NHK高校講座

日本史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:00〜2:20
※この番組は、昨年度の再放送です。

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今回の学習

第35回 第4章 近代国家の形成と国民文化の発展

動揺する日本

  • 日本史監修:創価大学教授 季武 嘉也
学習ポイント学習ポイント

一.経済の動揺と金融恐慌 二.昭和恐慌 三.山東出兵と張作霖爆殺

今回の時代と三つの要
  • 今回は20世紀前半、大正〜昭和初期

前回、第一次世界大戦が終わり、ヴェルサイユ条約が結ばれたことなどを見ました。これにより、アジア・太平洋地域の新しい国際関係であるワシントン体制が作られます。新たな国際秩序の中で日本は、アメリカやイギリスと協調する道を選びました。
しかし、日本はこの後、様々な困難に直面することになります。


今回見ていく時代は、大正から昭和初期にかけての時代です。

第一次世界大戦終結後、経済的危機が日本を襲いました。恐慌という、経済パニックが立て続けに起こり、日本は深刻な不況に陥っていきます。
この恐慌はなぜ起こり、政府はどう対処したのでしょうか。
そんな経済的危機のおり、日本は協調外交から強硬外交へと転換します。


今回押さえるべき三つの要は、

一.経済の動揺と金融恐慌
二.昭和恐慌
三.山東出兵と張作霖爆殺

です。


恐慌による日本の動揺と、中国への強硬姿勢に転じた時代を見ていきます。

  • 10年間に3度も恐慌があった

恐慌とは、景気が一気に冷え込み、経済活動全体がマヒすることをいいます。

時代を追って見てみると、

1920(大正9)年 戦後恐慌
1927(昭和2)年 金融恐慌
1930(昭和5)年 昭和恐慌

のように、当時の日本では10年の間に3度も恐慌が起きています。

最初の戦後恐慌が起こった背景には、日本の工業製品が売れなくなったということがありました。第一次世界大戦が終わり、ヨーロッパ諸国の工業生産が回復し始めたためです。

さらに、日本の関東地方で大変な事態が発生します。

要 其の一 「経済の動揺と金融恐慌」
  • 戦後恐慌に続き、日本経済に打撃
  • 大蔵大臣の失言で取りつけ騒ぎに

1923(大正12)年9月1日午前11時58分、関東地方南部を大地震がおそい、関東大震災が発生します。
死者・行方不明者は10万人以上を数え、被害総額は当時の金額で60億円に上りました。戦後恐慌に続き、この関東大震災の影響で日本経済は大打撃を受けます。

その3年後、大正天皇が崩御すると、摂政 裕仁親王が即位して年号が昭和と改められます。

この年に成立していた若槻礼次郎内閣は、緊縮財政によって日本経済を立て直そうとしました。しかし昭和2年、議会で片岡直温(なおはる)大蔵大臣が、不良債権を抱えた銀行名を公表してしまいます。この失言がもとで、人々が預金を引き出すために銀行に押し寄せる、取り付け騒ぎが起きました。
これが引き金となって、各地の中小銀行が休業や倒産に追い込まれます。

さらに第一次世界大戦中、急速に発展した商社 鈴木商店が破産します。この鈴木商店に巨額の融資をしてきた台湾銀行が経営危機に陥りました。
こうして金融機関を中心に広がったこの恐慌を、金融恐慌といいます。

事態の収拾に失敗した若槻内閣は辞職に追い込まれ、金融恐慌の波は全国に広がっていきました。

  • 日銀からの巨額の救済融資で金融恐慌をしずめた
  • 噂が噂を呼び金融界が混乱した金融恐慌

次いで成立した田中義一内閣は、3週間の支払猶予令を発令します。そして日本銀行から巨額の救済融資を行ない、取りつけ騒ぎに始まった金融恐慌をようやくしずめました。

土保 「取りつけ騒ぎって、すごいですね。」

向井地 「どうしてそんなことが起きたんですか?」

高橋館長 「君たちがお金を預けている銀行が、もし倒産するかもしれないと聞いたら、どうしますか?」

AKB48の3人 「お金を下ろしにいきます。」

高橋館長 「そうですよね。でも預金者全員が一挙にお金を引き出そうと銀行に押し寄せたら、銀行にはお金がなくなってしまいます。そしたら、倒産してしまいますよね。倒産するかもしれないという噂が噂を呼んで、金融界が混乱したんです。それが、金融恐慌だったというわけです。」

要 其の二 「昭和恐慌」
  • 日本経済を根本的に立て直そうとした浜口内閣
  • 金輸出を解禁して外国為替相場安定化をはかる

1929年、立憲民政党の浜口雄幸が首相に就任、内閣を組織しました。大蔵大臣に前日銀総裁の井上準之助を起用し、日本経済を根本的に立て直そうとします。
井上は、輸出を促進するために外国為替相場を安定させようとしました。そのために行なったのが、1930年の金の輸出を認める金解禁です。

  • アメリカ発の大恐慌と重なり最悪のタイミングに

しかし、結果的にこの金解禁は、最悪のタイミングでした。
1929年の秋、アメリカで株価の大暴落が発生し、これをきっかけに世界中で大恐慌が始まっていたためです。
この世界恐慌と金解禁の二重の影響で、日本経済は大打撃を受け、昭和恐慌と呼ばれる深刻な恐慌に陥ります。

向井地 「日本の経済を立て直すために、どうして金の輸出を認めたのかよく分からないです…。」

高橋館長 「ここは、先生に解説願いましょうか。」

  • 創価大学 教授 季武 嘉也 先生

ここで、季武 嘉也 先生(創価大学 教授)に話をうかがいます。

季武先生によると、金の輸出を認めるという金解禁については、とても難しい問題だといいます。

  • 金本位制のしくみ
  • 金本位制による経済自動調節機能

通常の金本位制の下では、金と同じ価値を持つ金貨が発行できるほか、所有する金と同額の紙幣を発行することができます。このように紙幣や金貨は、金という裏づけによって信用を持つことになり、金と交換することができます(左図)。

ここで、ある輸入超過の国があったとします。その国は輸入超過であることから、多くのモノを外国から得ています。それに対して何らかの対価を払わなければならず、それを金で払うことになります。そのため、その国からは金が海外に流出します。すると国内の通貨の流通量が減り、一般的にはデフレ状態となり、物価が下落します。物価が下落すると、今度は輸出が多くなる可能性が出てきます。これを繰り返していくうちに自然と落ち着き、安定した状態が保たれるようになります。こうして皆が安心して貿易をするようになり、貿易が促進されるであろうというのが、金本位制による経済自動調節機能です(右図)。

季武先生 「そこで、金解禁をすると為替相場が安定し、貿易が促進されるであろうと期待されました。また金解禁には、日本の経済を根本的に立て直すためという、もう一つ理由がありました。解禁前の実際の為替相場は、第一次世界大戦前と比べると円安状態でした。それを従来の形で金解禁をしますと、逆に円高の状態となって輸出には不利になり、不況になることが予想されます。政府は、むしろそのような厳しい環境を作ろうとしたのです。」

第一次世界大戦中の好景気においては、あまり競争力の無い会社がたくさん興ったといいます。このような会社も厳しい環境の中で経営努力し、国際競争力を高めることによって、将来の飛躍を期待するという狙いが政府にはありました。

季武先生 「初めは多少不況でもしょうがない。けれども将来的には絶対よくなるぞ、というのが、この金解禁政策だったんです。」

  • 世界恐慌の影響は、政府の想像をはるかに超えた

高橋館長 「ところがそこに、世界恐慌が起こっていた。先生、これは政府の想像をはるかに超える大規模な恐慌になったんですか?」

季武先生 「はい。この時の世界の人々は、アメリカの恐慌が全世界に広がり、こんな深刻な影響を及ぼすとは思っていなかったんです。経済というものが、人々の想像以上に、国際的に深く結びついていたんですね。当時、アメリカには世界の資金が集まっていました。また日本ですと、アメリカへの輸出金額は、第一次世界大戦前と比べると5倍にも増加していました。ヨーロッパではドイツを中心に経済復興が進んでいましたが、その資金を提供していたのはアメリカでした。ですから、アメリカが恐慌になりましたので、日本もヨーロッパも同時に恐慌になってしまった訳なんです。」


立て続けに恐慌に見舞われたこの時期に、日本は中国に対してどのような政策をとったのでしょうか。

要 其の三 「山東出兵と張作霖爆殺」
  • 国民党の蒋介石
  • 満州の権益を守るため、日本は張作霖を支援

中国では辛亥革命後、中国国民党と軍閥と呼ばれる各地域の地方勢力が対立し、覇権を争っていました。
1927年、孫文の後を継いだ蒋介石率いる中国国民党が、南京に国民政府を樹立しました。そして中国を統一するため、北方軍閥を軍事的に打倒する、いわゆる北伐を行ないます。

これに対して日本の田中義一内閣は、中国東北部の満州における日本の権益を実力で守ることを決定します。満州軍閥の張作霖を支援して国民革命軍に対抗するため、中国在留日本人の保護を名目に、3度にわたる山東出兵を実施します。

  • 関東軍に張作霖排除の考えが出てくる
  • 自体は関東軍のもくろみとは逆に動いた

しかし張作霖が国民革命軍に敗北すると、関東軍の一部将校の中に、謀略によって張作霖を排除して満州を直接支配するという考えが現れてきます。関東軍とは、遼東半島租借地と満鉄沿線の守備を任務とする軍でした。
1928年6月、満州へ引き揚げる張作霖を、関東軍の一部将校が独断で列車ごと爆破して殺害しました。この張作霖爆殺事件の真相は国民には知らされず、田中内閣は事件の処理をめぐって天皇の信頼を失い、退陣しました。

事件の結果、事態は関東軍のもくろみとは逆に、この満州支配の動きは失敗に終わります。張作霖の後継者で息子の張学良は、それまで戦っていた国民政府に合流し、その傘下に入ったのです。こうして国民党の北伐は完了し、国民政府による中国全土の統一はほぼ完成しました。

  • 浜口内閣で協調外交を復活
  • 右翼青年に狙撃され、浜口首相は死亡

田中内閣に続いて成立した浜口雄幸内閣は、幣原喜重郎を外務大臣に再起用し、協調外交を復活させます。そして1930年、軍縮会議に参加し、ロンドン海軍軍縮条約に調印します。
これに対して海軍の一部や国家主義者は、天皇にあるべき軍の統帥権を内閣がおかしたとして、浜口内閣を激しく攻撃しました。浜口首相は、東京駅で右翼の青年に狙撃されて、翌年死亡します。

こうして協調外交は挫折し、経済不況と社会不安はさらに深まっていくことになります。

日本の歴史 いとをかし
  • 統帥権のほか、編成権も重要だった

引き続き、特別講師の季武先生に話をうかがいます。テーマは統帥権についてです。

統帥権については、季武先生にとっても、とても難しい問題だといいます。
この後、日本の軍部は暴走することになりますが、その根拠が「統帥権の独立」でした。

大日本帝国憲法の第11条に「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とあります。統帥とは、「軍隊に対する最高の命令」という意味です。軍隊では上官の命令が絶対であり、上官の命令は、さらに上の上官から来ます。これをさかのぼっていくと、命令を発するのはただ一人、天皇だけということになります。


季武先生 「ですから、この軍事的な行動に関しては、内閣も議会も全く口出しすることはできませんでした。ですから “独立” なんです。」

高橋 「誰も文句は言えない。」

季武先生 「はい。しかし、問題はもう少し複雑です。まず、天皇は軍事の専門家ではありませんので、天皇の決定を補佐する人が必要でした。それが陸軍では参謀本部、海軍では軍令部といいます。ですから実際には、この参謀本部と軍令部が作戦計画を練る訳です。そして、実は憲法には、もう一つの条文があります。」

大日本帝国憲法 第12条には、「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」とあります。これは、軍の編成と予算を天皇が決定することについて規定するものです。これを編成権といい、季武先生によると、実はこれが重要だったといいます。

季武先生 「兵力量は作戦計画とも深い関係がありますから、軍部としては、『これは統帥権の内だ』と主張します。しかし、それに対して内閣や議会は、『これは軍事予算だから我々にも口出しさせろ』と主張しました。」

高橋館長 「それが、ロンドンで開かれた軍縮条約の時に、表面化したということですか?」

  • 軍縮条約は天皇の許可を得て調印された
  • 次回もお楽しみに〜

季武先生 「そうです。ロンドン海軍軍縮条約では、各国と合意した日本の軍艦の量を浜口内閣は承認し、さらに天皇もそれに許可を与えました。しかし海軍の軍令部は、その量では日本の国防を維持できないとして同意しませんでした。そして統帥権を侵害したとして態度を強めたんです。」

込山 「天皇の許可を得たんですから、軍部の言い分はおかしいですよね。」

季武先生 「それで、浜口内閣は自分たちの主張を押し通して、条約を批准しました。しかし軍部はこれ以後、統帥権を前面に出して、強気な態度に出るようになっていくんです。」

高橋館長 「なるほど。その後、軍部の発言力がどんどん強くなっていくというわけですね。」

季武先生 「ここからですね。」

高橋 「先生、どうもありがとうございました。」


それでは、次回もお楽しみに!!

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