高校講座HOME >> 世界史 >> 第33回 革命の世紀と中国 〜毛沢東の生涯〜

今回の学習内容

第33回

革命の世紀と中国 〜毛沢東の生涯〜

講師:立教大学教授 上田 信
1911年の清朝滅亡後、中国は混乱が続きます。その中で農民に依拠して革命を成し遂げ、中華人民共和国を築いたのが毛沢東です。しかし彼が晩年起こした文化大革命は多くの人々を苦しめました。毛沢東の生涯を通して20世紀中国の激動の歩みをたどります。

学習ポイント

 革命の世紀と中国〜毛沢東の生涯〜
今日のテーマ
青年時代の毛沢東上田先生1s第33回テーマ

今回のテーマは、「革命の世紀と中国、毛沢東の生涯」。19世紀末から20世紀後半、1970年代にかけての中国について学習します。

日本は、日清・日露戦争、さらに日中戦争から太平洋戦争へと、主にアジアを舞台に、繰り返し戦争を行ないました。1945年、敗戦。戦後は、民主主義の国として、経済大国への道を歩んでいきます。

19世紀末、中国南部の湖南省に一人の人物が生まれます。その名は毛沢東。彼は中国共産党を創立、革命運動や日本との戦争を指導し、1949年に中華人民共和国の建国を成し遂げました。
しかし、晩年に起こした文化大革命は、10年にわたって中国の人々を苦しめました。
今日は、毛沢東の生涯を通して、中国の激動の現代史をたどります。

1976年9月、今日の主人公、毛沢東が死去しました。毛沢東は、20世紀の偉大な革命家とされていました。しかし、彼の死後、中国の実情が分かりました。それは、きわめて悲惨な現実でした。
毛沢東の掲げた輝かしい理念と、毛沢東の名の下で現れた陰惨な現実。今日は、その理念と現実のギャップが生まれた経緯、そして今の中国が生まれた経緯を、毛沢東の人生をたどることで見ていきましょう。

<3つのポイント>
@辛亥革命後の中国社会

 皇帝の支配から共和国に変わった激動の中国社会をたどります。
A抗日戦争と国共内戦
 日本と中国が戦争を繰り広げ、その後、国内でも戦争が起こりました。
戦争を指導する中で次第に政治の実権を握っていくプロセスをたどります。
B文化大革命と日中国交正常化
 次第に現実と触れる機会を失った毛沢東が何を恐れたのかを見るとともに、日本との新たな関係が結ばれる経緯を見ていきます。

    毛沢東の生まれ育った時代
    若き毛沢東孫文五・四運動

    中国南部の湖南省。毛沢東は1893年、豊かな農家の三男として生まれました。
    厳格な父親に対しては反抗心が強く、父親の決めた結婚に反発、家出をしたこともありました。
    当時、中国は清朝の末期。1895年に日清戦争に敗北し、ヨーロッパ列強や日本に圧迫されていました。
    1911年、辛亥革命によって清朝は滅びました。翌年、孫文が中華民国建国を宣言、自らは臨時大総統に就任します。しかし、実権を握ったのは清朝の大臣だった袁世凱でした。
    その後の中国では、「軍閥」と呼ばれる軍事勢力が各地に並び立ち、争いを続ける、分裂状況が続きました。

    1918年、毛沢東は、北京大学の図書館の事務員になります。大学の教員にあごで使われ、知識人に対する反感が芽生えていきました。
    1919年、日本の権益拡大に反対する学生や労働者の大規模な抗議運動が起こりました。五・四運動です。運動は中国の内外に広がりました。
    この大衆的なうねりやロシア革命を背景に、1921年、上海で中国共産党が結成されます。毛沢東も12人の創立者の一人でした。当時の共産党は、ソ連にならって革命を行なおうとする人々が主流で、都市の労働者が革命の主役という考えでした。しかし毛沢東は、「人口の大部分を占める農民こそが革命の主役になる」と考えます。そして後に、彼は農村を革命の拠点としていくことになります。

      辛亥革命後の中国社会
      中国年表毛沢東の階級観

      年表を見てみましょう。
      ・1893年    毛沢東生まれる 比較的豊かな農家の家に生まれ、父親と対立
               父への反抗が、「反逆」精神の起源。
      ・1894〜95年  日清戦争
      ・1911〜12年  辛亥革命
      ・1912年    中華民国成立
      ・1914〜18年  第一次世界大戦
      ・1917年    ロシア革命
      ・1919年    五・四運動
      ・1921年    中国共産党結成

      共産党内部でも、主流派にへこたれずに自らの基盤を農村に作り上げていくところに、
      毛沢東ならではの反逆精神の一端を見ることができます。
      毛沢東が「農民こそ革命の主人公」と考え、農村で調査を行ないました。その調査報告書を読むと、とても綿密に調査し、独創的な見方を出しています。
      例えば、毛沢東は階級を固定的に見るのではなく、ダイナミックに動くものとして捉えています。
      農村には、自分の土地を持たない貧農、自作農、他の人を雇って農作業を行なう富農、そして自分では耕さず、小作料を取り立てる地主がいました。
      毛沢東は、富農や地主だから保守的だと決めつけることをしませんでした。
      むしろ、貧農や自作農の中で社会的に上昇志向の強い人々が、高利貸しや小作料の取り立てを厳しく行ない、人々を圧迫する傾向があるとしています。
      逆に、上の階級から没落傾向にある人々は、革命に対して理解があるといった見方を出しています。
      こういった調査と独自の分析に基づいて農村の実情を理解した毛沢東は、農村に革命の根拠地を作っていったわけです。

        抗日戦争と国共内戦
        北伐軍の進路黄土高原中華人民共和国が成立

        その後の中国の歩みをたどりましょう。
        全国統一を進めるため、孫文は中国国民党を組織します。
        1924年、第一回大会で共産党員の入党を認め、ソ連式の軍隊も組織しました。
        孫文の死後、その後継者となったのは蒋介石(しょうかいせき)でした。
        彼は1926年、北方の軍閥を倒して統一をめざす「北伐」を開始します。「北伐」と並行して、各地で共産党の影響を受けた農民や労働者の運動が盛んになりました。
        これに危機感を抱いた大地主や資本家の要請で、蒋介石は1927年、共産党員や労働運動の指導者、進歩的な知識人を弾圧するクーデタを起こしました。
        都市での運動は壊滅し、毛沢東も蜂起に失敗して孤立します。毛沢東は、平野部から、江西省の井崗山(せいこうざん)という岳地帯に拠点を移しました。そして、ゲリラ戦などで農村に根拠地を広げ、土地改革を行なって貧しい農民の支持を得てゆきます。

        1931年、満州事変が起きます。中国東北部にいた日本の関東軍が、鉄道爆破事件を口実に軍事行動を起こし、東北部全域を占領、翌年「満州国」を建国したのです。
        日本は、清朝最後の皇帝・溥儀(ふぎ)を満州国のトップに据え、満州国を実質的に支配しながら、華北へも勢力を伸ばしました。
        しかし、蒋介石のひきいる国民政府は、日本との戦いよりも共産党との内戦を優先、その根拠地を包囲します。
        1934年、共産党は江西省の拠点を捨てて西の山岳地帯に脱出します。長征と呼ばれる長い移動の末、陝西省北部の黄土高原にたどり着き、ここを、新たな革命の根拠地としました。長征のさなか、毛沢東は中国共産党の指導者の立場を確立しました。

        さらに1935年、共産党は国民党に対して、内戦をやめて一致して日本と戦うことを呼びかけます。
        1937年7月、北京郊外で起きた盧溝橋事件をきっかけに、日中両国は全面戦争に突入しました。
        この年、共産党と国民党は内戦を停止。共産党の軍は国民政府軍の一部となり、これ以後中国は、日本に対して一致団結して戦うことになりました。
        1945年、日本の降伏で戦争は終わりました。中国は、アメリカ、イギリスなどの援助もあって、8年に及ぶ戦争の勝者となったのです。
        しかし翌年には共産党と国民党の内戦が再び起こりました。
        当初は国民党軍が優勢でしたが、支配地域で農民に土地を分配して人々の支持を得た共産党が、最終的な勝利者となりました。
        1949年、中華人民共和国が成立。毛沢東は国家主席に登りつめます。

          抗日戦争と国共内戦〜中華人民共和国建国
          25年間のできごと年表黄土高原衛星画像

          ・1924年   第1次国共合作(共産党員が国民党に入るというかたち)
          ・1926年   北伐
          ・1927年  蒋介石の上海クーデタ
          ・1931年   満州事変(日本の侵略)
          ・1934〜36年 長征
          ・1937年 日中戦争始まる(〜45年)/第2次国共合作
          ・1945〜49年 国共内戦(国民党と共産党の間の内戦)
          ・1949年   中華人民共和国成立

          日中戦争は、中国国内への圧迫に対する抵抗であり、毛沢東の思想を実現するための革命の戦いでした。
          蒋介石は日本よりも共産党との戦いを優先しましたが、中国にとって最も大きなものは日本の侵略だという国内世論がありました。そのため、蒋介石も最後には共産党と手を結ばざるを得ませんでした。

          共産党が、日本や国民党に勝つことができた理由がいくつかあります。
          共産党は周囲を包囲されていて物資が乏しい中で、農民に土地を与えて農民を自分たちの側に引きこみ、そして心を統一させて、乏しい物資の中でもやりぬこうとしました。

          もう一つは、拠点とした黄土高原での戦争の方法がありました。ゲリラ戦という形で行なったんですが、これについては最近、興味深い説があります。
          黄土高原はこのように、台地に谷間が木の枝のように切りこむ地形になっています。
          谷が出合うところは、住民の情報も出会うところです。そして情報は瞬く間に他の谷にも広がってゆきます。
          共産党軍はこの地域の農民を味方につけましたので、こうした情報網を活用することができました。これが、共産党軍が黄土高原で有利に戦えた一因でなはいか、という仮説が、この地域を調査した日本の研究者によって提唱されているのです。 (深尾葉子・大阪大学准教授の説によるものです。2009年1月の放送で出所を明示しなかったことにつきましては、関係者におわびします)

          このように、調査に基づき、現実に即して戦略を立てるところに毛沢東の強みがありました。しかし、新しい国の主席になったとたん現実に触れあうことができなりました。

            文化大革命と日中国交正常化
            朝鮮戦争劉少奇ニクソン大統領訪問

            1950年、朝鮮戦争がぼっ発しました。社会主義陣営の北朝鮮が、北緯38度線を越えて韓国に進攻したのです。
            これに対して資本主義陣営のアメリカを中心とした国連軍が反撃、中国国境にまで迫りました。
            この時中華人民共和国は、同じ社会主義国として、人民義勇軍を送って北朝鮮を助けます。その結果中国は、アメリカ軍と直接戦うことになりました。
            この戦争以後、毛沢東は、アメリカから核攻撃を受けるのではないかとの不安を募らせます。

            当時、社会主義陣営の盟主と認められていたのはソ連でした。
            ソ連のスターリンは、中国にも影響力を振るおうとしましたが、それに対し、毛沢東は密かに反発を強めました。そして1953年のスターリンの死後、中国とソ連は公然と対立するようになりました。毛沢東は、米ソ両国に対抗して、独自の核兵器開発に乗り出しました。

            国内では毛沢東は、大衆運動によって農業と工業の大増産を成し遂げようとします。
            1958年に始まる「大躍進運動」です。
            農民は人海戦術での土木作業に駆り出されました。また鉄鋼の生産を倍増させるため、いたるところに手作りの溶鉱炉が作られましたが、粗悪な製品しかできませんでした。
            農作業に必要な労働力が不足した結果、中国全土には深刻な飢饉が広がり、数千万人が餓死しました。
            1962年、毛沢東は大躍進の失敗を一部認めました。この時期、毛沢東の後任の国家主席となっていた劉少奇(りゅうしょうき)の下で、経済立て直しが行なわれます。
            農地の一部が個人の自由に委ねられ、作物の一部を自由市場で販売することが認められました。これによって経済は徐々に回復していきました。
            しかし毛沢東は、こうした政策を、資本主義に逆戻りするものと考えました。

            1966年、毛沢東の指導の下に、「文化大革命」という激しい運動が始まりました。
            これは、資本主義復活をめざす勢力を打倒する新しい革命運動だとされました。
            毛沢東を崇拝する青年たちが各地で立ち上がり、共産党の幹部や、学者・医師などの知識人を攻撃しました。
            1968年、国家主席の劉少奇は失脚。「裏切り者」「敵の回し者」として共産党から除名され、翌年失意のうちに亡くなりました。
            「造反有理」というスローガンで社会の秩序は失われました。10年に及んだ文化大革命は、多数の犠牲者を出し、経済にも打撃を与えました。

            1972年、アメリカのニクソン大統領が、突如中国を訪問しました。
            アメリカは、泥沼化するヴェトナム戦争に苦慮し、ソ連と対立する中国に接近したのです。これは、中国が国際社会での孤立から脱却するきっかけとなりました。
            同じ年、日本の田中首相が訪中し、日中両国の国交が正常化されました。
            日中共同声明では、「中華人民共和国政府は日本国に対する戦争賠償の請求を放棄する」とされました。

              文化大革命と日中国交正常化
              挑戦戦争〜年表罪状の三角帽子

              なぜ毛沢東は、ソ連とも対立して世界で孤立する道を選んだのか、年表で見てみましょう。

              ・1950〜53年  朝鮮戦争
              このころまではソ連とは同じ社会主義国として友好関係にありました。しかし、社会主義建設のやり方をソ連が押しつけてくると、毛沢東は耐えられず反抗しました。そして、かつての戦争の時代と同じ方法で行おうと、大衆動員をしました。
              ・1964年    原爆実験に成功
              ・1958年    大躍進政策
              ・1966〜76年  文化大革命

              文化大革命では、人々の心の奥にしまわれていた、少し自分よりも立場の高い人に対する嫉妬・ねたみなどが、政治運動となりました。今の中国では、文革は毛沢東の大きな誤りとされています。

              ・1972年    ニクソン訪中
                     日中国交正常化

              中国はソ連に対抗するためアメリカの中国接近を受け入れました。
              その後日本も田中首相が訪中、国交回復へむかいました。
              日本は中国という国家に対しては賠償を行わない代わりに、多額の経済援助を行ない、中国の発展に寄与してきました。日本の多くの企業が中国で工場を運営したり、中国の企業と合弁したりと、深い経済的つながりができました。
              しかし、日中戦争で実際に肉親を殺されるなどの被害を受けた人々は、深いトラウマを背負って、戦後を生きています。
              国と国の関係だけではなく、被害者が抱えるトラウマに想いを寄せ、理解すること、そこから本当の日中友好が生まれるのではないでしょうか。

                経済発展をとげる中国とまとめ
                搶ャ平北京オリンピック会場第33回テーマ

                1976年9月9日、毛沢東は82年の生涯を閉じました。
                毛沢東の死とともに文革が終わり、中国は経済発展をとげていくことになります。

                毛沢東の死後、実権を握ったのは、かつて文化大革命で劉小奇とともに打倒の対象となった搶ャ平(とうしょうへい)でした。
                搶ャ平は1978年以降、改革開放路線を打ち出し、市場経済を取り入れ、海外の企業や投資を受け入れます。こうして中国は、今日に至る経済発展の道を歩み始めたのです。その成果を、国の内外に示そうとしたのが、2008年に開催された北京オリンピックでした。

                <まとめ>
                @辛亥革命後の中国社会
                A抗日戦争と国共内戦
                B文化大革命と日中国交正常化


                今回は、毛沢東誕生から今日までの100年余りを見てきました。
                現実を見て現実に学ぶということが、より良い国家作りには大切だということが分かったのではないでしょうか。

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