NHK高校講座

世界史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:20〜2:40
※この番組は、2020年度の新作です。

世界史

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今回の学習

第4回

ローマ帝国

  • 世界史監修:早稲田大学特任教授・本村凌二
学習ポイント学習ポイント

ローマ帝国

  • 政井マヤさんと富田早紀さん

ここは歴史の専門家も来店する無国籍雑貨屋。
政井マヤさん、富田早紀さんと一緒に、世界史のおもしろさを探っていきます。

  • ポン・デュ・ガール

南フランスの渓谷にかかる水道橋「ポン・デュ・ガール」。
この橋はおよそ2000年前、ローマ帝国によって造られました。
そのころ、日本はまだ弥生時代です。
切り出した石をアーチ状に組み上げた橋の高さは49メートル。
最上段を水路が通ります。
水路は、水源から50キロ離れた町まで水を送り届けられるよう、わずかな傾きを計算し、設計されています。
当時のローマ帝国に、高度な建築技術と、極めて正確な測量技術があったことがわかります。

  • アグリッパ

早紀 「これ(画像)デッサンでよく使う石膏像ですよね。美術室でよく見たことがあります。ローマ人?」

マヤ 「この人はアグリッパという人で、今から2000年も前に、あの水道橋『ポン・デュ・ガール』を造った人。それだけじゃなくて、ローマの神殿や共同浴場も造っているの。古代ローマは、そこからさらに700年もさかのぼる歴史があるの。」

ローマ帝国の繁栄
  • ローマ

イタリアの首都ローマ。
町の至る所に古代ローマの遺跡があります。
紀元前8世紀ごろ、都市国家ローマはつくられました。

紀元前6世紀のローマでは、有力貴族の話し合いによる「共和政」が行われました。
その政治機関が「元老院」です。
元老院の議員たちは独裁者が現れないように、集団で意見をまとめ、国家を運営していこうと考えました。

  • 紀元前3世紀にイタリア半島を統一
  • 地中海世界に領土を拡大

共和政ローマは強い軍事力によって周辺の都市国家や部族を征服し、紀元前3世紀にはイタリア半島統一を成し遂げます(画像・左)。
ローマはその後も地中海世界に領土を広げてゆきます(画像・右)。

それにつれて、元老院をはじめとする貴族たちは莫大な富を手にするようになります。

  • カエサル
  • オクタヴィアヌス

一方、軍隊の中枢を担っていたローマ市民は、相次ぐ戦争によって疲弊していきます。
貴族と平民の対立は深まり、紀元前2世紀後半からのおよそ100年間は「内乱の1世紀」と呼ばれる状態になります。

こうした混乱の中、政治の実権を握ったのが「カエサル」です。
紀元前46年、カエサルは強大な権力を持つ「独裁官」になりました。
しかし、その独裁政治は共和政の崩壊につながると、元老院の一部の人々の反発を招き、カエサルは暗殺されてしまいます。

再び始まった内乱の時代に終止符を打ったのが、カエサルの養子「オクタヴィアヌス」でした。
彼は紀元前27年、元老院から「アウグストゥス(尊厳者)」の称号を受けて、ローマ帝国、初代の皇帝になりました。

アウグストゥスは皇帝中心の政治形態、帝政を始めたのちも、共和政の形を残しました。
元老院と市民が帝国をチェックする仕組みを尊重したのです。

  • 本村凌二先生
  • 共和政の社会

ここからは、東京大学名誉教授 本村凌二先生にお話をうかがいます。

本村先生 「古代ギリシアの都市国家では、直接民主制が基本なんですけれども、古代ローマの社会を特徴づけるのは共和政。この共和政がローマ国家の発展のカギになっていくんです。
ここを(画像・右)ご覧になればわかりますけれども、ローマの共和政は、ギリシアで見られた独裁政、貴族政、民主政を混合政体として、バランスよく組み込んだものです。」

古代ローマ人はギリシアで試みられたさまざまな政治形態を取り入れました。
ギリシアの独裁政は執政官、貴族政は元老院、民主政は民会に引き継がれました。
権力を分散することで内乱を避け、世界帝国として発展・拡大していくことができたのです。

本村先生 「ローマ人は独裁政を嫌っていましたから、オクタヴィアヌスは元老院から、独裁官になることをすすめられても就任しなかったし、それから政務官の最上位にある執政官になることも辞退して、あくまでもこの元老院を立てていた。
オクタヴィアヌスは権力ではなくて権威によって統治を目指しました。そのことによって、彼はアウグストゥスという称号をもらうわけです。」

「権威」を重んじた初代皇帝アウグストゥスの統治から200年間、ローマは「ローマの平和(パックス・ロマーナ)」と呼ばれる最盛期を迎えます。

  • ポンペイ
  • 当時の姿のまま残っていることがわかった

南イタリアのポンペイ。
この町は、当時のローマ人の暮らしを今に伝えています。
ポンペイは18世紀からの発掘調査により、その存在が明らかになりました。
西暦79年に起きたヴェスヴィオ山の噴火で、火山灰に埋まっていたこの町が、当時の姿のまま残っていることがわかったのです。

  • 馬車のわだちが残っている
  • 飛び石になっているとこをは当時の横断歩道

道路は車道と歩道に分かれています。
車道には馬車のわだちが残っています(画像・左)。
飛び石になっているところは古代の横断歩道です(画像・右)。
水道も完備され、どの家からも1分以内のところに水くみ場がありました。
立ち飲みの居酒屋の壁には、楽しい落書きも残っています。

  • 食料の配給
  • 剣闘士の試合

この時代、皇帝や町の有力者は民衆に安い値段、または無料で穀物を配給したり、剣闘士の試合や戦車競走の見世物を開催したりして、民衆の支持を得ようとしました。
これを、「パンとサーカス」と呼びます。

マヤ 「娯楽まで提供するのはちょっとやりすぎかなって思うんですけど、何かねらいというのはあったんですか?」

本村先生 「『パンとサーカス』は共和政のころからありました。ローマの都市周辺で土地を失ったり、生活の糧がなくなった人々がローマに押し寄せてくる。そういう人たちへの対策としてつくられていき、ローマ市民として兵役につかせるという目的もあったので、彼らの心をつかんでおく必要があったわけです。
また、『パンとサーカス』は、帝国の各地の支配地でも行われていました。人々に、“ローマ人になってよかったな”と思わせるようにしたわけです。それによって反乱を防ぎ、安定して領土を広げていくことができたのではないか、ということですね。」

  • アッピア街道
  • 軍隊派遣のためにアッピア街道は造られた

ローマと南イタリアを結ぶアッピア街道。
石で舗装された道路が540キロにわたって続いています。
ローマの繁栄を支えたのは強大な軍事力でした。
その軍隊派遣のためにアッピア街道は造られたのです。

  • ローマ帝国の最大領域
  • ローマ風の街のつくりや建物の跡

ローマ帝国の領土は2世紀はじめ、トラヤヌス帝の時代に最大となりました(画像・左)。
道路はローマ帝国の隅々まで張り巡らされました。
北アフリカ、アルジェリアのティムガッドはトラヤヌス帝によって築かれました。
この遺跡は、整然としたローマ風の街のつくりや建物(画像・右)があったことを、今に伝えています。
ローマ人は、支配した土地に闘技場や共同浴場を建て、異なる民族でもローマと同じ豊かな生活が送れるようにしたのです。

本村先生 「ローマの統治の仕方は総じて寛容でした。征服地に主要な建築物を建てるだけではなくて、土地の宗教、多くの神々を認め、それから風俗・習慣・言語も強要しない。そういう形でいろんなものを認めたということがあります。

マヤ 「そうした統治がうまくいって200年も続いた『ローマの平和』は、どうして途絶えてしまうんですか?」

本村先生 「ローマ帝国が衰退に向かうのは、3世紀の軍人皇帝が乱立した時代でした。そこでは軍事力や経済力にものを言わせて、共和政の伝統を無視するようになってしまう。その中で独裁体制も生まれてくる。それから皇帝の暗殺が相次いで、ローマにおいてはかつて権威が強調されていたのに、権力だけが露骨に出てきた。そういう時代になっていたわけですね。」

キリスト教の成立
  • イエス

戦争が繰り返され、社会が混乱を極めた軍人皇帝時代(3世紀)、人々の心をつかんだのが「キリスト教」でした。
キリスト教で救世主とされる「イエス」が生まれたのは、初代皇帝アウグストゥスの時代でした。
イエスはユダヤ教が信仰の中心であったパレスティナで、いきすぎた戒律主義を批判し、「神の愛」と「隣人愛」を説きました。
しかし、ローマに対する反逆者として訴えられ、十字架にかけられます。
弟子たちの間に“イエスこそが救世主であり、イエスは復活した”という信仰が生まれ、キリスト教が成立しました。

  • カタコンベ
  • コンスタンティヌス帝

これは(画像・左)ローマに造られた地下の墓所カタコンベです。
神の前での平等を重んじたキリスト教徒は、時に皇帝崇拝さえ拒否したため、激しい弾圧を受けます。
改宗に従わない者には容赦ない罰が加えられました。
迫害を逃れるため、キリスト教徒はカタコンベに集まり、ひそかに信仰を守ったと伝えられています。

社会が混乱した軍人皇帝時代、キリスト教は貧しい人々だけでなく、上層の市民の間にも広まりました。
キリスト教徒をもはや抑えられないと悟った皇帝コンスタンティヌス(画像・右)は、313年にキリスト教を公認。
そして392年、テオドシウス帝によって、キリスト教はローマ帝国の国教、国の宗教と定められました。

早紀 「皇帝の権威を受け入れないキリスト教を、皇帝がローマ帝国の国教にしたのはなぜですか?」

本村先生 「キリスト教は現世よりも天の国を信じる、唯一の神を信じる、そういう宗教であったわけです。“唯一の神を信じる”なんてことは、その時代にはとてつもない大きなもので、そのためにキリスト教の人々は迫害される。
そして迫害された人が、今度は殉教者になって同じキリスト教徒からあがめられてしまう。すると弾圧したことが逆効果になって、結局だんだん広がってゆく。それで公認せざるを得なくなった、というのがあります。
これは、ローマ帝国の本質にかかわるというよりも、むしろ人類史というか、多くの神々を信じることの方がむしろ自然な形であって、その中で唯一の神だけが真実であると考えるようになったのは、人類の歴史において、非常に大きな転換点でした。」

ローマ帝国の解体
  • 都をコンスタンティノープルに改めた
  • ローマ帝国は東西に分裂

3世紀、ローマ帝国は北のゲルマン人、東のササン朝ペルシアの脅威にさらされていました。
コンスタンティヌス帝は、ローマ帝国を建て直すため、330年、都をローマからビザンティウムに移し、コンスタンティノープルと改めました(画像・左)。
しかし、395年にローマ帝国は東と西に分裂(画像・右)。
西ローマ帝国は「ゲルマン人の大移動」による混乱の中、476年に滅亡しました。


早紀 「キリスト教の国教化や、新しい都の建設をしても、ローマ帝国の解体は食い止められなかったということですか?」

本村先生 「確かにローマ帝国は東西に分裂し、西ローマ帝国は皇帝が廃位されて滅んでしまった。国家としては確かに解体、あるいは崩壊したと言えるわけですが、その中でキリスト教徒が歴史の舞台に登場してきた。そういう意味では、社会全体が一つの新たな時代を迎えた、文明も新たなものになったと言えるんじゃないかと思います。」

マヤ 「ここから中世ヨーロッパが始まるということになるんですね。」

  • ローマは1日にして成らず

マヤ 「辞書で、英語のROME(ローム)のところを見てみると、いろんなことわざがあるんです。

Rome was not built in a day. 
ローマは1日にして成らず。

All roads lead to Rome.
すべての道はローマに通ず。

When in Rome,do as the Romans do.
ローマにいるときはローマ人のようにせよ。郷に入らば郷に従え、という意味ですね。

どれもローマ帝国の繁栄を象徴する言葉ばかりです。」

それでは次回もお楽しみに!

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