NHK高校講座

世界史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:20〜2:40
※この番組は、2020年度の新作です。

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今回の学習

第10回

古代・中世の朝鮮半島

  • 世界史監修:東京大学教授・六反田 豊
学習ポイント学習ポイント

古代・中世の朝鮮半島

  • 4世紀の朝鮮半島

今回のテーマは「古代・中世の朝鮮半島」です。
4世紀、朝鮮半島は複数の国に分かれていました。
その朝鮮半島に、中国から仏教が伝わります。
それぞれの国では仏教を厚く保護し、外敵の侵入を撃退するために利用しました。
今回は、古代・中世の朝鮮半島の歴史を、仏教を通して、ひもといていきます。

ところで、仏教が伝わった4世紀ごろの朝鮮半島は、南部の「加羅(から)諸国」のほかに、
主に3つの国に支配されていました。
みなさんは、これら3つの国の名前、わかりますか?

朝鮮三国への仏教伝来
  • 富田早紀さんと政井マヤさん
  • 六反田豊先生

3つの国の名前に頭を悩ませる、富田早紀さん。
政井マヤさんに、聞いてみることにしました。

早紀 「『高句麗(こうくり)』が一番北にあったのは、中学で習ったんですが、『百済(くだら)』『新羅(しらぎ)』の位置があいまいで…。」

マヤ 「百済は半島の西側、そして新羅は半島の東側にあります。」

今回お話をうかがうのは、東京大学教授の六反田豊先生です。

六反田先生 「(仏教は中国から)4世紀ごろに朝鮮半島に伝わり、その後この朝鮮半島から、日本に仏教が伝わるんです。」

マヤ 「その仏教は、中国では政治的にも利用されていましたよね。」

六反田先生 「そうですね。4、5世紀ごろのことです。そして朝鮮半島でも、このころから仏教が国づくりに大きな役割を果たしているんですよ。」

  • 瑞山・龍賢渓谷
  • 磨崖三尊仏

朝鮮半島中西部の瑞山(ずいさん/ソサン)・龍賢(りゅうけん)渓谷。
山の岩肌に彫られているのは、「磨崖三尊仏(まがいさんぞんぶつ)」です。
磨崖仏とは、崖を削って作った仏像のこと。
この仏像が彫られたのは、およそ1400年前。
そのころの朝鮮半島と仏教は、どのような関係にあったのでしょうか?

  • 五胡十六国時代

4世紀、朝鮮半島は「高句麗(こうくり)」「百済(くだら)」「新羅(しらぎ)」の三国が並び立ち、半島南部に小国の集まりである「加羅(から)諸国」などがありました。
そんな中、中国から最初に仏教が伝わったのは高句麗でした。
372年のことといわれています。

当時、中国は魏・呉・蜀の三国時代を経て、「五胡十六国(ごこじゅうろっこく)時代」
「匈奴(きょうど)」、「鮮卑(せんぴ)」など五胡と呼ばれる北方、西方の諸民族が進出、
華北の各地に次々と小王朝が乱立し、動乱の時期を迎えていました。
戦乱と社会不安が続いていた五胡十六国時代の中国では、インドから伝わった仏教が信仰されていました。

  • 朝貢を行っていた

そんな状況の中、高句麗は北部の王朝と、百済は南部の王朝と交流を持ち「朝貢(ちょうこう)」を行っていました。
朝貢とは、中国の皇帝に対して、周辺地域の支配者が贈り物をして挨拶する儀礼的な行為のこと。これによって、皇帝からその地域の支配者として「王」の称号を授けられることを「冊封(さくほう)」といいます。

中国は冊封関係にあった朝鮮半島の国々に、新しく先進的な文化として仏教を伝えました。
こうして仏教は4世紀末に高句麗に続き、百済にも伝来。
高句麗の強い影響下にあった新羅へは6世紀初めに高句麗の僧によって伝わりました。

6世紀後半、新羅が加羅諸国を滅ぼすなど、領土を拡大する中で三国の対立は激化。
朝鮮半島は戦乱の時代に突入していきます。

  • 微笑仏
  • 奈良にある仏像

こうした時代に、朝鮮半島それぞれの国で、仏教が発展を遂げていきます。
中でも、百済では仏像芸術が発展しました。
そして、百済の人々によって渓谷の崖に作られたのが磨崖三尊仏でした。
韓国最古の磨崖仏といわれ、微笑みを浮かべている表情から、別名「微笑仏(みしょうぶつ)」と呼ばれています。

また、百済は外交に仏教を利用したといわれています。
やがて、百済に伝わった仏教は日本に伝来します。

六反田先生 「実は、笑顔の仏像というのは意外に多いんですよ。例えば、こちら(画像・右)。これは、奈良にある中宮寺というお寺にある弥勒菩薩なのですが、表情をみると口元がかすかにゆるんで、微笑んでいるように見えませんか?」

マヤ 「こういった仏像の表情には、ギリシア文化やオリエント文化などが融合した、ヘレニズム文化の影響があるんですよね?」

六反田先生 「はい、彫刻にみる『微笑』、もともとこれは、古代ギリシアの彫刻にみられるもので、紀元前4世紀ごろに、アレクサンドロス大王の東方遠征によってギリシア文明がインド方面へ伝播し、これがさらに東方へと広まっていったわけです。」

  • 文字を使えることと、仏教を信仰すること

六反田先生 「そんな磨崖三尊仏のある百済では、仏像芸術が発展したわけですが、実は、その百済から日本に多くの文化や技術が伝わり、その中に仏教もありました。仏教以外にも朝鮮半島から伝わったとされる先進文化に漢字もありました。」

早紀 「漢字って、中国から直接、伝わったんじゃなくて、朝鮮半島からだったんですか?」

六反田先生 「漢字の伝来には、よくわかっていないところもあるんですが、中国から朝鮮半島を経由して日本に伝わったといわれています。もともと、日本には独自の文字はなく、外国の文字である漢字を自国の文字として利用したのです。」

マヤ 「伝わってきた当時、漢字は外国語のような扱いだったんでしょうかね。当時、どういった日本人が漢字を読み書きできたんですか?」

六反田先生 「政治を行う人々、それから僧侶など、ごく一部に限られていました。文字を使えることは権力や権威の象徴でもあったわけです。仏教も、新しい文化として信仰することは、彼らにとって特権的な意味合いを持っていたと思います。
百済と高句麗ですが、この両国はやがて滅ぼされて、新羅が朝鮮半島の全域を支配することになります。」

新羅の仏教文化とその特徴
  • 高句麗は百済と、新羅は唐と連合した
  • 護国仏教

7世紀初め、新羅は百済と領土拡大を巡り対立していました。
一方、中国は南北朝時代から隋を経て、唐が全国を統一。
その領域を広げ高句麗に迫っていました。高句麗は百済と連合します。
朝鮮半島で孤立した新羅は唐と連合し百済、高句麗と戦います。
そして、新羅はこの戦いで仏の力を利用しました。
それが「護国(ごこく)仏教」という考えです。
護国仏教とは、仏教の力で外敵から国をまもるという思想です。
新羅は仏に守られた特別な国であり、仏教を信仰すれば国をまもることができる、そう考えました。

  • 九層の塔を建立
  • 白村江の戦い

新羅は、高さ80メートルもの九層の塔を建立し、塔の中で国をま護(まも)るための経文(きょうもん)を捧げ続けます。
護国仏教で人々をひとつにまとめたのです。
そして唐と連合した新羅は、660年に百済を攻略、都を陥落しました。
しかし、生き残った百済の臣下たちによって百済復興運動が企てられたため、半島西部で起きたのが、663年の「白村江(はくそんこう)の戦い」です。
ここで百済を完全に滅ぼしました。

さらに、唐・新羅の連合軍は、668年、高句麗を攻め滅ぼします。
その後、新羅は唐の勢力を排除し、朝鮮半島に統一王朝を打ち立てました。

  • 仏国寺

こうして朝鮮半島の統一を果たした新羅が、8世紀に建立したのが「仏国寺(ぶっこくじ)」です。
このお寺は、半島を統一した平和な国「仏の国」を再現しているといわれています。

  • 釈迦塔
  • 多宝塔

そのシンボルとして、境内には全く形状の異なる二つの塔が並んで建っています。
シンプルな直線で構成されている「釈迦塔(しゃかとう)」。
一方、装飾に富み、丸みを帯びている「多宝塔(たほうとう)」。
仏教の経典(きょうてん)にのっとって建てられたというこれら二つの塔は、新羅の人々が戦乱の世から抜け出し、平和な国をめざしたことを物語っているといわれています。

  • 庶民の手によって作られた仏像

新羅の都だった慶州(けいしゅう)には、山の中にも数多くの仏像がのこされています。
これは庶民の手によって作られたものです。
護国仏教によって朝鮮半島を統一した新羅では、貴族から庶民まで、仏教が幅広く受け入れられていたのです。

早紀 「『仏教の力で国をまもるという思想』とは、具体的にどんなものなのですか?」

六反田先生 「仏教により、民衆の心をまとめ、国をひとつにするというものです。
そして実は、この一連の歴史的な出来事は、日本にも影響があったんです。」

  • 鉄製の鎧
  • 須恵器

百済が国の復活をかけた白村江の戦いには、百済と親交のあった日本も援軍を送っていました。
しかし、唐・新羅連合軍に大敗を喫します。
そして多くの百済の人々は、日本に亡命・渡来してきたのです。

早紀 「その渡来してきた人たちって、どのくらいいたんですか?」

六反田先生 「『渡来人(とらいじん)』といわれている人たちですが、一説によると、この百済滅亡で少なくとも3000人を超える人々が日本に渡ってきたといわれています。
そもそも4世紀ごろより、中国や朝鮮から多くの渡来人が日本にやってきて、武器や土木など多くの技術を伝えていました。
百済が滅亡したころ、日本は天智(てんじ)天皇の時代で、政治的・社会的な岐路にあったわけです。」

7世紀後半の日本は、大化の改新の後、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が天智天皇となり政治改革を行っていました。

六反田先生 「そんな時代に、百済からの渡来人たちが日本の政治に携わり、同時に、朝鮮半島を経由して中国の文化や政治システムが日本に伝わったとも考えられています。」

マヤ 「朝鮮半島とのつながりは、日本にとってとても重要だったんですね。」

六反田先生 「はい。その後、新羅は繁栄の時代を持ちます。けれども、その後9世紀末から10世紀の初めごろにかけて、朝鮮半島は混乱していくことになります。」

高麗の仏教文化と大蔵経
  • 高麗

10世紀の初め、新羅の統治能力は衰え、分裂、そんな中、新羅北部から台頭してきた将軍・王建が、新たに朝鮮半島を治め、「高麗(こうらい)」を建国しました。
高麗は、新羅の護国仏教の影響を強く受けました。

  • 大蔵経
  • 版木

11世紀、高麗の王は北方騎馬民族「契丹(きったん)」が建てた王朝「遼(りょう)」の侵攻に悩まされていました。
そこで、国を護(まも)るために仏の力を借りようと考えます。
「大蔵経(だいぞうきょう)」を刊行することにしたのです。
大蔵経とは、ブッダの教えや僧たちが守るべき戒律をまとめ仏教の経典を集大成したものです。
まず、経典を印刷するための「版木(はんぎ)」を作りました。
一文字彫るごとに一度拝み、仏の教えを刻み続けました。

  • 版画のように印刷
  • 海印寺

その版木に墨を塗って版画のように印刷します。
そして数十年の歳月をかけて「初彫大蔵経(しょちょうだいぞうきょう)」が完成しました。
人々の心はひとつにまとまり北方の脅威・契丹を撃退しましたが、その後、中国で強大化したモンゴル帝国の侵攻を受け、初彫大蔵経は焼失してしまいます。
護国を願う高麗の人々は、モンゴル軍と戦いながら、再び大蔵経の製作に着手します。
15年あまりの歳月をかけて、ようやく完成したのが高麗八萬大蔵経。
その版木が、「海印寺(かいいんじ)」に今も残されています。
版木の数は、実に8万枚。刻まれた文字はおよそ5200万にもなります。

こうして、高麗の人々の心はまとまり、モンゴル軍の攻撃をしのいでいくのです。


マヤ 「なぜ、版木を彫るという大変な作業をわざわざしたんでしょうか?仏教だと手で書き写す写経というのもありますよね?」

六反田先生 「はい、この版木を彫るということは、それ自体が国を挙げての大事業であり、その分、功徳(くどく)を積むことになると考えられたわけです。さらに、版木は一度作ってしまえば、何度でも大蔵経を印刷することができるということもあったと考えられます。」

印刷された大蔵経は、王族など社会の上層の人々が一族の幸福などを祈願して寺院に奉納したといわれています。
また、日本でも室町時代以降、足利将軍家や戦国大名らが何度も朝鮮半島に使者を送り、大蔵経を入手しています。
大蔵経の製作・刊行など、仏教で国を護(まも)るという思想に至った背景には、何があったのでしょうか?

六反田先生 「護国仏教あるいは、大蔵経の刊行といった『仏教で国を護(まも)る』という思想が生まれたのがどうしてかというと、特に朝鮮半島等の国々は、つねに外敵の脅威にさらされていたという現実があり、当時の支配層にしてみれば、厚く信仰していた仏教に対して、仏教の力で国を護(まも)ってほしいという護国的なものを求めたということだったのではないでしょうか。」


それでは次回もお楽しみに!

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