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Eテレ 毎週 金曜日 午後2:00〜2:20
※この番組は、前年度の再放送です。

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今回の学習

第35回 第4章 近代国家の形成と国民文化の発展

揺れ動く日本の社会と経済

  • 監修講師:創価大学教授 季武嘉也
学習ポイント学習ポイント

揺れ動く日本の社会と経済

歴史を語り合う茶屋、歴カフェ。
日本史が大好きな店員、小日向えりさんのもと、歴史好きの平野詩乃さん、市瀬悠也さんが集まってきました。

今回の時代は、大正から昭和初期にかけての20世紀前半です。
工業化に伴う都市化が進み、海外からも新しい文化が入ってきたこの時代、「大衆文化」が登場しました。
大正デモクラシーは、労働運動や普通選挙運動へと発展。
さまざまな社会の改革を求める声が上がります。
しかし、一方で日本の経済は、関東大震災や金融恐慌などの影響で、不況に苦しみ始めます。
今回のテーマに迫る3つのポイントは「普通選挙法と治安維持法」「大衆文化の普及」「金解禁と昭和恐慌」
政治や文化、経済、そして人々の暮らしはどのように変化していったのか、見ていきましょう。

えり 「前に話した『大正デモクラシー』について、覚えていることはあるかな?」
 
詩乃 「民衆が声を上げるようになって、労働運動などが活発になったんだよね。」

悠也 「あと吉野作造が『人民の幸せのために政治は行われなければならない』って主張したんだよね。」

えり 「その通り。吉野作造は、もうひとつ大事な主張をしていたと思うんだけど。」

詩乃 「『普通選挙によって民意を政治に反映するべき』だったよね。」

えり 「ご明察!この主張がきっかけとなって、普通選挙を求める運動は全国に広がっていきました。」

悠也 「でも確か、原内閣のときには時期尚早だっていうことで、実現しなかったよね。」

えり 「そうなんです。そのあと、どうなったのか気になりますよね。まずは大正時代の動きを見ていきましょう。」

普通選挙と治安維持法

義務教育の就学率が98%を超え、高等教育機関への進学希望者が増える中、1918年「大学令」が公布され、私立大学や公立大学の設立が認められます。
1925年には大学や旧制専門学校など、高等教育機関の数はおよそ4倍となり、国民の教育水準は著しく向上していきました。

人々の間にも民主主義を訴える大正デモクラシーの風潮が広がって、労働者の地位向上を目指す運動が高まっていきました。
そのひとつが、1920年に初めて開催されたメーデーです。
最低賃金制度の確立や8時間労働制の制定などが叫ばれました。
労働運動の高まりは社会主義者や共産主義者の活動を再開させ、1922年には「日本共産党」が結成されます。

さらに、女性差別からの解放を目指す婦人運動も盛んになりました。
1911年に「青鞜社(せいとうしゃ)」を結成し、女性解放を唱えてきた「平塚らいてう」は、1920年「新婦人協会」をつくります。
そして、女性の政治活動の自由を訴えました。

そのほかにも青年層・知識人層・労働者を中心に、さまざまな団体が各地で結成され、社会運動は全国に広がりました。
それらを集約する形となったのが、一般大衆の政治参加を求める、普通選挙運動です。
1919年頃から全国的な民衆運動に発展し、大きな世論となっていきました。

こうした普通選挙運動の高まりを受けて、「加藤高明(たかあき)」首相は1925年、「普通選挙法」を制定しました。
選挙資格の納税上の制限を撤廃し、25歳以上の男子に選挙権を認めたのです。
これによって有権者の数が増え、政治に広く民意が反映されるようになったのです。


普通選挙法による最初の総選挙は、1928年に実施されました。
総選挙の結果、社会運動や労働運動の指導者たちが結成した政党からも、8人が当選しました。
しかし、普通選挙法と同時に「治安維持法」が制定されました。
学生を中心に広がりを見せていた、共産主義思想への取り締まりが強められたのです。

1928年には治安維持法を改め、最高刑が死刑に引き上げられました。
また、すべての道府県に、思想・言論・政治活動を取り締まる特別高等警察「特高(とっこう)」を置きます。
こうして共産主義思想への取り締まりがいっそう厳しくなっていきました。

詩乃 「ようやく普通選挙が実現したけど、まだ女性には選挙権がなかったんだね。」

悠也 「女性にも選挙権が認められるのって、いつごろなんだろう?」

えり 「イギリスやアメリカではすでに、一部の女性に選挙権が認められていました。でも、日本ではまだ先になります。普通選挙法が公布された1925年から20年後、第二次世界大戦のあとにようやく日本でも女性に選挙権が認められました。」

詩乃 「まだ先だったね。」

えり 「それでも、25歳以上の男性に選挙権が認められたことで、1920年の原内閣のときの選挙に比べて、1928年の選挙では、有権者の数は4倍以上に増えました。」

悠也 「国民の意見が、政治にも反映されやすくなっていくのかな?」

えり 「そうですね。風通しがよくなっていきました。そして、実は政治の世界だけでなく、文化の面でも新しい風が吹き始めました。」

大衆文化の普及

このころ、工業化が進んだ都市部を中心に生活様式が大きく変わります。

海外から入ってきた新たな文化が浸透するとともに、鉄筋コンクリート製のアパート、集合住宅などが建設されました。
家族がくつろぐ居間にあるのは、ちゃぶ台です。
一緒に食事をとり、一家団らんを楽しむようになりました。

そして、ガラス窓にカーテンを取り付けたり、部屋の一部に洋風の応接間がある、「文化住宅」が流行します。

「ラジオ放送」が始まったのもこのころ、1925年です。 
相撲など、スポーツのラジオ中継も行われるようになりました。

1931年には、ラジオを聴いている人口は100万人を超えました。
服装にも変化が見られます。
まず、男性の間に洋服が普及。
その後、働く女性たちを中心に洋服が広がり始めます。
「モダンボーイ・モダンガール」といった、時代の先端をいく若い男女がカフェや喫茶店などに集まる姿が見受けられました。

詩乃 「モダンガールって、とてもおしゃれだったんだね。」

えり 「略して、モガ・モボっていうんだけど、レトロなファッションで、すごいかわいいよね。さあ、ちょっと2人に紹介したいものがあるんだけど、こちらです!」

悠也 「カレーライスだよね?」

えり 「実はこれ、大正時代当時のレシピで再現してもらいました。当時はカレーライスではなく“ライスカレー”と呼んでいました。カレーは明治の初めごろ、日本に入ってきました。明治時代にはカレーはハイカラな料理で、具はお肉が中心で野菜はほとんど入っていなかったそうです。カレー粉は、当時は輸入品でした。でも、明治後期になると、国産のカレー粉ができたこともあって、カレーは大衆の間でも徐々に食べられるようになりました。大正時代になると、お肉だけじゃなく、玉ねぎ、にんじん、ジャガイモなどの野菜をいっぱい入れてボリュームを増やしたんです。」

詩乃 「大正時代には、今おなじみのカレーが食べられていたんだね。」

えり 「ライスカレーは子どもから大人まで、人気だったそうです。ほかにも、トンカツやコロッケなどの洋食のメニューが食卓に並ぶようになったんですよ。」

悠也 「家の様式とか服装に加えてこうやって、食事にも変化が訪れたんですね。」

えり 「そうなんですよね。大衆の生活も、ずいぶん変化してきましたよね。でも、その一方で経済不況の足音が忍び寄っていたんです。」

金解禁と昭和恐慌

第一次世界大戦が終わると、大戦景気によって膨張していた日本の経済は苦境に立たされます。

貿易は1919年から再び輸入超過となり、重化学工業は欧米からの輸入品との競争に苦しみました。
1920年3月には株価が大暴落し、企業の倒産が相次ぐ「戦後恐慌」となりました。
さらに、これまで好景気だった生糸や綿糸の市場も暴落し、不況にあえぐようになりました。
そして、米の価格も下落。
国内での生産増加や朝鮮半島から米が入ってきたことが原因です。
農村も不況に巻き込まれていきました。

それに追い打ちをかけるように、1923年9月1日、関東地方南部に大地震が発生します。
「関東大震災」です。
死者・行方不明者は10万人以上、被害総額は当時の金額で60億円に上りました。
戦後恐慌や関東大震災により、日本経済は大きな打撃を受けます。

1926年、大正天皇が崩御し、年号は「昭和」と改められました。
この年に成立した「若槻礼次郎(わかつきれいじろう)」内閣は、緊縮財政によって経済を
立て直そうとします。
しかし1927年、議会で大蔵大臣が、不良債権を抱えていた銀行のひとつが「倒産した」と失言。
これがもとで、人々による預金の引き出しが相次ぎ、各地の銀行が休業や倒産に追い込まれました。
「金融恐慌」です。
こうした事態の収拾に失敗した若槻内閣は、辞職に追い込まれます。

その後、「田中義一(ぎいち)」内閣は、3週間の支払い猶予令を発令するなどの対策を行います。
その結果、ようやく全国に広がった金融恐慌を落ち着かせることができました。

1929年には「浜口雄幸(おさち)」内閣が成立。
大蔵大臣に井上準之助を起用し、日本経済を根本的に立て直そうとします。
その内容とは、国産品を奨励し輸入を減らすことでした。
一方で、賃金の引き下げや人員の整理による製品価格の引き下げ、さらには、労働の効率化や製品の規格化などの産業合理化によって、国際競争力を高めようとしたのです。

1930年には、第一次世界大戦で1917年以来禁止されていた金の輸出を解禁します。
この「金解禁」は、円と外国通貨との交換比率を、当時の実勢相場よりも円を切り上げて固定するものでした。
これにより、一時的には輸出が減りますが、その後は産業合理化が進むことで輸出が促進されると考えたのです。

しかし、1929年の秋にアメリカの株価大暴落をきっかけに起きた「世界恐慌」の影響が、日本にも及びます。
日本の輸出は著しく減少することになりました。
こうして、世界恐慌と金解禁の二重の打撃により、日本は深刻な
「昭和恐慌」に陥りました。

農村でも、都市からの失業者が戻ってきたことによる人口増加で、生活はさらに苦しくなりました。
1930年には、米が豊作で米価が下落する「豊作飢饉」となります。
一方、1931年には逆に東北地方と北海道が大凶作に見舞われました。
農家の生活は困窮し、食事が十分にとれず、学校に弁当を持って行くことができない「欠食(けっしょく)児童」や、自分の娘を売り渡してしまう「人身売買」などが社会問題となっていきました。

悠也 「ここまで日本て、ずっと発展してきている感じだったけど、ここにきてブレーキがかかったって感じがするよね。」

えり 「1929年の世界恐慌のあと、日本国内でも昭和恐慌になって、農家の所得は激減してしまいます。」

詩乃 「恐慌で大変なときに、大凶作にも見舞われてちゃうなんて。」

えり 「恐慌のあと、失業者が街にあふれたり、農家の人たちだけでなく、国民みんなの生活が困窮していったんです。」

日本史なるほど・おた話〜生活を豊かにする都市開発

今回は季武嘉也先生に伺います。

季武先生 「早速ですが、最近、お休みの日に電車に乗ってどこか遊びに行きました?」

悠也 「ぼく、遊園地に行きました。」

詩乃 「私は球場まで行って野球を見てきました。」

季武先生 「実は、休みの日に電車に乗ってどこかに遊びに行くという習慣は、大正時代から始まりました。それを仕掛けたのが、小林一三(いちぞう)です。小林は関西の阪急電鉄をつくったことで知られています。」

人々の生活を豊かにする都市開発を進めたのが、実業家の小林一三です。
小林は1910年に箕面有馬電気軌道(みのおありまでんききどう)、のちの阪急電鉄を開業しました。
大阪から箕面、宝塚までを結ぶ路線をつくったのです。
鉄道を敷くのと同時に、沿線に住宅をつくり、販売しました。
このころ、サラリーマンが郊外から都心部へ電車通勤する、というスタイルが生まれました。
そして同じ年、沿線に動物園を開き、1929年には始発の梅田駅に百貨店もオープンしました。

ほかにも、小林は世界でも例を見ない女性だけの「宝塚唱歌隊」、今の「宝塚歌劇団」を結成。
初公演は1914年でした。
この劇団の公演を目当てに、多くの人々が電車に乗って訪れました。

悠也 「電車の路線に加えてその周りまで一緒に発展させていくって、当時は画期的だったんですね。」

えり 「しかも電車や鉄道をつくるだけじゃなくて、一大エンターテインメントの宝塚までつくったっていうのが、本当にすごい方ですよね。」

季武先生 「小林のコンセプトは、家族で一緒に過ごす時間を大切にしよう、ということなんです。今では当たり前のように感じるかと思いますけれども、それまでの娯楽といえば、大人の男性がメインターゲットでした。寄席とか講談とか、映画とか。あまり家族そろって楽しむというものではありませんでした。
それに対して小林は、家族が一緒に行くことができて、ちょっとモダンで、健康的で、かつ安い娯楽を提供しようとしたんです。」

「こうした家族を大切にした都市開発の精神は、今も受け継がれています。現在の街づくりの先駆けといえますね。」

詩乃 「家族で一緒にいる時間が増えるきっかけになったんですね。」

悠也 「宝塚みたいに、女性だけの劇団なんて、女性の力がついてきたって感じもしますよね。」


それでは、次回もお楽しみに!

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