NHK高校講座

世界史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:20〜2:40
※この番組は、昨年度の再放送です。

世界史

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※この番組は、昨年度の再放送です。

今回の学習

第6回

中華帝国の形成

  • 世界史監修:東京大学准教授 佐川 英治
学習ポイント学習ポイント

1.殷と周 2.始皇帝の中国統一 3.漢帝国の繁栄

  • 今回のミッション

「マジカル・ヒストリー倶楽部」にようこそ!
今回のミッションは、「中華帝国の起源を知る」です。

中華帝国とは、紀元前の古代中国に登場した統一国家のことです。
最初に王朝が生まれてから、中国が統一されるまで、約1500年の歴史がありました。

  • 訪れる場所と時代
  • 古代中国 統一へ

今回のビュー・ポイントは、

1.殷と周
2.始皇帝の中国統一
3.漢帝国の繁栄

の3点です。

訪れる場所は、現在の中国の黄河中流域を中心に広がる地域。時代は、紀元前18世紀ごろから紀元前1世紀ごろまでです。

はじめに、中国を初めて統一した皇帝の巨大な墓、始皇帝陵を訪れます。始皇帝は、7000体を超える兵士たちの像に守られて眠っています。
その中国統一は、わずか15年で終わってしまいました。

そして、歴代皇帝が信仰の対象とした世界遺産、泰山です。
始皇帝の後、再び中国を統一した漢の武帝も、泰山で儀式を行いました。

  • 統治のしくみ

眞鍋さん 「どこも見どころあるけれど、そもそも中華帝国がどのようにして誕生したか、ということは分かるの?」

永松さん 「大丈夫です! “統治のしくみ” に注目してみてください。王や皇帝など権力を持つものが、地域や人々をまとめる方法です。この方法が変化していくことによって、より大きな統一が可能になったんです。」

古代中国統一までの歴史を知るマジカル・ヒストリー・ツアーへ出かけましょう!

1.殷と周
  • 殷墟
  • 首のない人骨

旅の出発点は、河南省安陽(あんよう)市の「殷墟(いんきょ)」です。現在確認されている中国最古の王朝、“殷” の都の遺跡だといわれています。

その中に、神をまつる儀式が行われた場所があります。
そこでは、大量の人骨が発見されました。しかも、皆首を切り取られています。

なぜ、こんなにも多くの、首のない人骨があるのでしょうか。
この謎を解き明かす旅に、マジカル・ジャンプ!

  • 殷の勢力範囲
  • 神権政治

紀元前1700年ごろ、黄河流域に古代王朝 “殷” が生まれました。
存在が確認されている中国最古の王朝です。

殷の王は、占いによって神の意志を問い、それに基づく「神権政治」を行いました。

  • 甲骨文字
  • 青銅器 鼎

左写真は、王が狩りをすべきかどうかを占ったものです。
最古の漢字である「甲骨(こうこつ)文字」で、占いの内容や結果が記されています。

殷墟からは、王が政(まつりごと)を行う際に欠かせなかった青銅器が発掘されています。
右写真は、神に食べ物を捧げるのに用いた、鼎(かなえ)です。
当時、製造がとても難しく貴重だった青銅器は、王の権威を象徴するものでもありました。

神に捧げられたのは、食べ物だけではありませんでした。
殷墟からは、これまでに首のない人骨が1万4000体以上も発掘されています。
これらは、神に捧げられた人間の犠牲だったのです。

  • 前11世紀 周の台頭
  • 封建制度(周)

しかし、神に頼る殷の統治も終わりを告げます。
紀元前11世紀、殷の西にあった “周” が勢力を広げ、殷は滅びました。

周は、殷とは異なる、“封建制度” という統治のしくみを用います。
周の王は、一族の者などを諸侯に任じて地方を治めさせ、周の統治を支えさせました。

  • China

眞鍋さん 「神に頼る政治から、人が治める政治に変わっていったんだね。」

永松さん 「ところがこの周も、紀元前8世紀には衰えます。中国は、それから500年以上もの間、戦乱の時代が続いたんです。そして長い戦乱の後に、初めて中国を統一したのが “China” です!“China” の語源となった “秦” が勢力を広げ、初の統一国家と初代皇帝が誕生します。」

2.始皇帝の中国統一
  • 陝西省西安市
  • 兵馬俑坑

マジカル・ヒストリー・ツアー、次の行き先は、陝西省(せんせいしょう)西安(せいあん)市にある世界遺産「秦の始皇帝陵」です(写真左)。中国史上最初に登場した皇帝、 “始皇帝” の墓です。

その地下には、地上の宮殿をそのまま再現したような空間が広がっていることが分かっています。

始皇帝陵から東に1.5キロメートルのところにあるのが、兵馬俑坑(へいばようこう)です。
埋められていたのは、7000体を超える等身大の兵士や馬の人形でした。始皇帝の軍隊の姿を、そのまま陶器で形づくったものです。

なぜ、このようなものが作られたのでしょうか。
その謎を探るため、マジカル・ジャンプ!

  • 秦が中国統一
  • 始皇帝

紀元前5世紀から紀元前3世紀、中国は7つの国が争う戦国時代を迎えていました。
その中で、頭角を現してきたのが最も西に位置した “秦” です。

紀元前221年、がついに中国統一を成し遂げます。
秦の王は、天下の支配者にふさわしい称号として「皇帝」を名のりました。ファースト・エンペラー「始皇帝」の誕生です。

  • 群県制(秦)
  • 文字・単位・通貨を統一

始皇帝は、広い領土を一つにまとめるための制度を施行しました。
全国を36の郡に分け、その下に県をおく「郡県制」です。この “郡” や “県” に官僚を派遣して、統治を行いました。
また、それまで各地域によってばらばらだった文字や重さの単位、通貨を統一します。これにより、効率よく税を集めようとしました。

  • 焚書坑儒
  • 匈奴

さらに、各地域の文化や思想を認めず、秦の思想に合わない書物を燃やしました。焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)です。
そして北方の民族、匈奴(きょうど)とも大がかりな戦争を始めました。

こうした急激な国づくりは、支配下に置かれた地域からの反感を買うことになりました。
そんな中で、始皇帝が亡くなりました。

始皇帝の墓のかたわらに作られた兵馬俑坑は、かつて秦が滅ぼし、支配下に置いた地域から反乱が起きないように、にらみをきかせているのです。

しかし、始皇帝の思いもむなしく、秦は中国統一からわずか15年で滅びました。

  • 佐川英治先生

眞鍋さん 「あの時代に一人の皇帝が、広い中国を治めるということは、当時、相当なインパクトがあっただろうね。ただ、“秦” から “China” になったっていうのは、ちょっと強引な気がするんだけれど。」

永松さん 「これには いろいろな説がありますが、昔の “秦” という国の名前が、ヨーロッパに伝わって “China” と呼ばれるようになったそうです。」

眞鍋さん 「それにしても、官僚を派遣したり、単位や貨幣を統一したりすることは、国を治めるときには よくあることのような気がするのだけれど…。どうして始皇帝は反感を招いたのかな?」

永松さん 「詳しい先生をお呼びしています。佐川先生、よろしくお願いします!」

始皇帝の政治が、なぜ反感を招いたのかについて、佐川 英治先生(東京大学 准教授)に詳しく話をうかがいます。

佐川先生によると、始皇帝が中国を統一する前まで、各地域はそれぞれの王が治める独立国であったといいます。
しかし始皇帝は、人々の心が一つになる前に、北の匈奴との遠征に人々をかり出したり、性急な政治を行いました。特に、もともと匈奴と関係のない南の国の人々の反感は強く、反乱が起こって秦は滅びます。

封建制度と群県制

佐川先生 「始皇帝の国の治め方と、それ以前の統治のしくみがどう違うかをまとめてみました。」

上図の左側は、周の封建制度です。
一番小さい集団である “邑(ゆう)” は、集落のような集まりです(図中の紫の●印)。周の王は、邑をまとめる諸侯に自分の血族や地域の有力者を任命し、地域の統治を任せていました。

ところが始皇帝は、上図の右のような郡県制というしくみで統治を行います。
始皇帝が任命した官僚を各地域に直接派遣して支配することで、どの地域も同じように治めようとしました。

佐川先生 「(始皇帝の統治は)非常に革命的でしたが、あまりに急激で受け入れられませんでした。」

眞鍋さん 「それぞれの地域のやり方を認めなかったわけですね。では、秦が滅びた後は、どうなるのですか?」

佐川先生 「この秦の反省をもとに、違ったしくみで統治を行う国が現れるんです。」

永松さん 「それが、漢帝国なんですね!」

3.漢帝国の繁栄
  • 泰山
  • 封禅の文字

マジカル・ヒストリー・ツアー、最後のみどころは、山東省泰安(たいあん)市にある世界遺産「泰山(たいざん)」です。

漢の第七代皇帝 “武帝” は、ここで天と地をまつる儀式「封禅(ほうぜん)」を行いました。
封禅とは、臣下からも認められた数少ない皇帝だけが行うことができた儀式です。

武帝はどんなことを成し遂げたのでしょうか?
武帝の時代へマジカル・ジャンプ!

群国制(漢)

秦が滅んだ後、紀元前202年に中国を統一したのは “漢” です。
漢では、始皇帝の急激な統一への反省から、緩やかな統治を行いました。それは、郡県制と封建制を組み合わせたものでした。

皇帝の影響力が強い都周辺の地域では、郡県制を導入して直接統治します。一方、独自の文化を持つ離れた地域に対しては、王などを任命して統治を任せる封建制度を用いました。
こうした統治のしくみを、「郡国制」といいます。

  • 武帝
  • 塩、鉄、酒の専売

漢帝国の始まりから70年ほど過ぎたころ、登場したのが第七代皇帝の武帝です。

武帝は、当時人々の間に浸透していた「儒学」を、国の学問として採用しました。これにより、人々が共有できる思想が生まれます。
また、国の力を強めるため、塩・鉄・酒の独占販売を行いました。

武帝は充実した国力によって、匈奴など周辺国との戦いに勝利し、国内外に直接統治を広げました。
漢帝国は武帝によって、始皇帝の秦を超える大帝国へと発展し、400年にわたって中国を支配しました。


眞鍋さん 「殷の始まりから武帝までが、1500年ということだね。その間にたくさんの国が興っては滅びて、統一され…、すごいドラマがあったんだね。ところで、武帝の時代って、まだ紀元前だよね。日本はどんな時代だったんだろう?」

永松さん 「なんと日本は、まだ弥生時代です。卑弥呼が登場する300年くらい前だったと言われています。」

眞鍋さん 「それと比べると、やはり中国の歴史が奥深いのが分かるね!」

Deep in 世界史
  • 史記
  • 司馬遷

改めて、佐川先生から歴史の深い話をうかがいます。

眞鍋さん 「紀元前1700年ごろから紀元前100年ごろまでの歴史を見てきましたが、古代中国の話が、なぜここまで詳しく分かっているんですか?」

佐川先生 「一つには、『史記』という書物があるからなんですね。史記は、全部で130巻という膨大な量があり、持ってきたのは、そのうちの6巻分です。内容を見ると、例えば、殷王朝のことなどが書かれているんです。」


史記は、武帝の時代に、司馬遷という人物によって書かれました。

佐川先生 「武帝の時代に、一つの中国というまとまりができ、こういった新しい歴史書が生まれてくるわけなんです。史記は、漢(の武帝)以前の中国の歴史を書いたものです。殷や、その前の伝説上の王朝である夏(か)王朝のことも書かれています。」

  • 紀伝体
  • 次回もお楽しみに〜

佐川先生 「司馬遷は、歴史上に活躍したさまざまな人物の伝記を集める形で、史記を作りました。それを『紀伝体(きでんたい)』といいます。」

眞鍋さん 「どういう人物がいたんですか?」

佐川先生 「例えば、漢王朝をつくった劉邦(りゅうほう)です。この人は、平民の身分でありながら、強大な秦に対抗して漢王朝を作った人ですね。それ以外にも、“遊侠(ゆうきょう):任侠(にんきょう)” と呼ばれる人や “刺客” といわれるような人たちの伝記もあるんです。」

眞鍋さん 「小説みたいで面白そうですね。」

佐川先生 「これは日本語にも翻訳されていますから、ぜひ読んでみてください。古代の人の いきいきとした生きざまに、きっと感動すると思います。」

眞鍋さん 「やっぱり歴史というのは、人が作っていくんだなっていう実感が湧いてきました。」

2人 「先生、どうもありがとうございました。」


それでは、次回もお楽しみに!

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