NHK高校講座

世界史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:20〜2:40
※この番組は、2015年度の新作です。

世界史

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今回の学習

第17回

明代の中国 〜東西文化交流〜

  • 世界史監修:立教大学教授 上田 信
学習ポイント学習ポイント

1.明の対外政策 2.明と日本の交流 3.宣教師の来訪

  • 今回の旅のテーマ
  • 日本の地図

「マジカル・ヒストリー倶楽部」にようこそ!
今回のミッションは、「モンゴル帝国の後の中国、明(みん)の時代」です。

右の写真は、今から約400年前の明の時代に中国で作られた、坤輿万国全図(こんよばんこくぜんず)という世界地図です。

眞鍋さん 「これ400年前に描かれたの?その時代に作られたなんて思えないくらい正確だね。日本も、北海道に本州、四国、九州がある。アジアもしっかり描かれているね。」

永松さん 「今の地図とあまり変わらないですよね。この地図は、私たちになじみのある、アジアを真ん中においた世界地図の始まりでもあるんです。この地図一つ見てもわかるように、今回ご紹介する明の時代では、世界の東と西で交流が盛んに行われました。」

眞鍋さん 「文化の行き来が見られるのね。楽しみ!」

  • 訪れる場所と時代
  • 明の東西文化交流

マジカル・ヒストリー・ツアー、明の時代の東西文化交流の様子が分かる旅に出かけます。
明は、都を北京に定め、壮大な国家プロジェクトを次々と行った漢民族の王朝です。

今回のビューポイントは、

1.明の対外政策
2.明と日本の交流
3.宣教師の来訪

の3つです。

旅の舞台は、中国を中心にしたアジア。訪れる時代は、14世紀後半から17世紀中ごろです。

インドネシアの港町 スマランでは、15世紀、明からやってきた使者の鄭和(ていわ)を称える祭りがあります。
なぜ、中国から遠く離れたインドネシアで、中国の人のお祭りが行われているのでしょうか。

そして、京都の鹿苑寺(ろくおんじ) 金閣を訪れます。
金閣は、室町幕府の将軍、足利義満によって作られました。義満は、明からの使者を受け入れるために金閣を作ったといわれています。
明と日本は、どのようにして国交を結んでいったのでしょうか。


眞鍋さん 「中国の歴史の舞台に、東南アジアや日本まで出てきて、いろいろな国がつながってきたね。」

永松さん 「モンゴル帝国の末期、中国で成立したのが明です。明はモンゴルとは異なる方法で、ほかの国と関わっていきました。そこで、明の成立と対外政策が分かるツアーを考えてきました。」

1.明の対外政策
  • インドネシア・スマラン
  • 鄭和祭りの鄭和

マジカル・ヒストリー・ツアー、最初に訪れるのは、インドネシア・ジャワ島中部のスマランです。
スマランは、約140万人が暮らす港町です。
ここでは、明の時代に大航海を成し遂げた、鄭和を称える祭りが催されています。“鄭和祭り” と呼ばれ、中国人を初め、多くのムスリムも参加しています。

いったいなぜ、中国から遠く離れたインドネシアで、鄭和が祭られているのでしょうか。
その理由を解き明かすため、時間を遡って、マジカル・ジャンプ!

  • 元での農民反乱を示す地図
  • 紅巾の乱

14世紀中ごろ、モンゴル帝国の一つ “元” は経済が混乱し、困窮していた農民たちが各地で反乱を起こしました。
中でも、江南で起こった「紅巾の乱(1351年〜66年)」は、農民たちによる大規模な反乱へと発展しました。

  • 朱元璋
  • 里甲制

紅巾の乱の指導者の一人だったのが、朱元璋(しゅげんしょう)でした。
朱元璋は南京を都として “明” を建て、初代皇帝 “洪武帝” となり、元の皇帝一族をモンゴル高原へと追いやりました。
再び、漢民族の王朝が、中国を支配することになったのです。

貧しい農民の出身だった朱元璋は、戦乱で荒れていた農村の回復を目指しました。
その政策の一つが、「里甲制(りこうせい)」です。
110戸の農家を一つの集団である “1里” として整理し、国の支配を末端まで浸透させました。

さらに、民間の海上交通や交易を禁止し、国が管理する「海禁政策」をとりました。外国との交易は朝貢貿易のみに限定し、国が利益を独占しました。
こうして洪武帝は、皇帝がすべての人々を支配する体制を整えていきました。

  • 永楽帝
  • 紫禁城

15世紀、第3代皇帝となった永楽帝は、多くの大事業を行っていきました。
モンゴルなど北方の騎馬民族の侵入に備えて、都を南京から現在の北京に移し、荘厳な皇帝の宮殿「紫禁城」を建設しました。

また、万里の長城を本格的に整備します。
明の時代、東西2400キロメートルにわたって一つにつながり、巨大な城壁が完成しました。

  • 鄭和の石像
  • 鄭和の遠征路

さらに、永楽帝は、海の道を利用して外国に勢力を拡大しようとしました。
この遠征を任されたのが、皇帝に仕えた “鄭和” でした。

1405年、鄭和は永楽帝の命を受け、航海へ旅立ちます。
明を中心とした朝貢貿易を世界に広げ、国の威厳を示すとともに、諸外国と友好関係を築くための大事業でした。

鄭和の大航海は、28年間で計7回行われました。
この大航海によって、明へ朝貢使節を派遣した国は、東南アジアからアフリカまで50ヵ国にのぼりました。

ムスリムだった鄭和は、現在のインドネシアも訪れました。
インドネシア、ジャワ島のスマランは、多くのムスリム商人が行き交う港町でした。
大艦隊を率いた鄭和は、ムスリムたちに歓迎されました。

明との貿易が始まったスマランには、その後多くの中国人が移り住むようになり、港町としてさらに栄えました。
そして、今でも大航海を成し遂げた鄭和の力と幸運にあやかりたいと、鄭和を祭っています。

  • スタジオ写真

眞鍋さん 「なるほど、地方も貿易も国が管理するという体制だったんだ。」

永松さん 「きちんと統治されていますよね。」

眞鍋さん 「鄭和がいろんな国を渡ってくれたおかげで、その国の港町が栄えたり、明は他国にすごく影響を与えていたんだね。そのころ、日本はどうだったのかな。明とはどういう関係だったの?」

永松さん 「実は、先ほどご紹介しました永楽帝の前まで、明と日本との国交は途絶えていたんです。しかし、永楽帝の時代、その関係が大きく変わっていきました。」

2.明と日本の交流
  • 京都・鹿苑寺 金閣

マジカル・ヒストリー・ツアー、続いて訪れるのは京都の鹿苑寺 金閣です。
室町幕府の将軍、足利義満によって建造された金閣は、明からの使者を受け入れることを強く意識して建てられました。

その理由を紐解いてみましょう。
マジカル・ジャンプ!

  • 倭寇
  • 足利義満

明は、国家の管理のもとで貿易の統制を行っていました。
しかし14世紀後半には、「倭寇」と呼ばれる日本の九州などを拠点とする人々が、朝鮮や中国の沿岸で密貿易や略奪を行い恐れられていました。
明は、この倭寇に手を焼いていました。

その頃、将軍 足利義満は、明と国交を結びたいと考えていました。
明の初代皇帝、洪武帝は倭寇の取締りを要求します。
しかし洪武帝は、義満は日本を代表する人物ではないとし、国交を結ぶ要求を受け入れませんでした。

  • 南北朝を合一
  • 金閣の室内イメージ

1392年、義満は南北に分かれていた朝廷を一つにし、倭寇も取り締まりました。
さらに義満は、1397年に鹿苑寺 金閣を建造しました。
室内に中国製の椅子を置くなど、中国風に整えられた部屋で、明の使者を迎え入れました(右写真)。

  • 勘合符
  • 永楽通宝

義満は明に日本国王と認められ、15世紀の永楽帝の時代に日明貿易が始まりました。
明が発行する貿易の許可証、“勘合符” によって統制された「勘合貿易」です。

明からは「永楽通宝」という銅銭が大量に輸入され、当時通貨が不足していた日本国内で主要な通貨となり、日本の経済を潤しました。

金閣がきっかけとなって、明と日本との貿易は成功し、その後150年間続いていきます。


眞鍋さん 「足利義満は、明を意識して国政を行ってたんだね。」

永松さん 「そうですね。明もちょうど永楽帝が皇帝となり、諸外国との関係も積極的になっていったということもありました。」

眞鍋さん 「お互いの時代がマッチして、ちょうど良かったんだね。」

永松さん 「タイミングが一致したんですね。さらに、明の時代は、世界も大きく変化しました。」

眞鍋さん 「どんな風に?」

永松さん 「鄭和たちは海の道を通って、西の世界に行きましたよね。今度は、西のヨーロッパから人々がやってきたんです。キリスト教を広めるために、宣教師たちが明を訪れました。」

3.宣教師の来訪
  • 宣部門天主堂

上の写真は、北京で最も長い歴史を持っているカトリック教会、「宣武門天主堂(せんぶもんてんしゅどう)」です。
明の時代、イタリアの宣教師 マテオ・リッチによって、創建されました。

マテオ・リッチが明にもたらしたものは、キリスト教だけではありませんでした。
いったいどのようなものを明に伝えたのでしょうか。
時間をさかのぼって、マジカル・ジャンプ!

  • 大航海時代
  • マテオ・リッチ

15世紀以降、ヨーロッパから世界各地へ、キリスト教の布教や交易を目的とした人々が訪れました。これを「大航海時代」といいます。

そのさなかの1552年、イタリアで生まれたのが、宣教師のマテオ・リッチでした。
16世紀末、マテオ・リッチらイエズス会の宣教師たちが、キリスト教を広めるために中国へとやってきました。

  • 利瑪竇 マテオ・リッチ
  • マテオ・リッチらはヨーロッパ最先端の知識や技術をもたらした

マテオ・リッチは、中国の言葉を学び、名前も中国名 “利瑪竇(りまとう)” と名乗りました。また、中国風の服を着るなど、生活習慣や文化を尊重しました。

明の皇帝たちは、マテオ・リッチたちがもたらすヨーロッパの最先端の農学や地理、数学などの知識や技術を歓迎しました。
現在でも使われている数学の “幾何学” という言葉も、マテオ・リッチとその協力者であった中国の知識人が中国語に翻訳したものでした。

マテオ・リッチは、18年にわたって中国で布教活動や文化交流を行いました。
1610年、中国で亡くなったマテオ・リッチはその功績が認められ、ヨーロッパ人として初めて北京に埋葬することが許されました。
マテオ・リッチは、ヨーロッパと明の東西文化の架け橋となったのです。

  • 坤輿万国全図

眞鍋さん 「明が世界に影響を与えただけでなく、交流があったことで、明にも新しい発展がもたらされたということだね。」

永松さん 「そこで、いろんな文化が生まれたりしていますよね。実は、最初にご紹介した坤輿万国全図は、中国でマテオ・リッチが作ったものなんです。」

眞鍋さん 「そうだったんだ!じゃあ、この地図には、ヨーロッパの知恵が盛り込まれていたんだね。」

永松さん 「凝縮されているんです!」

Deep in 世界史
  • 上田 信先生
  • 戦国時代の武将の絹織物

マジカル・ヒストリー倶楽部の歴史アドバイザー、上田 信先生(立教大学 教授)に歴史の深い話をうかがいます。
今回は、日本の石見銀山(いわみぎんざん)と明とのつながりについてです。
石見銀山とは、島根県にある、世界遺産の銀山です。

上田先生 「戦国時代のドラマをみなさん見たことがあるかと思いますが、戦国武将やそれを取り巻く女性たちは、綺麗な絹織物を着て登場していますね。それが、石見銀山と深く関わっています。」

1520年ごろ、博多の商人が船に乗って日本海を航行している時、島根県の山の中腹にきらりと光るものを見つけました。何かと思い人を派遣してみると、銀の露頭(岩石や地層が地表に現れているところ)がありました。これが、石見銀山の発見だったといいます。


上田先生 「このことが、日本の歴史とも非常に関わっていると思います。戦国時代のころ、日本では高級な絹織物を作るような生糸を作ることができませんでした。そのため、ほとんどが明で作られた生糸や絹織物を輸入して、豪華な衣装を作っていたんです。当時、日本は大量に絹を必要としていました。」

  • 生糸の輸入の代わりに輸出された石見銀山の銀
  • 日本は銀を輸出して生糸などを輸入した

眞鍋さん 「あの和風な衣装は、中国から輸入した絹で作られていたんですか。では、絹を輸入する代わりに、日本が輸出するのが…。」

上田先生 「そこで、石見銀山で取れた銀が重要になってくるわけです。石見銀山の銀は、その当時の世界で産出される銀の、約三分の一も占めていたと言われています。」

永松さん 「日本がですか!?」

上田先生 「そうなんです。日本はその銀を輸出し、生糸や絹織物などを輸入しているという状況になったわけです。」

眞鍋さん 「日本の銀というのは、当時、明を通して広がっていったんですか。」

上田先生 「はい。明の方では、税金の取り立てなど、銀を必要としていたんですね。そのため日本から大量の銀が入ってきたことによって、都市が繁栄するなど、中国の経済そのものが大きく変わっていきました。それが、その後の日本や中国の歴史にも大きく関わっていったということです。」

2人 「面白いお話でした!上田先生、ありがとうございました。」

  • 次回もお楽しみに!

眞鍋さん 「今日は、明の歴史を見てきたけど、本当にいろんな国と関わってきた国だったんだね。」

永松さん 「お互いが発展していっていますよね。」

眞鍋さん 「それこそが、まさに世界史って感じだね!」

永松さん 「つながっていますね。」


それでは、次回もお楽しみに〜!

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