちは幸福だね」としみじみ話しています。公営住宅で何不自由なく暮らせているからです。
これから幾多の困難が待ち受けているかもしれませんが、弟と2人力を合わせて二人三脚で生きていきたいと思います。

母さん、ありがとう!貴方のおかげで生きられます。亡き母へ かわらぬ想い 花添えて
父さん、ありがとう。父の日の一句 父の日や 想えば香る 鉋屑(かんなくず)

震災から6年を迎えて

娘の佐々木るみ子さんより

母と家を失ってから早6年が過ぎようとしています。
家の近くを通りかかったり、遺影を見ると涙がこぼれる日々が一、二年続きましたが、いまは災害公営住宅に移り、気持ちと落ち着きを取り戻しつつあります。
私の住む三王地区は新築になった家が立ち並び、町全体が生まれ変わったかのようです。
すべてがこれから、という新鮮さと難しさがあります。
どこのお宅が誰の家なのかわかりません。昔はこの付近に誰々さんの家があって、そのとなりが、と明確だったのに新しい町は難解です。
また人と人とのつながりや助け合いといったもの、絆はこれから築いていかなければなりません。

「あれからの失くしたものと築くもの」この町を良くするのも私達住民しだい、頑張ります。
再建を待っていたお店も点々と開業、賑わいを戻しつつあります。公共施設も近くにでき喜んでいます。
母を亡くしたとき、弟と私は離れ離れでした。病院でリハビリ中だった弟は、私が訪ねると食堂にポツンと独りでいて「姉ちゃん生きてたのか」と一言言いました。
私は「母さんが亡くなった、生きてるだけで丸儲けだ。これからは二人本当の大人として頑張ろう」と言いました。
弟は驚いていましたが、うなずいてくれました。

震災から5年半を迎えて

娘の佐々木るみ子さんより

震災から5年目にして、初めて追悼式に出席しました。

白菊を手向け、母に「待っていてくれたんだね、ご免なさい遅くなりました」と手を合わせました。
やっと心のつかえがとれた気がしました。

あれから半年が過ぎ、災害公営住宅での生活にも慣れてきました。
毎日、母の遺影に向い「母さん、今日も頑張ります。見守っていてネ」と言ってから出勤します。
母の想い出よりも、こうすれば良かったとか、もっと教わっておけば良かったとか後悔する事ばかりです。
せめて、母の味方になってあげればよかった。家事を率先してやってあげれば良かったと悔やんでいます。
生きている内に感謝の言葉を伝えられなかった事やもっと美味しい物を食べさせてあげたかったなど。
この世の楽しみ、幸福を味あわせてあげられなかった事を悔やみきれません。

母さん ありがとう。
今、私と弟は幸福です。母さんのお陰様ですね。
これからも父さんと天国で仲良く、そして、いつまでも守っていて下さい!
お願いします。我がまま娘より。

震災から5年を迎えて

娘の佐々木るみ子さんより

仮設住宅から市営住宅へと移り、新年を迎えました。やっと新居にも慣れつつあります。

震災直後は、元の家の前をバスで通りかかると、「母さんまだここにいるの?」と思いに涙があふれ、恥ずかしさに外に顔を向け悟られないようにしました。
1年くらいは、1人部屋にいると、遺影をみては涙に暮れました。

弟は震災の前の年、脳卒中で左半身にマヒが残りました。母も心配だったことでしょう。また、私も心の病を抱えています。
障害をもつ2人の生活ですが、母がいてくれたらと思うことがあります。

あの日から5年。母に、育ててくれたお返しが何一つできていません。
母さん、私達を産んでくれてありがとう。一生懸命働いて、私達を育ててくれて感謝しています。
ああしてあげれば良かった、こうしておけば良かったと、後悔しきりです。

母から教わることがたくさんあったはずなのに、何も聞けませんでした。
ただ、母の働く姿だけが私達の勲章です。

震災から4年半を迎えて

娘の佐々木るみ子さんより

母と家を失ってから、4年半が経ちました。 家の前をバスで通ると涙がこぼれる毎日でした。母の遺影を見て涙したこともありました。
しかし、いつまでも感傷に浸ってはいられませんでした。日々の暮らしは容赦なく過ぎていったからです。
親にもっと習っておくべきだった。一緒に外食したり旅がしたかった。と、今思うと悔やまれてなりませんが、身体の不自由な弟と、心の病を抱えた私の2人、いつも二人三脚で生きていかなければなりません。
親孝行の「お」の字もしてあげられませんでしたが、私達は父母の子として、大人の1人として、社会に貢献できたらと思っています。
11月には災害公営住宅が完成します。夢だったマイホームに入れるのです。
弟と2人、母の分も協力しあい、楽しく明るい生活環境を築いていきたいと思います。
父さん!母さん!!天国で優しく私達を見守っていて下さいネ!

震災から4年を迎えて

娘の佐々木るみ子さんより

母を亡くして、涙にくれる日々でしたが、やっと落ち着きを取り戻してきました。
母のありがたさ、しみじみ感じています。

来年には災害公営住宅に移れると思います。弟と2人力を合わせ、新しい生活に夢をかなえようと思っています。
時々母を思い出して「もっと教わっておけば良かった」とか「親孝行してあげれなかった」とか悔やんだりしています。

「母さんありがとう!弟と2人力を合わせ生きていきます。天国で見守っていて下さいね」
「あらためて母さんの力の大きさを感じています。私達を育ててくれて感謝しています」
「母さんの苦労を無駄にしないよう、私達は頑張って生きていきます」
「母さん、天国で父さんとしあわせに!」

長女のるみ子さんからのメッセージ

母は、父に代わって外で働き、苦労続きでした。
もっと美味しいものを食べさせたかった、もっと話をきいておけばよかった、もっと優しく接してあげていればよかったと悔やまれるばかりです。
津波で流された家の前をバスで通るたび、『母さん、帰ってきたよ』と心の中で声をかけます。それだけで涙がこぼれることもあります。
『母さんは、今でもここにいるの?』、『私たちきょうだい2人は仮設にいるよ』と声をかけます。
母の返事はありませんが、元気で強かった母を尊敬しています。
家のため頑張ってくれた母。最後まで私たちの財産を守ろうと、鍵を持ち、
金庫をあけようとした母。
最後まで、母は私たちのことを考えていてくれました。どんなに苦労しても『つらい』と言わぬ人でした。
ただ、救われたのは、遺体になんの損傷もなく、きれいな母で眠っているような顔をしていたことです。
まるで、天国の父とめぐり逢い喜んでいるかのようでした。
苦労したけど天国で父と幸せに暮らしてくれていると信じています。
わがままな子どもたちだったけれど、今は偉大な母を持っていたことを誇りに思っています。
『母さんありがとう!』と心から言いたいです。
私は母さんのように強くはなれませんが、母さんの娘として恥じない人生を送っていきたいと思っています。
母さん、私たちはあなたの子どもに生まれて幸福でした。ありがとう。
天国で、父さんと私たち2人を見守っていてくださいね。

佐々木秀子さんへのメッセージ・写真を募集しています。

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