あの日、そして明日へ

こころフォト

トップページ 写真一覧 こころフォトに寄せて 動画を見る

今野八千代さん(こんの・やちよ/当時83歳)光夫さん(みつお/当時53歳)宮城県石巻市

柳川幸江さんの母・八千代さんと、弟の光夫さんは、車で避難する途中、津波に巻き込まれ亡くなりました。

震災から12年を迎えて

娘の柳川幸江さんより

12年もたつのですね、あの時の半年間は次から次へと色々な手続きで毎週土日は主人と二人で仙台と石巻を往復していました。
そんな中、今でも心にはっきりと残っている人々の姿が二つあります。

一つは、母と弟を仮埋葬した地に幾度となくお経をあげてくださった僧侶の方々のお姿です。
時にはお一人で、ある時は3・4人でとそれぞれの埋葬者の番号札の前に線香をたむけてくださった姿に思わず手を合わせてしまいました。
そして、全壊した実家に行った時、制服の上にエプロンをし、ゴム手袋をした数人の若い自衛官の方々が「何か、手伝える事はありませんか」と声をかけてくれました。
あの姿は今も心に残っています。

あんな時だからこその人々の行動や一言が心にしみました。
感謝 感謝です。
すさんだ心の癒やしでした。

震災から11年を迎えて

娘の柳川幸江さんより

11年も過ぎると、いろいろなことに迷いが出てきます。
実家は石巻市内にあり、私は仙台に嫁ぎました。
私は60歳を過ぎていましたし、この先、石巻の菩提寺のお墓を維持していくのは、体力的にも困難になるだろうと考え、墓終いをして、嫁ぎ先の墓所内に小さな納骨堂を作り、納めました。
これからは近くなったので、いつもお参りできると、自分の都合のよい方に事を運んでしまいました。
でも最近、納骨した9人は、石巻で育まれ、石巻で生活してきた人たちです。
このままで良いのかと思う日々が続きました。
そんな時、菩提寺である称法寺さんで、跡継ぎがない、埋葬された遺骨の管理継承が困難などのさまざまな事情で悩んでいる方々のためのお墓(施設)「無量寿墓」というのがあるとの事でした。
さっそく9名分の永代供養をお願い致しました。
気持ち的に9人が石巻の地に、安住することができたのかと思っています。
当時は、自分の判断や都合にあわせて事を運んでしまい、後で後悔してしまいます。
友人は「自分の思うとおりでいいんじゃない」と言ってくれますが、「本当に、本当に」と問いかけてしまいます。

震災から10年を迎えて

娘の柳川幸江さんより

もう10年になるのですね。早いですね“あっ”という間ですね。
私ももう65歳です。年金をもらう年になりました。病気もあります。「もしもの時」に備えて、あれこれ家族へのメッセージを書き記しています。

今思うと、もっと家族一緒に話しあっておけばよかったと悔やみます。

のこされた者は、自分の考えで行動してしまいます。
それが亡くなった人の希望なのか 悩みます。

震災から9年を迎えて

娘の柳川幸江さんより

震災から9年、あの時の事を今でもはっきりと思い出されます。

なぜか、母と弟はきっと無事だと信じてラジオで「どこにいますか。」と呼びかけ、早く返事がこないかと思っていました。従姉から「新聞の死亡者一覧に2人が載っていたよ。」と連絡がありました。
まさか、まさかと思いながら石巻体育館にむかいました。体育館の中は、お線香の香りと煙で霞んでいました。白い布に包まれ棺に入った2人になぜか、「遅くなってごめんね」と言っていました。生きていると思って、早く避難先を知らせてほしいとのんきにかまえていた自分に腹が立ち、2人に謝る事しかできませんでした。元気な姿を思い出してほしいから、夫と娘には会わせられませんでした。2人が避難に使った車の中のパンと水、ラジオを見た時は涙がとまりませんでした。

83才の母の兄姉にも骨を拾ってもらいたく、他県での火葬をあきらめ、3月23日に仮埋葬をし、5月12日に火葬、21日に身内だけで葬儀をしました。12日の火葬の時に弟の友人が骨を拾ってくれ、思い出話をしてくれました。ご自分も被災をしているのにありがたかったです。
だれも継ぐ人がいなくなった実家のお墓を墓じまいし、嫁ぎ先の墓地の敷地内に小さな納骨堂を作り、実家の10数人分の供養をしました。色々な手続きを家族の協力でし、あっというまの6ヶ月でした。

ある日突然「死にました。」と言われ、母と弟に「ありがとう」も言えず、自分の気持ちがもやもやしてた6ヶ月でした。のこされた者は、いつまでも、いつまでも、心のどこかに手の届かない所があります。

震災から8年を迎えて

娘の柳川幸江さんより

仏壇に飾ってる写真の色がうすくなってきました。
津波にのまれたガレキの中から探した大切な写真なのに。
8年という時間がこんな所にも。
さびしいです。
母、弟が遠のくようです。

震災から7年を迎えて

娘の柳川幸江さんより

年末に実家に電話をしてみました。
「現在、この電話は使われていないか、市外局番からかける必要があります」
わかっていても、いつものように「今年もお世話さま。来年も元気な1年になりますように」と、ついつい話してしまいます。
だれも聞いていないのに。

毎年、母の知人から年賀状が届きます。
あったかいメッセージが添えられています。うれしくなります。仏壇の前におそなえしています。

もう7年になるのですね。母も弟も年をとらないのに、私はどんどんおばあさんになっていきます。
今を大切に生きなくては、と思っています。

震災から6年を迎えて

娘の柳川幸江さんより

もう今年で6年になったのですね。
ばあちゃんとおじちゃんに可愛がってもらったぷうが、去年10歳、人間の歳だと56歳になりました。
おじちゃんの亡くなった歳を超えてしまいました。
今でも実家のそばに行くとそわそわと落ち着かず、家の無くなった土地の匂いを嗅いでいます。

今でも母の事気遣ってくれる方々、本当にありがたいです、感謝しています。
最近悲しい事に私の尊敬する叔母さんと私を何かと気遣ってくれた伯母さんが亡くなりました。
二人の葬儀に出席して、「人の死には何かしらの順番があるのかなあ」と思いました。
私の順番が来るまで、何をしたらいいのか模索しています。

いつもお知らせありがとうございます。6年経ったからこそいろんな問題があるのでしょうね。
これからもよろしくお願いいたします。

震災から5年を迎えて

娘の柳川幸江さんより

私達家族は、相変わらずですので安心してください。
実家の土地の一部が、石巻市の都市計画道路になることになりました。周囲の家もなくなり淋しくなりました。
私もこの頃は、石巻に行く機会も少なくなってしまいました。
今、私は、どんなささいな事でもいいから、もっと話をしておけばよかったと悔やんでいます。

弟には、父と母のそばにいてくれたことに、一度だけしか感謝の言葉を言えませんでした。
母は、私の一方的な電話に、なだめたり、励ましてくれました。もっと色々なことを、顔を見て話しておけばよかったと思っています。

息子が進路で悩んでいた時、ヒントをくれた弟。
花を愛し、手先の器用な母。

もう一度、あいたいです。
話をしたいです。

震災から4年半を迎えて

娘の柳川幸江さんより

あの日から4年も過ぎてしまいました。当時は「なぜ、どうして」と思い、心がざわついて、何を見ても津波の泥色の霞がかかっていました。
あの時ほど、家族(とくに夫)の支えや、本当に母と弟のことを思ってくれた従姉妹の心遣いに、今でも感謝の気持ちでいっぱいです。

あれから、何度か母と弟の夢を見ました。
心配そうな顔をしていたり、ほほえんだり、60歳にもなった私を、まだ気づかっていると感じました。
あなたたちがかわいがってくれた“ぷう”も、1日中仏壇の前で過ごしています。

時々じっと写真の方を見ていることがあります。
そばにいる事を感じています。みんなを見守っていてください。

震災から4年を迎えて

娘の柳川幸江さんより

80歳を過ぎた母が腰を曲げながら、夏にはとうもろこし、なす、とまと、枝豆。秋には白菜、大根、ほうれん草など、私に作ってくれました。
大量にもらってきて、ご近所さんや友達にもおすそ分けをしていましたが、今は自分で小さな畑を作っています。
なかなか母のような物はできませんが、草取りをしながら、心の中で母と話をしています。

実家は草がぼうぼうにはえていて、年2回、草刈りに行きますが、そのたびに涙が出てきます。
この土地を、どうしたら母が喜んでくれるのかが、今の私の1番の問題です。

震災から3年を迎えて

娘の柳川幸江さん(58)より

「こころフォト」に参加させて頂きまして、ありがとうございます。 私は実家の母と弟が震災で亡くなりました。

今は、お墓も仏壇も津波の心配の無い私の側にあり、毎日手を合わせているので、以前より気持ちも落ち着いてきました。

今、心残りなのは、二人が生前お世話になった方々に、感謝とお礼を伝えられない事です。
多くの方々に「こころフォト」を見て頂きたいと思っています。

娘の柳川幸江さんからのメッセージ

母へ
戦争中は、軍需工場で働き、姑の介護、夫の介護を仕事をしながらの人生でした。本当にご苦労様でした。今、私は、母と同じように、口うるさい母親になっています。

弟へ
父の病気や母の面倒を見てくれてありがとう。
あまり話ができなかったけれど、感謝していました。
車が大好きだったあなた、今、どんな車に乗っているのでしょう。
時々、息子と話をしています。

友人の佐々木幸子さんより 震災4年半の近況

北上川の河川堤防整備により、川沿いにあった住宅は移転し、土台だけが残った更地が目の前にあります。
期限があり、昨年4月に移転しましたが、工事はまだ始まっていません。
今年2月、見渡せる範囲にあった住宅が移転し解体され、80年も住んでいた所から転居していきました。
将来の安全のために巨大な堤防が築かれる計画ですが、地域がなくなり、人々のつながりが切れてしまったように思え、朝起きて辺りを見渡すと空虚さにおそわれます。
また、住宅の確保は、それぞれに経済的事情により市外、県外に転居した友人知人が多く、ここでもつながりが遠くなった思いです。
ご家族を亡くされた方々と比べればと思い直しますが、年齢的なこともあり、将来が不安になります。
唯一、仙石線が5月末に開通し、周りとつながったというのが明るいニュースです。
復興住宅が次々と完成して入居が始まっていて、それは喜ばしいことですが、4年間で知り合った人々との別れも切ないと思っている現在です。
仮設住宅に傾聴ボランティアに行き、それぞれの境遇を知り、みずからと重ねて交流できるのも楽しい時間となっています。

友人の佐々木幸子さんからのメッセージ

今野さんの自宅は漁港に近かったので、安否が気がかりでしたが、なかなか消息をつかめず心配ばかりしていました。 結果を確かめることをためらっていましたが、震災から2か月後、娘さんに思い切って電話してお聞きしました。
今野さんの地区は高台もないので、津波から逃げるのもさぞかし困難なことでしょう。
介護家族どうし、共通の話題を持ち寄りながら、ご一緒に活動した思い出は数限りありません。震災後再開したクラブの中で、あなたのことを折に触れ会員どうしで語り合っています。
モノ作りが本当に器用だった今野さん、突然お別れしてしまったことが残念でなりません。今は安らかにとお祈りするしかありません。
娘さんご家族のこと、見守っていてくださいね。

今野八千代さん、光夫さんへのメッセージ・写真を募集しています。

写真一覧へ戻る