あの日、そして明日へ

こころフォト

トップページ 写真一覧 こころフォトに寄せて 動画を見る

鈴木謙太郎さん(すずき・けんたろう/当時64歳)福島県浪江町

水門を閉めに行き、津波に流されて亡くなりました。

「こころフォト」ニュースリポート

  • 3月7日放送

    息子を亡くした92歳女性の今

    「こころフォトスペシャル いつも胸にあなたが〜10年目の手紙」VTR①

震災から12年を迎えて

母の竹子さんより

体験者は語ります。

①大小の地震が続く場合は必ず避難する事
②津波が必ず来る事
③必ず高台に避難する事

わたしは3・11 長男当時64才を津波で亡くしました
今12年たっても1日たりとも忘れた事はない
水関係を町から委託され
海の方に向かって行った後姿を見送ったのが最後
夕暮 窓辺に立って名を呼べと
謙太郎 返答なし 悲しい思い出だけうかぶ
毎日のくり返し
心から笑える言葉ほしいのです  

震災から10年を迎えて

母の竹子さんより

あれから十年が経とうとしています。私は災害公営住宅に一人暮らしています。
謙太郎と呼ばない日は、一日たりとも忘れたことはありません。自然と言葉が出てしまいます。
あなたの好きな浪江町の酒蔵・鈴木酒造が造る日本酒「磐城壽」を買っては仏壇に供えています。

毎日帰宅すると「ただいま。今日は誰か来なかったか?」と、ちゃぶ台の上に一升瓶を置いてコップになみなみと酒をついでニコニコしながら酒を飲んでいましたね。
ほろ酔いになると孫をかまって泣かしては笑っていました。その笑顔が二度と見られずさみしい日々です。

この災害公営住宅で阿武隈山脈に沈む夕日を見ては、自宅での倅との過去の日々を思い出しています。
あの日、今から水門を閉めに行くと言った倅に私は津波が来るから行くなと言った。
でも、行ってしまった。あの時、強く引き止めていれば・・・。
聞きたいことも話したいこともたくさんあった。それなのに・・・。

三十日あまりが経ってやっと自衛隊にがれきの下から見つけてもらった。
あの夜、星が輝く寒いさむい夜だった。
誰にもみとられないまま凍える寒さの中、逝ってしまった。
死ぬまでに何を考えていたのか、伝えたいことがあったのか、思いを巡らしています。
ヘドロの泥水を飲んで死んでしまった、その後悔だけが残り、今も毎月十一日の月命日にはお墓参りをしています。

謙太郎、なんで早く親より先に逝ってしまったの。
私はこの年になっても災害公営住宅で一人暮らしています。
長男をはじめ、孫はみんな一人前になって所帯を持ちました。ご安心ください。
長男の孫には心配するな、最期は俺がみとってやるからと言われています。
さびしい、悲しい、苦しい思いを抱えて迎える十年です。

私も十分に年を重ねました。
誰でも幸も不幸もついて回る。
人の命は無常なり。
ふるさとはもうないですがばあばは今、この残された人生、杖を頼りに生活しています。
どうか天国で見守ってください。

震災から7年を迎えて

母の竹子さんより

東日本大震災からもう7年目を迎え、私も90歳を迎えました。

平成30年、元旦初日の出、本当に近年にない四方に輝くご来光、今年もよい年でありますようにと笑顔で手を合わす。
故郷追われ避難。会津地方、中通り地方、最後は浜通り公営住宅。私の最後の住みか。仮の宿です。前途多難の長い長い細道でした。
故郷は80件以上の農家。主としてお米、野菜を生産。生活も豊かな、のどかな部落。先祖代々200年以上も続いた。
5月には田園は青々と広大な土地。カッコウ鳥がさえずり、あぜ道にはタンポポ咲きみだれ、空気のよさ。

津波で全戸流出、東京電力の放射能、我が部落は東電から20キロ圏内、避難余儀なくされ、その時点で家族8人はバラバラ。
祖母はどこ、孫親子はどこ、自分の宿さえ定まらず、着替えもなく、1週間後、全国の皆さまから生活物資をいただき本当にありがとうございました。厚くお礼申し上げます。

現在は1人暮らし。故郷思いだし、ひ孫3歳男子・4歳女子の両手をつなぎ、愛犬を連れて海に行こうとせがまれ、毎日の散歩道。
太平洋一望に見える堤防に上がり、大きな声で3人で歌う(海にお舟を浮かばせて 行ってみたいな よそのくに)。
近くには漁船、遠い地平線には大きな貨物船。ひ孫達ははしゃぐ。
ああ、あの思い出は二度と帰らぬ。

我が家の宅地は現在盛り土され、第二の堤防をブル10台くらいが右往左往し、10メートルくらいの高さに積み上げされ、近寄ることはできない。
高台から眺めれば胸があつくなり、涙が流れ、言葉にならない。ただ、無念。

私は18歳で嫁ぎ、主人と一緒にいたのは20日間だけ。大東亜戦争に招集。泣く日々。今度は震災津波で、町からの依頼で水門係を2期務め、3月で後継者もでき、最後の3月。
この津波で責任を感じ、水門閉めに行ったきり帰らぬ人となった。

私のこの思い、誰が知るでしょう。
1日も早い復興をお祈りいたします。

震災から6年半を迎えて

母の竹子さんより

せがれは米作り農業から、10年ほど前頃より花の生産販売に切り替え、とても好調でした。
ハウスの中で従業員さんが1日の日程の話し合い。笑い声で、それは大変にぎやかでした。

午前10時と午後3時はお茶の時間、来客も多く情報も聞かされ、耳をかたむける事も多かった。
段ボールに詰めた花の苗。トラックに積み出荷する時は、みんなで両手を振って「きれいに咲いてー」と見送った。
毎日が楽しく過ごした思い出の数々。震災、放射能のために皆無、失業となった。
先祖代々200年も続いた故郷。3・11から一変した。
除染した黒い袋は山積され、屋敷跡は黒い土が山に積まれ、ブルドーザーが動いていた。今はお隣さんがどこか、見当もつかない。
赤い字で「立ち入り禁止」の看板がある。私、絶句。

大型トラックが何台も土埃をあげて往復していた。歩いている人もいない、聞く人もいない。
震災前は私は“ひ孫守”で、朝夕散歩。当時4歳の女のひ孫と、3歳の男のひ孫、愛犬マリを連れて海に行こうとせがむひ孫。
家から300メートルくらい行けば、太平洋沿岸、漁船客船も遠く浮いている。私は両手にひ孫と手をつなぎ、歌をうたう。
おつむを前に後ろに振りながら、唱歌「おててつないで のみちを行けば みんなかわいい小鳥になって」
マリは前に後ろに駆け回る。道ばたに咲くタンポポの花。白い綿のような花。風に吹かれ飛んで行く。思い出深い故郷は消えた。

私にとっては夢かまぼろしか。悲しくせつない毎日。1日たりとも忘れたことはない。
私の心は復興どころか逆風だ。原発放射能のおそろしさを忘れないでください。
皆さまには故郷がある喜び、楽しみをいっぱい重ねた故郷を永遠に残していただければ幸いです。

震災から6年を迎えて

母親の竹子さん(88)より

福島県においては、東日本大震災東京電力原発事故―住民の家族バラバラの生活はここから始まった。
故郷をはなれ、日立会津中通りと転々と七坂峠を越えて中通りの北幹線仮設住宅での暮らしが始まってもう六回目のお正月を迎えた。
仮設住宅の生活もなじみ、多くの方々に支えていただき家族同様なおつきあいをしていただき、笑いあり、冗談も語り合い、本当に楽しい生活の毎日です。

ただひとつ私にとって一日たりとも忘れられない8人家族の生活をしてくれた大黒柱が津波で流されがれきの下で40日間独りぼっちで寒さの中誰にも見つけてもらえずどんなにかつらかったでしょう。
こんなにも発展しているこの世の中、この世とあの世に電話がつながって息子と一言お話してみたい。
そんな時代はくるでしょうかと思う。叶わぬこととは知りながら思う。老母笑う…

今月の中旬私にまたひとつの峠を越えて県営住宅南相馬市移ることになり見知らぬ土地での生活がまた始まります。
私が引っ越しするために相馬に住んでいる長男、孫が来て家族そろって片付けしていただき大助かりでした。
帰りぎわに35才になる長男孫がおれの気持ちだといって小さなのし袋お年玉といってばあやとっておけといって渡してくれました。
生まれて初めて米寿を迎え手に渡されるお年玉、筆舌に尽くしがたい感動でした。

全国の皆様、老後を大切に生きてください。必ず幸運が来ます。全国の一日も早い復興をお祈り申し上げます。

震災から5年半を迎えて

母親の竹子さん(88)より

東日本大震災からもう五年五ヶ月。
お盆の月を迎い故里は墓参にて友人知人との出会でさぞにぎわうことでせう。
先祖代々二百年も続いた暮し豊かな農村90戸位の農村地帯。
全戸流出、故里の思い出だけが頭をよぎる。
太平洋の岩をも砕く波の音を枕に潮の香り広大な田園風景はカッコウ鳥がさえづり、秋は實のりの黄金色あーもう一度あの故里を戻したいでも戻れない現常。

現在は中通りの仮設住宅にての一人住い。
近隣同士が相助け、話し合い、笑い合い、身心共にいやされ楽しい日々です。
私は六月二十七日、誕生日には米寿を迎い子・孫主催でホテルに招待され盛大なお祝いをしていただきました。
子・孫曾子全員家族集合12名。
黄色帽子をかぶり黄色いチャンチャンコを着て、記念品の額を胸に花咲ヂヂイの気分でした。
家族全員笑顔で記念撮影感無量。
感謝の念で一ぱいでした
あーせめて、一目家族全員集合のこの様子を津波で亡くなった倅に見せてやりたい親心筆舌につくし難いこの思い。
故里の旧屋敷跡は新堤防築くために土盛し、風景はもう一変。
永遠に戻る事はないでせう
今後世界中が放射能のない未来を創って下さい。
1日も早い復興を祈念申し上げます。

私の毎日の思い。
日々思う
変わり行く里
老いの身よ

震災から5年を迎えて

母親の鈴木竹子さんより

自分が変わった。避難して5年目、初めて年賀状を友人知人親戚に筆をとる。
過ぎ去りし故郷を思い出し、真心こめて20枚書くことができ、自分ながら何ともいえない喜びを感じた。

故郷の集落90戸の風景は一変した。我が宅地は堤防をつくるため土が高く盛られる。一部には仮置き場の袋が高く積まれ、広大な田園風景は一変していた。
ああ無念だ、帰る戻る故郷はもうない。

多くの方々に、陰に陽に支えていただいたおかげで仮設住宅の生活にもなじみ、笑い合い、話し合い、冗談も言える仲間が寄り添っています。
でも部屋に戻り1人ぼっちになれば、淋しい。

遺影の前で今日の喜び、愚痴をこぼす。母親としての場なのです。1日たりとも忘れることはありません。

仮設住宅の暮らしも、平成28年29年度には各自、県内県外にと離れることとなります。本当にこれから先、思いやられます。
避難されています多くの方々、健康を保ちながら頑張ってください。飯坂の地より祈っています。

震災から4年半を迎えて

母親の鈴木竹子さんより

東日本大震災から、もう5年目を迎える。
町からの委託で水門係をしていた。津波がくるといわれ、水門を閉めに海に向かったまま津波にのまれ帰らぬ人となった。
朝な夕な位牌に向かって悔しさのあまり、「なぜこのお母(おか)と家族残して死んだのだ、お前は馬鹿だ」と毎日愚痴を言う自分。
でも月日がたつにつれて思いが変わった自分。謙太郎よ、あの寒い晩に誰にも見取られることなく、一杯の水すら飲むことできず1人ぼっちで濡れた服のまま、着替えさせる人もなく、がれきの下敷きになってこの世を去ったかと思うと、頭が下がり、涙がこぼれる、無念だ。

生活に困ることなく過ごした何十年の故郷の集落は一変した。
旧我が家の跡は、堤防を作るので高く土が盛られ、北側の方には除染した土の袋が積まれ、高く塀で囲み中が見えない無残な姿になった。
仮設住宅にも変化が見られる。県外に出ていく人、家を新築して家族で浜通りの方に移り住む人、また当地に永住する人。
今住んでいる仮設も、平成29年3月で打ち切りとなるのです。
今住んでいる住宅は第2の故郷です。色々な会合で顔見知りになって人間関係もでき、お隣同士の方々からも珍しい品々をいただき、ありがたい感謝の毎日です。

せっかく友好関係ができたのに。1年後、2年後には、また離ればなれになるだろう。この思い、誰が知る。
第3の永住する住家はどことやら、毎日案ずる日々。
仮設住宅にお住まいの多くの方々、心の復興をお祈り申し上げます。
心に花の咲く日まで

震災から4年を迎えて

母の竹子さんより

避難して4年目を迎えた正月、朝日がまぶしいほどにガラス窓を照らす。
今までの悲しみ、苦しみ忘れ、心落ち着く朝日に向かって「明けましておめでとうございます」と合掌。
故郷の太平洋の浜辺でご来光拝んだあのときの思いと重ねあわせ感無量。
今年初めて、仏壇に祝いの重ね餅を飾り、花は南天ストック供する花の香りが部屋中に。
1人で迎えたお正月、位牌と写真に1人「明けましておめでとうございます」。

平成27年1月元旦、母も何事もなく元気で正月を迎えることができたよ、仏壇にはあんこ餅、汁餅、のり餅を供える。
早く温かいうちに食べな、ほらーうまかっぺー、逢えるなら逢いたい。

謙太郎も話したいこと、叶えたいこといっぱいあったろうに。

愛犬マリは岐阜県日本動物センター飯舘のワンちゃんと仲間に入れてもらい、可愛がってもらっています。年に2回、3月と10月に仮設住宅に1泊で逢いにきてくれます。

本当に多くの方々に支えられ、この世は1人では生きていないことを実感いたしました。

福島の中通りは、浜通りと違い、降雪量が多い。自分の庭先は、自分で除雪することになっているのですが、いつもお隣さんが面倒見てくださり、本当にたすかっています。
また週に2回ほど、浪江デイサービスセンターに仲間とお世話になっています。冗談を語り合い、笑い合い、最高に心が癒されます。

住宅においても、中高年の方々が集会を結成し、会長さんのもとで体操、ゲーム、歌、お茶会など、とても楽しいです。

そのほかに書道、民謡などに仲間入りさせていただき、下手ではあるがとてもおもしろい。本当に人とのふれあいによって教えられること、学ぶことがいっぱいあります。

もう後戻りはできない。今度は前向きに、残る余生を、1日1日を、明るく楽しく笑顔で、ひとさまに感謝しながら生きることが、せがれに対しての成仏につながってほしいと思っています。

全国の多くの皆さま方には、心の支えとなる支援、復興のための物資の援助をいただき、本当にありがとうございました。厚くお礼申し上げます。
1日も早い東日本大震災の復興をお祈り申し上げます。

震災から3年を迎えて

母親の鈴木竹子(86)さんより

23年3月11日、あの日あの時、忘れてはならない1日です。

棚塩集落は、全戸津波で流出。故郷の風景は一変した。
あの津波で、8人家族を支えていた大黒柱の息子(当時64歳)を亡くした。

あの地震の揺れの中、母の愛犬マリを連れ出してくれた、息子からの最高の形見なのです。
原発放射能発生、避難を余儀なくされ、転々と5回も変わって、マリも一緒に、同じ被災者の方が一軒家の借り上げ住宅に住んでいたため同情をよせてくれ、1年間程お世話になったのですが、私も申し訳なく思い、平成25年11月の暮れに孫がインターネットで見つけてくれ、岐阜県岐阜市の日本動物介護センターにお世話になることになったのです。

泣く泣くの別れ。津波で息子と別れ、愛犬マリとも別れ、筆舌にも尽くし難いこの思い、誰が知るでせう。
復興と云えども、3年経っても今だ何ら変わる事なく、仮設住宅の生活、重苦しい。
震災前の生活に戻ることはない。

せめて今、生きている中に一軒建ての、小さい平屋建てでもよい、愛犬マリと暮らせる事。
1年でもいい、1か月でもいい。あの世に行く前の暮らしがほしいのです。
1日も早い復興を祈ります。

母の竹子さんからのメッセージ

家計を支えていた息子が津波で流され帰らぬ人となったため、家族8人は現在バラバラ、私は1人仮設住宅で居ます。
2年目のお正月を迎え、去年は1人ぼっちの正月でしたが今年は家族そろっての正月。息子の嫁、孫夫婦、ひ孫の10人でせまい仮設住宅でのお正月。
座っている人、立っている人、揃ったお茶碗もなくお皿でごはんを食べる人、お汁椀で食べる子ども、
そんな事おかまいなしに笑いあり涙ありのせまい仮設住宅のお正月。
本来ならばあの広い家での家族揃っての正月を迎えたのにと私は思いました。
この今の状況を津波で亡くしたせがれに一目見せてやりたい心がつのり、流す涙も笑いに変えるこの親心の心境は、誰が知るでしょう。

鈴木謙太郎さんへのメッセージ・写真を募集しています。

写真一覧へ戻る