高校講座HOME >> 世界史 >> 第4回 古代インド 〜仏教とアショーカ王〜
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今回のテーマは、「古代インド〜仏教とアショーカ王〜」です。
扱う場所はインド。時代は、紀元前6世紀から紀元5世紀にかけてです。
日本では縄文時代の終わりから弥生時代、そして古墳時代にかけての時代にあたります。
インドは10億人を超えるさまざまな民族が暮らし、経済発展の一方で個性的な文化を守っています。
インドは仏教が生まれた土地ですが、現在のインドには仏教徒はわずかしかいません。ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒が大部分です。
古代インドで仏教はどのように生まれたのでしょうか。今日は、仏教の歩みを通して古代インドの歴史をたどります。
地図を見てみましょう。この地図の黒い部分はヨーロッパ大陸です。
インドの面積は、ヨーロッパ大陸と同じくらいの広さがあるのです。
また、南アジアの言語系統図を見ると、インド・ヨーロッパ、ドラヴィダ、シナ・チベット、オーストロ・アジアの4系統があり、とても多様な国であることも分かります。
現在は、インド全体で主要なものだけでも20くらいの言語に分けることができます。


<今日のポイント>
@仏教の誕生と釈迦の足跡
Aマウリヤ帝国の征服活動とアショーカ王
B仏教の東南アジア世界への伝播とインドでの消滅
年表を見て時代を確認しましょう。
・紀元前1000年頃、アーリヤ人がガンジス川流域に進出→バラモン教
・前563年頃〜483年頃は、ガウタマ・シッダールタ(仏陀)が生きていたと考えられています。ただし生没年は諸説あり、はっきりはしていません。
・前268〜232頃、マウリヤ朝のアショーカ王が在位しました。
・後1〜3世紀、クシャーナ朝→ガンダーラ仏が成立します。
・後320〜550頃、グプタ朝→ヒンドゥ−教
これは、仏教が栄えた後、バラモン教がそれに対抗しようとして有力になった宗教です。


仏教がどのようにして生まれたか知るためには、バラモン教の社会を知る必要があります。
紀元前1000年ごろ、それまでインド北西部に住んでいたインド・ヨーロッパ語系のアーリヤ人が、ガンジス川流域の肥沃な平原に進出してきました。
彼らは先住民を征服しながら、牧畜と農耕に基づく社会を築いてゆきました。
アーリヤ人は、太陽神スーリヤや雷神インドラなど、自然のさまざまな力と恵みを神としてあがめました。
神々への賛歌を集めた聖典が「リグ・ヴェーダ」です。そして、こうした神々への儀礼をまとめた体系が「バラモン教」です。
その儀式を司ったのが、バラモンと呼ばれる司祭者でした。
バラモンは、政治や生産、日常生活にかかわる、複雑な儀礼の体系を作り出してゆき、
それを司る者として、社会の中で特権的な地位を得ました。
古代のインドは、神々への儀式を司るバラモン階級を頂点とした社会だったのです。
バラモン社会には2つの大きな特徴があります。
1つ目は、儀礼を大切にするということです。
2つ目は、バラモンが特権的な存在として認識されていたことです。


バラモンを特権的な存在として特徴的にあらわしたものが、ヴァルナという考え方です。
ヴァルナとは、「色」を表す言葉です。
アーリヤ人は元は、司祭や首長、一般人からなっていましたが、ヴァルナの考えによって、バラモン(司祭者)、クシャトリヤ(王侯・武士)、ヴァイシャ(農牧民・商人)という身分に分けられました。
それらのヴァルナにシュードラという職人が奉仕するという形で、その下には不可触民(隷属民)が位置付けられています。
この制度は、後世のカースト制度にもつらなっています。
ヴァルナは、バラモン以外の人々には受け容れやすい制度ではありませんでした。
紀元前600年ごろ、ガンジス川流域では都市が発展して多くの王国が生まれ、王や商人が社会の実権を握りました。そこでヴァルナを批判したり、反発したりする思想が生まれました。仏教もその一つです。
仏教は、クシャトリヤ出身の釈迦族の王子、ガウタマ・シッダールタ(仏陀)が開きました。
シッダールタは、若くして人生に悩み、家族も地位も捨てて出家し、6年間の苦行を続けました。苦行によって、現世の苦悩からの解脱を得ようとしたのです。
しかし、枯れ木のようにやせ衰えても悟りを得ることはできませんでした。
苦行をやめたシッダールタは、35歳のとき、菩提樹の下で瞑想に入り、悟りを開きました。
「この世に永遠不滅のものはない。人は、現世の無常を知り、煩悩(ぼんのう)を捨て去ることで、解脱できる」というのです。それ以後彼は、「仏陀=悟った者」とよばれました。


仏陀は、生涯にわたってガンジス川中流域の国々を伝道して回り、みずからの新しい思想を説き続けました。
各地の王や富豪は仏陀に、布教の拠点となる僧院を寄進しました。
ここはその一つ、ジェータヴァーナの跡で、日本では「祇園精舎」の名で知られています。
仏陀の教えは、貧しい人、そして女性にも支持されました。バラモンの中にも、仏陀の教えを受けるものが現われました。ヴァルナの身分制度にとらわれず、身分の隔てなく誰でも出家して教団に入ることができたからです。
「人間の価値は、生まれや身分ではなく清らかな行ないによって決まる」
この教えによって、1万人規模の信者が集まり、教団の基礎が作られました。
伝道の旅の途中、仏陀は病を患い、クシナガラという土地で沙羅双樹の間に横たわり、80歳の生涯を閉じました。
仏陀は、自らは何も書き残しませんでした。しかし、弟子たちが伝えた仏陀の言葉が後に経典にまとめられ、仏教は大きく発展していきました。


仏教が広まった理由はいくつかあります。
1つ目は、仏教の教えの内容です。特徴を見てみましょう。
<仏教の特徴>
・平等主義
・非苦行主義
・八正道(修行法)−正しい行動のしかた
・解脱(人が生き死にの繰り返しで受ける苦悩からいかに離脱するかという考え)
・救済主義
2つ目の理由に社会的背景があります。
仏教が広まったガンジス川中流域は、農業や商業が盛んな場所でした。
その中で商人が有力になっていきました。
彼らはバラモンの考えに賛成することができず、仏教を支持したのです。
3つ目は、王国の支配者との関係です。この関係の典型が、マウリヤ朝のアショーカ王です。


アショーカ王はマウリヤ帝国の第3代の王です。
当時、マウリヤ帝国は領土を次々と広げていました。
第三代の王アショーカは、インド東部の大国・カリンガ国にねらいを定め、攻め入りました。そのときの有様が石碑に刻まれています。
「即位後8年に、アショーカ王によってカリンガ国が征服された。その際、15万の人々がその土地から引き離され、10万人がその地で殺され、戦禍によってその数の何倍もの人々が死んだ」
こうしてアショーカは、南インドの一部を除く、インド史上初の統一国家を作り上げます。
しかし、カリンガ征服での悲惨な犠牲を後悔したアショーカは、武力による政治から、
「ダルマ」=真理と法に基づく政治に変えることを決意します。
アショーカの理念を刻んだ石碑には、
「すべての生き物をむやみに殺してはならない。父や母に従い、周りの人に礼儀正しく振る舞うこと」といったダルマの教えが刻まれています。
アショーカは、こうした考えを広げただけではなく、社会事業にも力を入れました。
道路を作り、並木を植え、旅人のために休憩所や水飲み場も整えたのです。


「ダルマ」政治とはどういったものか見てみましょう。
<ダルマによる支配>
不殺生(生き物を殺さない)
父母に対する従順
友人・知人・親族に対する敬愛
バラモン・沙門(出家者)・老人・師などに対する尊敬
奴隷・貧者に対する思いやり
他人の立場の尊重
自己反省などの徳目の実践
アショーカ王は仏教の教えを大切にしたので、ダルマは仏教の教えをくんだ考え方です。
では、なぜアショーカ王は、ダルマによる支配を考えたのでしょうか。
上中の図は、アショーカ王時代にダルマのことが書かれた石柱碑、磨崖碑の分布地図です。石柱碑、磨崖碑は帝国の辺縁に多く分布しています。
広い地域を支配するために、多様な部族の人々をダルマという一つの理念でまとめようとしたのです。
しかし、征服した側と征服された側には考え方の違いあったため、アショーカが亡くなって50年ほどでマウリヤ帝国は崩壊してしまいました。
<アショーカ王の治世>
・ダルマによる支配
・社会事業→道路の整備、人畜のための病院の建設、井戸・休息所の設置など数々の社会事業
・仏教教典の編集(結集=けつじゅう)
布教師派遣→スリランカが南方仏教の拠点に→東南アジアへの伝播


インドで生まれた仏教は、その後、数百年をかけてアジア各地に広がっていきました。
まず1つは、インドの南東にある島・スリランカへ広まりました。
ここには、アショーカ王の息子の代に、仏教が布教されました。
スリランカは今でも国民の70パーセントが仏教徒という、仏教の盛んな国です。
このスリランカを拠点に、仏教は東南アジアへ伝わってゆきました。
タイは東南アジア最大の仏教国で、人口の95%が仏教徒です。
タイでは、仏教徒の男性は出家することが望ましいと考えられています。そのため、今でも雨期には多くの男子が一斉に仕事を休み、僧侶になります。
もう1つは、インドの北西・ガンダーラを経てシルクロードに向かいました。
ガンダーラでは、ギリシア文化の影響を受け、仏陀の死後500年ほど経って初めて、仏像が作られるようになりました。仏像が作られるようになると、人々は、仏像を通して、仏陀を神のように崇拝するようになりました。
仏教は、シルクロードを経て中国に入ります。
そして、中国に入った仏教が、朝鮮半島を経て日本へと伝わりました。
仏陀はあまりにも尊いとされたため、はじめは仏像をつくることをしませんでした。
しかし、クシャーナ朝が東西交易の重要なルートだったため、そこでギリシア文化と出会い、像として刻まれるようになったのです。
そして、ガンダーラで生み出された仏像が、シルクロードを通じて日本まで伝わってきたのです。


仏教が各国へ広く伝わる一方、インドでは仏教が消滅してしまいました。
現在のインドでは、ヒンドゥー教徒がおよそ8割を占めています。
ガンジス川沿いに並ぶ「沐浴場」は、ヒンドゥー教徒なら一生に一度は身を清めたいと願う場所です。「ガンジス川の聖なる水に触れれば、現世の罪や穢れが清められる」と信じられています。
ヒンドゥー教の主な神々は、バラモン教の神々を受け継いでいます。
しかしそれだけでなく、村や家の神々も最高神の化身や親族と位置付けられて、地域社会の民衆の心に根づいてきました。
最高神の1つであるシヴァ神は、破壊と慈悲の両面をもつ神です。
太陽の神・ヴィシュヌ神は、人間や動物に姿を変え、人々を苦しみから救うと信じられています。
ヒンドゥー教が主要な宗教になって仏教が消滅した理由は、大きく2つあります。
1つ目はバラモン教からの反撃があったことです。仏教などの思想が盛んになり、バラモン教が弱まりました。
そこで、バラモン教も考え方を変えて、民間にある神や土俗的な宗教を取り入れたのです。
もう1つの理由は、仏教と仏教を支える後援者たちとの関係です。
インドはローマと盛んに取引をしていましたが、3世紀、グフタ朝のあたりから、ローマ帝国の混乱に伴って、その貿易が衰退していきました。
それにより、仏教徒の商人たちが仏教を支援することができなくなり、衰退していったのです。
ただし、仏教はインドでは衰退しましたが、思想としては現在に至るまで大きな影響力を持っています。


<今日のまとめ>
@仏教の誕生と釈迦の足跡
Aマウリヤ帝国の征服活動とアショーカ王
B仏教の東南アジア世界への伝播とインドでの消滅
今回は、世界史上で重要な仏教という宗教を学習しました。
宗教を見るうえでは、宗教の教えの中身、宗教を後援する人々との関係、特に政治権力との関係を見ることが大切です。