Eテレ 毎週 金曜日 午後2:20〜2:40
※この番組は、昨年度の再放送です。
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第17回
皆さん、こんにちは〜
今日のゲストは、今回が2度目の出演となる、韓国出身のヒョンギさんです。
タレント、俳優、お笑い芸人として、日本と韓国の両国で活躍しています。
申維翰(しんいかん)は、18世紀に朝鮮王朝と日本を結ぶ役割を果たした人物です。
申維翰は、200年に渡って日本と交流した「朝鮮通信使(つうしんし)」と呼ばれる使節団の一員でした。
今回見ていく時代は、14世紀末から500年続いた、朝鮮王朝の時代です。
日本と朝鮮王朝の間には、辛く、重い過去がありました。
しかし、申維翰は日本の人々との出会いによって、心が動いていきます。
そして通信使たちは、日本で現代の韓流ブームのような、熱烈な歓迎を受けることとなります。
朝鮮王朝の時代は、日本では江戸時代に当たります。
朝鮮王朝は江戸時代よりも長く、500年も続きました。
そのため、朝鮮王朝を表すときは、「朝鮮王朝500年」という一つの決まり文句にもなっているそうです。
それほど平和で伝統が強く、儒教が深く浸透した時期だったと言えます。
江戸時代の日本は鎖国政策をとっていたため、あまり海外とやりとりをしていないイメージがあります。
しかし通信使など、朝鮮の人々を多く呼んで歓迎するなど、つながりがあったといいます。
朝鮮王朝誕生前の14世紀、当時の朝鮮半島を治めていたのは高麗でした。
高麗は略奪を行う倭冦(わこう)によって苦しめられていました。
その倭寇を撃退したのが、高麗の将軍、李成桂(りせいけい)でした。
倭冦撃退の功績で名をあげた李成桂は、高麗にかわり、朝鮮王朝を建てます。


李成桂は社会秩序維持のため孔子の儒学を重視 儒学を体系化した朱子学が国作りの基本理念
社会秩序の維持のために李成桂が重視したのは、中国の孔子が始めた儒学でした。
特に、朱熹(しゅき)によって儒学がさらに体系化された「朱子学」が、朝鮮王朝の国作りの基本理念とされます。
儒学の知識は、科挙と呼ばれる厳しい試験で試され、科挙の合格者は「両班(やんばん)」という知識人階層に
なっていきました。
そして申維翰もその一人でした。
両班とは、文官と武官、つまり知識人と軍人のことです。
この両者が、いわば特権階級となり、国の中心として働きました。
両班たちは教育に力を入れ、国の隅々にまで儒学を浸透させるために、書院と呼ばれる私立学校を
作りました。


15世紀、朝鮮独自の文字ハングルが発明された 現在の朝鮮の伝統文化がこの時代に形成された
15世紀には、朝鮮独自の文字・ハングルが作られます。
ハングルは、庶民にもわかりやすく儒学を伝えるのに役立てられました。
ハングルは、王が学者を呼んで研究させ、作られた文字でした。
そのため、合理的に科学的に作られた文字だといいます。
こうして、今日の朝鮮半島の伝統文化とされるものの多くが、この時代に形作られていきました。
この頃は、日本とも平和な関係が続いていました。
しかし16世紀、海を渡って15万の兵が押し寄せてきました。
1592年、日本を統一した豊臣秀吉が、明を攻めるために朝鮮半島に大軍を送り込みます。
壬辰(じんしん)・丁酉(ていゆう)の倭乱、日本でいう、文禄・慶長の役です。
朝鮮王朝は、明の援軍と共に、日本の軍勢をしりぞけました。
しかし、朝鮮半島全土にわたって大きな被害を受け、国土は荒廃します。
多くの朝鮮の人々が捕虜として日本に連れ去られ、日本と朝鮮王朝との国交は断絶してしまいました。
そのわずか数年後、日本から意外な申し出があります。
新しく将軍となった徳川家康が、朝鮮王朝との和平を望んでいるというものでした。
秀吉の侵攻の記憶がまだ生々しく、反対の意見もありましたが、同時に国交回復を望む声もありました。
議論を重ねた結果、1607年、日本へ使いを出すことが決められます。
これにより、朝鮮半島と日本との交流が再開されました。
日本からの申し出を受け入れたことについて、その当時の朝鮮半島の王も複雑な気持ちだったのだろうと、
ヒョンギさんは話します。
申維翰は貧しい農家に生まれましたが、猛勉強の末、科挙に合格して朝鮮通信使の一員に選ばれます。
朝鮮通信使は、まず日本の窓口だった対馬(つしま)を訪ね、そこから江戸を目指して長い旅をしました。
道中、通信使に付き添ったのが、朱子学者の雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)でした。
対馬藩に仕えていた雨森は、朝鮮の言葉が堪能で、朝鮮の文化への理解も深い人物でした。
申維翰は、旅の途中で見た日本の様子を丁寧に書き留めていきました。
当初、申維翰は過去の歴史から、日本訪問にあまり乗り気ではありませんでした。
しかし、その気持ちは、実際に日本を旅していくうちに変わっていったといいます。
旅の先々で、朝鮮通信使は大歓迎を受けたためです。
申維翰が驚いたのは、日本の人々の勉強熱心さでした。
多くの人が朝鮮通信使の元にやってきて、儒学について尋ねてきたといいます。
朝鮮王朝の文化の根底には、儒学の教えがあります。
申維翰は、日本人との交流を通して、日本人も同じ教えを大切にしていることを感じたといいます。
申維翰はまた、日本での旅を通して日本人が礼儀正しく、謙虚な人々であることを少しずつ理解していきました。
そのことを教えた一人が、旅の間、通信使を支えた雨森でした。
別れのとき、申維翰は儒学者の誇りである帽子を雨森に渡しました。
通信使とは、信頼を通じ合うと書きます。
朝鮮通信使は、この字の通り、朝鮮と日本の2つの国の信頼関係を築いたのでした。
その後、雨森は日本で初めて、ハングルと日本語が併記された朝鮮語の入門書を著しました。
申維翰は朝鮮に帰り、もう日本から秀吉のような者は現れないであろうと、王に報告しました。
朝鮮通信使はその後およそ100年続き、朝鮮は、鎖国をしていた日本と唯一国交を結んだ国となりました。
ヒョンギさんも日本に来る前、日本について知らないことや、誤解があったそうです。
しかし日本に来て友達ができ、色々な話をしてコミュニケーションを重ね、日本についてより多く知ることに
なったといいます。
このことから、相手を受け入れる姿勢で人と会い、直接会話をすることが大事だと感じていると話します。
日本の江戸時代にあたる約260年間の時期において、日本と朝鮮の間では平和で戦争のない時期が続きました。
お互い隣り合う国で、これほど長い間平和が続いたのは、世界でも珍しいことだといいます。
江戸時代、通信使はおよそ200年に渡って、朝鮮王朝から日本に12回来ています。
平和な時期を維持してきたという意味において、通信使が果たした役割は大きかったと考えられます。
当時、日本は鎖国をしており、人々は外国の文化と接する機会がほとんどありませんでした。
通信使は、日本の人々にとって何十年に一度、外国から大規模な使節がやってくるという機会でした。
自分たちと全く違う衣装を身につけ、違う文化を持つ通信使は、いわば外国の文化の代表のような存在だったと
言えます。
そのため江戸に向かう通信使が通る道では、珍しい朝鮮通信使の行列を見るために、たくさんの人が
集まり歓迎しました。
そして通信使を見た記憶が、その地域独特の踊りや朝鮮通信使を元にした人形を作るなど、地域の文化にも
なっていきました。
また通信使が宿泊する宿には、その地域の儒者や武士などが訪れました。
そして共通の文字である漢字を用いて漢詩をお互いに交換したり、儒教の書物でわからない部分を使節に
聞くなど、個人レベルでの交流がなされたといいます。
こうして、日本の社会の中でも、儒学が徐々に盛んになっていきました。
また、この意味で朝鮮通信使が果たした役割は大きく、日本人にとっても通信使が大きな影響を与えたと
考えられます。
韓国では、日本について話をする時に、しばしば「遠くて近い国」と表現されると言います。
しかし、より交流によって理解を深めることで、「近くて仲の良い国」に変わるかもしれないとヒョンギさんは
話します。
コミュニケーションを重ね、相互理解をすることが、今後ますます期待されます。



韓国語の授業が行われている対馬の高校 韓国人観光客と話をしたい
長崎県・対馬は長い間、朝鮮半島と日本をつなぐ役割を果たしてきました。
対馬では現在、高校で韓国語の授業が行われています。
韓国語を学ぶ生徒の一人は、
「対馬は韓国との関わりが深く、韓国から観光に来る方もいるので、話しができたらいいなと思い、韓国語を
学びたいと思いました」
と話します。
また韓国の高校生が、朝鮮通信使など、両国の交流の歴史を学びに対馬を訪れたりもしています。
そのうちの一人は、
「ここにやってきてこのような友好的な関係があったことを初めて知りました。こんなに良い交流が日本と
韓国の間にあったことを本当にうれしく思います」
と話します。
朝鮮通信使が結んだ、朝鮮半島と日本の2つの国の理解を深める交流は、今、こうして続けられています。
さて、次回はどのようなゲストが世界の歴史を紹介してくれるのでしょうか。
お楽しみに〜!!
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