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Eテレ 毎週 金曜日 午後2:00〜2:20
※この番組は、前年度の再放送です。

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今回の学習

第39回 第5章 現代の世界と日本

講和から高度経済成長の時代へ

  • 日本史監修:東京都立上野高等学校非常勤教員 尾 久照
学習ポイント学習ポイント

一.サンフランシスコ平和条約 二.安保改定と国内対立 三.高度経済成長

  • 70年代の日本の家庭に普及

今回は、高度経済成長の時代を迎えた日本を見ていきます。1950年代後半から1970年代にかけての時代、日本の家庭には当時「三種の神器」と呼ばれたテレビ・冷蔵庫・洗濯機が普及しました。
スタジオには、それらの家電が用意されました。

高橋館長 「このテレビが家に入ったときはもう大興奮ですからね。普通は町の中でも、お風呂屋さんだとか、ちょっとお金持ちの家とかそういうところしかなかったんです。みんな放送はそういうところのお宅にお邪魔して観に行ったんです。」

AKB48 「えー!すごい!」

高橋館長 「白黒テレビ、そして電気冷蔵庫、電気洗濯機。当時、『三種の神器』と呼ばれました。70年代後半までに、ほとんどの家にこの3つの家電が普及したんです。」

向井地 「それだけ、日本人の生活がここで変わった、ということなんですね?」

高橋館長 「そうなんです。人々の暮らしも、興味の対象も、大きく変わった時代でした。」

今回の時代と三つの要
  • 今回は昭和30年代〜40年代にかけて

今回の時代は主に昭和30年代から40年代にかけての時代です。

1952年、アメリカの占領が終わり、日本は独立を果たします。
しかし日本は新たな問題に直面しました。戦力を持たないことを憲法でうたいながら、どのように国の防衛を行うのか。この問題をめぐり国内では激しい対立が起こります。

一方、経済は急速な発展を遂げました。
日本の復興と成長は、どのように進んでいったのでしょうか。


今回押さえるべき三つの要は、

一.サンフランシスコ平和条約
二.安保改定と国内対立
三.高度経済成長
です。


前回 学習した時代は、日本はまだアメリカの占領下にありました。
また、アメリカは日本の民主化よりも、資本主義の国として経済的に自立することを優先するよう占領政策の方針を変えました。

そうしたアメリカの政策が支えとなり、日本は独立を果たします。

要 其の一 「サンフランシスコ平和条約」
  • 独立に関わる日本の世論
  • 講和会議に中国は呼ばれなかった

日本の占領を始めてから5年後、アメリカは講和と日本の独立を早めようとしていました。

しかし、講和を巡って世論は二つに分かれました。一つは、「全面講和論」です。アメリカとの同盟ではなく、中立を目指すため、全ての交戦国や被害を与えた国と一斉に講和条約を結ぶべきだというものです。
もう一つは、「単独講和論」です。早く独立を果たすことが大切で、アメリカなど西側諸国とだけでも条約を結ぶべきだというものです。

その最中、1951年9月、アメリカのサンフランシスコで日本の独立を話し合う講和会議が始まりました。
しかし会議には、中国などの国が招待されておらず、ソ連は中国が呼ばれないことに抗議して条約に調印しませんでした。
吉田茂首相は、サンフランシスコ平和条約に調印します。こうして日本は、西側諸国48か国とだけ講和を結び、翌1952年に独立を果たしたのでした。

  • 沖縄などの島嶼地域は引き続き占領下

サンフランシスコ平和条約により独立を果たした日本は、朝鮮の独立を承認し、台湾・千島列島・南樺太の領有を放棄します。また奄美、沖縄、小笠原諸島は引き続きアメリカの施政権下に置くことを認めました。

  • 日米安保条約により米軍の駐留が継続
  • 日米安保により自衛隊と防衛庁が発足

同じ日の午後、吉田首相はもう一つの条約を結びました。日米安全保障条約です。この条約によって、国内の米軍基地に、アメリカ軍の駐留が続くことになりました。

さらに日米安全保障条約に基づき、日本は自衛隊と防衛庁を発足させました。 


向井地 「『日本はすべての国と講和して中立を目指すべきだ』と言っていた人たちの意見は、受け入れられなかったんですね。」

高橋館長 「西側諸国とだけだったんですね。」

向井地 「そういえば、前回学んだ憲法9条では、日本の戦争放棄と戦力の不保持を定めていましたよね。」

込山 「だけど…、自衛隊に防衛庁?よく分からないです。」

高橋館長 「難しい問題ですよね。こうした問題を巡って、国内では激しい対立が起こるようになったんです。」

要 其の二 「安保改定と国内対立」
  • 軍備保有を憲法で認める方針の鳩山内閣発足
  • 社会党は再統一で憲法改正に対抗

吉田内閣の政策はアメリカに依存し過ぎであるという反発が、同じ保守派の中からも強まってきました。
そうした勢力が集まり、鳩山一郎を総裁とした、「日本民主党」を結成します。彼らは吉田内閣に不信任を突きつけ、退陣に追い込みました。そして、日本民主党が政権の座に就いて鳩山内閣が誕生します。
目指したのは、軍備の保有を憲法で認めるため、憲法九条を改正することでした。

憲法を改正するためには、衆参両院でそれぞれ3分の2以上の賛成が必要です。この要件を満たすために、日本民主党は保守系政党の合同を進め、3分の2以上の議席を獲得しようとします。

一方、憲法改正を認めさせまいとする日本社会党は、党内で起こっていた分裂を再統一し憲法改正の阻止に必要な3分の1以上の議席を確保しました。

  • 55年体制のはじまり
  • 岸は新安保に調印

社会党に対抗して、日本民主党と自由党も合同を進めていました。そして1955年に自由民主党が誕生します。これ以降およそ40年間にわたり、自由民主党は政権を握り続ける事になりました。これを55年体制といいます。

1957年には岸信介内閣が発足し、岸は憲法改正を唱えました。そして日米安全保障条約の不平等な点を改め、新しい安全保障条約=新安保条約を結ぼうとします。新安保条約は、アメリカと対等な立場で、提携関係の強化を図ることを目指すものでした。

これに対して、大規模な反対運動である安保闘争がおこりました。新安保条約は、アメリカとの軍事同盟であり、戦争に巻き込まれるのではないかと人々は恐れました。

  • 社会党を締め出して新安保の採決を強行
  • このやり方に国民の怒りは増した

しかし岸信介首相は、1960年1月に新安保条約に調印します。そしてこの条約を承認する採決を、社会党を締め出して自民党だけで強行しました。このやり方が、国民の怒りを買い、新安保条約への反対運動は一層激しくなります。

  • 新安保条約は自然成立
  • 米国と対等に近づくだけ日本の責任も重く

衆議院で採決された条約は、1ヶ月を経ると、自然成立してしまいます。これを阻止しようと、反対派は国会を取り囲みました。
激しい反対運動が続く中、1960年6月19日に、新安保条約は自然成立しました。

反対を押し切って、成立した新安保条約は、正確には「日米相互協力及び安全保障条約」といいます(右図)。

新安保条約では、まず、アメリカが日本を守る義務が明確化されました。これに伴って、日本領内でどちらかの国が攻撃された場合、共同で守り合うことが記されました。

そして「日本の防衛力の増強」「経済的協力の促進」は、日本側の責任をより強めるものです。
「在日アメリカ軍の軍事行動についての事前協議」「発効後10年で破棄通告できる」は、日米の立場をより対等に近づけるものでした。
このように、アメリカと対等に近づいた分だけ、日本の責任も重くなったといえます。


土保 「守ってもらうんだから、協力もしなくてはいけないということですね。」

込山 「だからアメリカの戦争に巻き込まれるかもしれないって心配したんですね。反対運動はもっと激しくなっていったんですか?」

高橋館長 「そう思いますよね?それが、そうでもなかったんですよ。人々の関心は、違うことへと移っていったんです。」

要 其の三 「高度経済成長」
  • 所得倍増計画を打ち出した池田勇人首相
  • 長期間にわたる成長が続いていた日本

岸信介に続いて首相になった池田勇人は、憲法論争には触れず、「所得倍増計画」を打ち出しました。10年で国民総生産=GNPを2倍にするというものです。

1950年代、日本は経済成長を遂げていました。朝鮮特需の後には、神武景気や岩戸景気など、長期間にわたる成長が続いていました。
その背景には、日本経済の成長を進めようとするアメリカが、1ドル360円という比較的円安の固定為替レートを設定したことなどがありました。こうした輸出に有利な状況で、貿易黒字による成長が続いていました。

  • 三種の神器が普及し、生活も変わっていった
  • 7年でGNP2倍を達成

そして1950年代後半には、「三種の神器」と呼ばれる家電製品が普及し始めるなど、生活も変わっていきました。
そのような好景気が続く中で、池田内閣の所得倍増計画は発表されました。
池田内閣は、経済活動に不可欠な道路や鉄道などの整備を進めます。また、集中的に公共投資を行い、産業構造を鉱工業中心に変化させていきました。さらに、技術革新を推し進め、国際競争力を強化していきます。
こうした政策により、わずか7年で目標だったGNP2倍を達成しました。

その後も経済成長の勢いは止まらず、いざなぎ景気に突入し、GNPはアメリカに次いで世界第2位となりました。

  • 安保闘争のエネルギーは経済成長が吸収した

向井地 「あれだけみんな安保闘争で戦っていたのに、そのことはどうなってしまったんですか?」

高橋館長 「それについては、池田内閣の経済政策のブレーンだった下村 治が、当時を振り返ってこう語っています。」

下村 治の回想
「安保騒動の火種は国民の欲求不満だった。欲求不満を吸収することが、高度経済成長の中で必ず実現できる。そうすれば、安保騒動を推進するエネルギーはなくなってしまう。」


高橋館長 「実際その通りになっていったんですね。人々の関心は政治から経済へと、移っていったんです。次回はいよいよ最終回です。日本経済はさまざまな困難に直面します。」

日本の歴史 いとをかし
  • 元 東京都立忍岡高等学校 教諭の尾 久照先生
  • 沖縄と米軍

前回に引き続き、特別講師の尾 久照 先生(元 東京都立忍岡高等学校 教諭)に話をうかがいます。
今回のテーマは、沖縄です。

尾武謳カ 「私は数回、生徒を引率して沖縄に行っているんですけれども、沖縄を通して日本の歴史を学べますし、なんと言ってもあの透き通った海が魅力ですよね。」

AKB48の3人 「行ってみたい!」

尾武謳カ 「ところが、あの太平洋戦争では、沖縄は本土での最大の地上戦があった場所で、本当に痛ましい事件が起きてるんです。この沖縄戦で、アメリカ兵も含めておよそ20万人が亡くなりましたが、そのうち約半数が民間人だったんですね。その中には、“集団自決” といって、親族同士などがお互いに命を絶つという信じられないような悲惨な事件が各地で起きているんです。」

ここで、戦後の沖縄を、年表を使って見ていきます(右図)。
日本はサンフランシスコ平和条約に調印して、1952年に一応の独立を達成します。しかし沖縄は奄美諸島や小笠原諸島と並び、引き続きアメリカの施政権下に置かれ、占領が続きました。


尾武謳カ 「一方で、沖縄では祖国復帰運動が盛り上がり、1972年に本土に復帰ということになっていくわけですね。ところが日米安全保障条約に基づいて、沖縄には米軍基地が継続して残ることになりました。」

  • 日本国内の米軍基地の74%が沖縄に集中
  • 次回もお楽しみに〜

ここで、沖縄にある米軍基地や施設の地図を見てみます(左図)。
沖縄は、日本の国土の0.6%を占めるのみですが、日本国内にある米軍基地や施設の74%が集中しています。

尾武謳カ 「この沖縄本島だけですと、およそ18%が、米軍の占有施設なんです。1995年には、アメリカ軍の兵士3人によって12歳の少女が集団で暴行されるという、本当に許されない事件が起きました。沖縄では当然激しい怒りが巻き起こります。そして、改めて米軍基地が集中する沖縄の現状がクローズアップされるんですね。みなさん、沖縄を訪れるときは、大いに自然や文化を楽しむとともに、こういった沖縄の歴史や現状を学んでいってほしいと思うんです。」

高橋館長 「先生、どうもありがとうございました。」


それでは、次回もお楽しみに!!

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