NHK高校講座

歴史総合

Eテレ 隔週 水曜日 午前10:00〜10:20
※この番組は、2022年度の新番組です。

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今回の学習

第5回

近代国家への道のり

  • 監修・講師:東京都立国分寺高等学校教諭・佐伯 英志
学習ポイント学習ポイント

近代国家への道のり

  • 秋元才加さん
  • 牧田習さん

ここは秋元才加さんがオーナーを務めるグローバル・レストラン「こんぺいとう」。
そこに常連客の牧田習さんが加わります。
世界中のおいしい料理を取りそろえ、みなさんを、時空を超えた旅にいざないます!
 
歴史総合、今回のテーマは「近代国家への道のり」。

1889年2月11日。東アジアの国々では初の憲法である、大日本帝国憲法が発布されました。
その憲法に深く関わったのは、ドイツのある偉人。
彼の大好物とは?
明治維新を経て国際社会に飛び込んだ日本。
その荒波をどうやって乗り越えようとしたのでしょうか?
また、日本が憲法を制定した背景には、どのような世界の状況があったのでしょうか?

  • ビスマルク風ビーフステーキ
  • ビスマルク

しゅう 「何か力の出るメニューない?」

さやか 「もちろんあるよ!これ、ビスマルク風ビーフステーキっていうの。」

しゅう 「ビスマルク?」

さやか 「ビスマルクは、19世紀にドイツを統一した政治家。大の卵好きで、1回の食事で10個以上もたいらげたって記録が残っているの。だから、現在ではステーキやピザなどの料理に卵をのせることを、ビスマルク風と呼んでるんだ。力がみなぎってくるでしょう?」

しゅう 「何でもできそう。」

さやか 「何しろ、ビスマルクはドイツを統一したエネルギッシュでパワフルな人だったからね。」

ビスマルクのドイツ統一
19世紀のドイツ

19世紀のドイツは、プロイセン、オーストリアを含む、35の君主国と4つの自由都市が分立したまま連邦を形成し、まとまりのない状態が続いていました。
1862年、ドイツ連邦のひとつ、プロイセン王国の宰相にビスマルクが就任。
ドイツの統一を目指すビスマルクは、就任直後、後世に残る演説を行います。

「現在の大問題は、言論や多数決によってではなく、鉄と血によってのみ解決される」

武器を示す鉄と、兵士を意味する血。
ドイツ統一に必要なのは軍事力である事を明言。
ビスマルクは「鉄血宰相」と呼ばれました。

  • 統一されたドイツ
  • ヴィルヘルム1世の戴冠式

1871年、統一を妨げていたフランスとの戦いに勝利することで、ビスマルクは遂にドイツを統一へと導きます。
フランスの象徴、ヴェルサイユ宮殿で、初代皇帝に就任したプロイセン王、ヴィルヘルム1世の戴冠式が執り行われ、ドイツ帝国が誕生しました。

立憲制の導入
  • ドイツ帝国憲法

ドイツ帝国は、プロイセン憲法を元にして憲法を制定しました。
プロイセン国王が皇帝を務め、皇帝が宰相の任命権や軍の最高指揮権を持つ一方、二院制の議会を開設。
権利と法の前の平等を保障しました。
一方、戦争に敗れたフランスでは、国民から選ばれた人物が国を統治する共和政が定着。
二大政党制が発展したイギリスとともに、ヨーロッパでは「立憲制」が定着していきました。

しゅう 「ビスマルクは、憲法を導入してドイツを発展させた立役者だったんだね。そして、立憲制は、フランスやイギリスにも広まっていたんだ。」

さやか 「19世紀後半は、ドイツ、フランス、イギリスがそれぞれの方法で立憲制を導入して、1つの国にまとまっていったの。」

しゅう 「じゃあ、憲法ってすごく大事だったんだね。」

さやか 「憲法の役割はたくさんあるんだけど、特に大切なのは、法のもとに国民の自由とか平等などの権利を守って、権力者の力を制限することなの。」

しゅう 「憲法って権力者の力を制限して、国民の権利を守ってくれるんだ。」

さやか 「だから、当時は憲法を持っている国が近代国家として認められたわけ。」

  • 大日本帝国憲法発布

さやか 「これを見てください(画像)。1889年2月11日、日本で最初の近代的な憲法、大日本帝国憲法が発布された時の様子を描いたもの。中央にいるのが天皇と総理大臣。総理が持っているのが大日本帝国憲法。ここで問題です。このとき憲法は誰から誰に渡されたのでしょうか?(1)天皇から総理に渡された。(2)総理から天皇に渡された。正解はどちらでしょう?」

しゅう 「憲法は君主の力を制限するものだとしたら、(2)の総理から天皇に渡されたんじゃないかな?」

さやか 「残念!正解はね『天皇から総理に渡された』です。」

大日本帝国憲法の制定
  • 欽定憲法
  • 伊藤博文

大日本帝国憲法は、国民が憲法を定めたアメリカやフランスとは異なり、君主が国民に与えた「欽定(きんてい)憲法」でした。
参考にしたのはビスマルクが宰相を務めるドイツ帝国です。
ドイツ帝国の憲法は、皇帝が定めた欽定憲法でした。
それを強く推し進めたのが、伊藤博文です。
伊藤とビスマルクが初めて会ったのは、1873年。
欧米に派遣された岩倉使節団の謁見の時でした。
この時、ビスマルクは伊藤に「国際関係の基本は、『弱肉強食』の論理である」と語りました。

  • ローレンツ・フォン・シュタイン
  • 大日本帝国憲法

1882年には、オーストリアで法学者のローレンツ・フォン・シュタインに学びます。
シュタインは、王による君主主義を理想と考えていました。
ヨーロッパで国際政治と憲法について学んだ伊藤を中心に、1887年、憲法草案の作成を開始。
こうして1889年2月11日、「大日本帝国憲法」が発布されました。
主権は天皇にあり、天皇は陸海軍の統帥権とともに、議会の協賛を得ながら立法権も持ちます。
国民には、納税・徴兵などの義務を課す一方、二院制の議会を開設。
ドイツ帝国憲法に類似する点が多い内容です。

しゅう 「日本は皇帝のいるドイツをお手本にして、憲法を定めたんだね。」

さやか 「こういうのを『立憲君主制』っていうの。」

しゅう 「市民の自由と君主制が両立しているなんて、なんだか複雑だな。」

さやか 「フランスは革命で王政を倒した。イギリスは長い時間をかけて議院内閣制を確立し、『王は君臨すれども統治せず』とした。立憲制の形は国の成り立ちによっていろいろあるの。」

しゅう 「とにかく日本は憲法をつくることが大事だったんだね。でも、なんでだろう?」

  • 不平等条約

さやか 「理由の1つは、開国の時に結んだ不平等条約の改正をすること。そのためには、憲法を持った近代国家であることを欧米諸国に認めさせて、対等に渡り合う必要があったの。」

しゅう 「じゃあ、立憲国家になった日本は、不平等条約を変えることができたの?」

さやか 「憲法発布から5年後(1894年)に、まずイギリスが条約の改正に応じてくれたの。でも、最後まで残った関税自主権の撤廃は1911年だから、不平等条約の改正までには20年以上かかったことになるな。」

しゅう 「憲法発布から20年以上か...。国際政治は厳しいな。」

さやか 「ビスマルクが言うように、当時の国際政治は『弱肉強食』だったからね。ほかのアジアの国々も相当大変だったんだよ。」

しゅう 「どういうふうに大変だったの?」

ベトナム〜フランスの影響
  • ベトナムコーヒー
  • カフェフィン

  • コンデンスミルク
  • アオザイ

さやか 「ヒントは、これ(画像・左)です!」

しゅう 「これって、コーヒーだよね?」

さやか 「そう、ベトナムコーヒー。」

ベトナムコーヒーで使用する独自のフォルター「カフェフィン」は、フランスで伝統的に使われているもの。
カップの底の白い液体はコンデンスミルク。
伝統的なベトナムのスィーツに使われてきました。
フランスとベトナムの文化が融合して生まれたのが、ベトナムコーヒーです。

さやか 「かき混ぜて飲んでみて。」

しゅう 「甘くておいしい!ちょっとカフェオレみたいな感じになって。」

さやか 「フランスの影響は、ほかにもあるよ。私が今日着ている、このベトナムの民族衣装『アオザイ』きれいでしょう?」

しゅう 「チャイナドレスっぽいけど、独特なデザインだね。」

さやか 「このアオザイもフランスの影響を受けている。」

しゅう 「でも、当時の国際社会と、どういう関係があったの?」

さやか 「実は、ベトナムはフランスの植民地だった。」

しゅう 「植民地?どういうこと?」

フランス統治下のベトナム
  • 華夷秩序
  • 列強のアジア進出

当時、ベトナムは、中国・清を中心とする華夷秩序(かいちつじょ)の中で、独立王朝を維持していました。
華夷秩序とは、中国の皇帝が、朝貢してきた周辺諸国の王の支配を認める、伝統的な東アジアの国際関係です。
しかし、清の力が衰えてくると、フランスがベトナムへの攻撃を開始し占領。
1887年、ベトナムはフランスの植民地となりました。
19世紀のアジア各地は、ベトナムなど、ヨーロッパ列強による、植民地化(画像・右)が進んでいました。
フランスの統治下、ベトナム人がフランス人の総督に宛てた抗議の手紙が残されています。

「フランス人は我々を野蛮人とさえも考えていない。犬や豚同然だと考えているのだ。ベトナム人はフランス人に道で会った時も蹴られたり殴られたりしないよう、ただただ逃げ出すばかりである」

  • ベトナムの街並み
  • 初期のアオザイ

  • 西洋のドレスのシルエット
  • 現在では生地やデザインも多種多様

一方、ベトナムはフランスの影響を大きく受けて近代化します。
新しくできた町並み(画像・左上)は東洋のパリと呼ばれました。
このころアオザイも西洋の影響を受け変化します。
アオザイの起源は、ベトナム王朝時代の宮廷で着ていたチャイナ服といわれ、男女ともが着ていました(画像・右上)。
これが、やがて上着の丈を長くした、女性の衣装となっていきます。
現代の形に近くなったのは、20世紀に入ってからのこと。
フランスの統治化で、レースなどの素材を使用し、西洋のドレスのシルエット(画像・左下)が取り入れられました。
現在では、生地やデザインも多種多様(画像・右下)。
ベトナムはもとより、世界中の女性に愛されています。

しゅう 「植民地になった国の人たちは、とてもつらい思いをしたんだね。」

さやか 「悲しい歴史だよね。国内では憲法を制定して人権を守っているヨーロッパ各国が、アジアを植民地化して人権を抑圧しようとしていたからね。」

しゅう 「何だか複雑な気持ちになるよね。」

アジア国家の変容

しゅう 「でも、ベトナムの人たちってすごくたくましいと思うの。アオザイもコーヒーもそうだけど、植民地時代に外国から入ってきた文化と、自分たちの伝統の文化を合わせて、新しい文化を生み出したんだもんね。」

さやか 「そうだね。それは明治時代の日本にも言えると思うんだ。当時の日本は植民地にはならなかったけど、自分たちの伝統と欧米の文化を合わせて、新しい文化をつくり出したよね。」

しゅう 「この間のおすすめメニューだったカレーライスも、食の近代化の影響とも言えるもんね。」

さやか 「明治の日本は、憲法を創ったり、食文化を変えたり、いろいろな改革をして近代化を進めたんだね。」

  • 佐伯先生
  • 西洋野菜

常連客の佐伯英志先生は、大の野菜好き。

さやか 「今日は朝市に行ったんですよね。」

佐伯先生 「そうなんですよ。今日の朝市はとてもよくて、アスパラガス、キャベツ、イチゴ、それからリンゴも買っちゃいました。」

さやか 「ところで、これってみんな明治時代から日本に入ってきた西洋野菜、西洋果物ですよね?」

佐伯先生 「実は、これらの西洋野菜を日本に普及させるために、ある人物が活躍したんです。それは誰だと思いますか?」 

津田梅子〜近代化への貢献
  • 津田梅子

佐伯先生 「五千円札の肖像に選ばれた、この人に関係があります。」

五千円札の肖像になった、津田梅子。
ドイツでビスマルクに謁見した岩倉使節団と一緒に、アメリカに渡りました。
2度に渡るアメリカでの留学生活を経て、梅子は「女子英学塾」を創設。
現在の津田塾大学です。
津田梅子は、日本の女子教育の近代化に大きな貢献を果たしました。
その業績が認められ、紙幣に選ばれたのです。

津田仙〜近代化への貢献
  • 津田仙
  • トウモロコシ

西洋野菜の普及に活躍したのは津田梅子ではなく、父親の津田仙でした。

さやか 「津田仙さんって、元、武士だったんですよね?」

佐伯先生 「そうそう。英語が堪能でね、あの福沢諭吉と一緒にアメリカに行ったこともあるんだけど、身分制度がなくなった明治維新後は西洋旅館、つまりホテルで働くようになったんだ。ホテルで出す西洋野菜の栽培を手がけて、西洋野菜の導入と、近代農業法の普及を進めたわけ。」

しゅう 「武士からホテル、それも野菜の栽培って、だいぶ大胆な転職ですね。」

佐伯先生 「確かにそうだね。そんな津田仙が、日本で最初にはじめたものがある。それはね、通信販売なの。」

しゅう 「何を売ったんですか?西洋野菜とかですか?」

佐伯先生 「実はね、今日買ったこれ(画像・右)。」

しゅう 「トウモロコシですね。」

佐伯先生 「実は、アメリカ産のトウモロコシの種が、日本で最初の通信販売と言われているんです。」

しゅう 「これも、日本に農業の近代化を広めるためだったんですね。」

佐伯先生 「実は、仙が目指したのは、西洋の農業を取り入れて、農業者自身の活動によって農業の近代化を実現することだった。つまり、民間の力で、農業の近代化を図って、近代国家を支えようとしたんです。近代国家への道のりっていうのは、政府主導で行われる側面もあるんだけども、民間の力があってこそ、近代国家への転換ができたってことなんですね。」

さやか 「国の近代化を民間の目線から眺めてみると、もっと私たちにとって身近に感じることができるかも知れないですね。」

それでは次回もお楽しみに!

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