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※この番組は、前年度の再放送です。

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今回の学習

第33回 第4章 近代国家の形成と国民文化の発展

大正デモクラシー

  • 日本史監修:創価大学教授 季武 嘉也
学習ポイント学習ポイント

一.第一次護憲運動 二.第一次世界大戦の影響 三.原内閣の成立

今回の時代と三つの要
  • デモクラシーとは民主主義のこと
  • 今回は20世紀初頭の大正時代

デモクラシーとは、民主主義のことです。大正時代にはこのデモクラシーを求める声が、人々の間に広がっていきました。

前回学んだ日露戦争の当時は、「臥薪嘗胆」をスローガンにしてロシアと戦いました。しかし戦争には勝ったものの、賠償金を得ることができず、忍耐を強いられてきた国民には不満がつのりました。そして政府に抗議する民衆の一部が暴徒化し、日比谷焼き討ち事件なども起こりました。

このように国民の生活を後回しにしていた政府に対して、民衆は不満の声を上げはじめました。そこに吹いたのがデモクラシーの風でした。

今回の時代は20世紀初めの大正時代です。
日露戦争に勝利した日本は、国民の間に「一等国」の意識が生まれます。しかし、政治は元老率いる藩閥に握られ、国民の意見が反映されてはいませんでした。
一等国にふさわしい政治を求めた国民は、デモクラシーを唱え、様々な運動がわきおこります。大衆の力はやがて、時の政権を倒すまでに成長を果たします。

今回押さえるべき三つの要は、

一.第一次護憲運動
二.第一次世界大戦の影響
三.原内閣の成立

です。

大衆の力は、どのように成長していったのでしょうか。

  • 大日本帝国憲法下の国家機構

高橋館長 「欧米列強に肩を並べるために、国民は様々な犠牲を強いられてきていたんだから、ロシアに勝ったとなれば、『次は自分たちの生活を何とかしてくれ』となる訳ですね。」

土保 「それがデモクラシーに、どうつながって行くんですか?」

高橋館長 「これは以前学んだ当時の国家機構を表した図です(上図)。自由民権運動などによって、国民の声を政治に反映させるべく議会が開設されました。しかし、今回注目するのは内閣です。内閣は発足当時から、明治維新で活躍した薩摩・長州出身の官僚や軍人たちに独占され、政治の実権が握られていました。そこで、『もっと民主的な政治を』という声が高まって行くわけです。」

要 其の一 「第一次護憲運動」
  • 山県が同じ長州出身の桂を就かせた
  • 元老が政治に影響力を保っていた

1912年、明治天皇が崩御し、元号は大正に変わります。
その直後に成立した内閣の総理大臣は、長州藩出身で当時陸軍大将だった桂太郎でした。

桂の背後にいたのが元老の山県有朋です。元老とは、政治の第一線からしりぞいた後も影響力を持った、薩摩・長州出身の実力者たちです。
山県は、貴族院や官僚、軍部などから成る藩閥を形成していました。天皇の名の下に同じ藩閥の人物を首相に就かせ、その首相も自分の子分たちを閣僚に指名しました。このように、政治は藩閥に独占され、議会を重視するとした憲法に則った政治が行われているとは言えない状態でした。

こうした藩閥勢力に対抗出来る唯一の勢力として期待されたのが政党です。中でも最大の勢力を持っていたのが立憲政友会でした。

  • この二人を先頭に第一次護憲運動が始まる
  • 藩閥勢力は天皇の権限を利用して議会をしばしば停会させた

当時の幹部 尾崎行雄は、国民党の犬養毅と共に憲法を護った政治を行うべきだとして「憲政擁護・閥族打破」のスローガンを掲げ、第一次護憲運動を始めます。これによって藩閥ではなく、政党が政治を主導する政党政治の実現を目指しました。
運動は庶民の関心を呼び、集会は押しかけた群衆で満員になりました。

護憲運動に対し、桂内閣は元老 山県有朋と共に、天皇の権限を最大限に利用します。
大日本帝国憲法では、天皇が議会の招集や停会・解散の権限を持っていました。桂は反対勢力をかわすため、天皇の命令である詔勅を使い、何度も議会を停会させます。

  • 尾崎は藩閥政治を激しく糾弾
  • 数万の群集が衆議院を取り囲む騒動に

尾崎行雄は桂内閣に対し、「玉座をもって胸壁となし 詔勅をもって弾丸と変えて 政敵を倒さんとするものではないか」と激しく糾弾します。つまり「天皇を利用して政治を私物化している」と訴えたのでした。
そして尾崎らによって、桂内閣に対する不信任決議案が提出されます。しかし、桂はまたも詔勅による議会の停会で対応します。これに対し、数万の群衆が衆議院を取り囲み警官と衝突しました。
騒動は全国に広がり、桂内閣は退陣に追い込まれることになります。
しかし、次の政権は薩摩出身の海軍大将・山本権兵衛が担い、藩閥政治は継続しました。


向井地 「大衆が大きな力を持った事が分かりました。」

込山 「でも護憲運動が良くわかりません。」

土保 「政党政治も難しいよね。」

高橋館長 「これは我が女学館の特別講師、季武先生にお聞きしましょうか。」

  • 創価大学教授 季武 嘉也 先生
  • 大日本帝国憲法下では、元老が天皇の顧問の役割

ここで、創価大学教授 季武 嘉也 先生に、政党政治や護憲運動について話をうかがいました。

現代の日本の政治の仕組みは、政党政治です。主権者は国民であり、その国民が選挙で選んだ国会議員が日本の国を統治しています。そして、その国会議員の中から内閣総理大臣が選ばれます。普通、議会で最も議席の多い政党の総裁が総理大臣に指名されます。

季武先生 「総理大臣は、内閣を運営し易いように、自分の政党から大臣を選びます。これが政党政治です。」

高橋館長 「しかし、当時は薩摩・長州の出身者や、元老による藩閥政治が行われていたという訳ですね?」

季武先生 「はい。大正時代の憲法は大日本帝国憲法であり、主権は天皇にありました。そして、すべての人事は天皇が握っていました。ですから、誰を総理大臣に選ぼうが、それは天皇の勝手だったんです。」

高橋館長 「我々でも?」

季武先生 「はい。でもさすがにそれはまずいと…。」

高橋館長 「もちろんそうですよね。」

季武先生 「そこで天皇は、元老とか、あるいは側近の方に相談して決めていました。では、その元老に誰がなるかと言いますと、具体的には薩摩・長州出身の政治家でした。彼らも、自分たちの影響力をなんとか残したいと思いまして、自分の子分たちを総理大臣に推薦したんです。」

高橋館長 「だから藩閥政治が行われていた、という訳ですか。であの護憲運動というのは?」

  • 憲法は国王の勝手な政治を制限するために生まれた
  • 憲法政治は、議会を重視する政治

季武先生 「まず “護憲” とは、憲法政治を護るという意味なんです。そして憲法はと言いますと、当時は国王による勝手気ままな政治を制限しようという発想から生まれました。そうしますと一番チェックするのはどこかと言いますと、議会でした。そのため憲法政治と言いますと、議会を重視すべき、あるいは議会が政治の中心になるべきという考え方だったんですね。

高橋館長 「つまりここ(議会)がちゃんとやりなさいよ、ということですよね。それなのに、元老や側近が天皇を利用して勝手に総理大臣を決めていたら、国民みんな怒りますよね。」

向井地 「だから護憲運動が起きたんですね。」

高橋館長 「先生、どうもありがとうございました。」

要 其の二 「第一次世界大戦の影響」
  • ヨーロッパで大戦が始まる
  • 女性も労働に借り出された

政党政治の実現に向け、大衆が力をつけていた頃、世界では大きな出来事が起こります。
1914年、オーストリアとセルビアの戦争をきっかけに、イギリス、フランス、ドイツ、ロシアなどが次々に参戦して第一次世界大戦が始まります。
日本も日英同盟に基づいて参戦し、中国に軍隊を送りました。

戦争は長期化し、主な戦場となったヨーロッパの各国は短期間で物資を使い果たしたため、勝敗はそれぞれの国の生産力に左右されることになります。国の全ての資源や労働力を戦争につぎこむ総力戦体制がしかれ、女性も労働に駆り出されるようになりました。

  • 世界では多くの社会的革命が実現
  • 日本でも社会運動が展開された

このため、国民から民主主義的要求が高まり、世界では多くの社会的改革が実現することになります。イギリスでは女性の参政権獲得がなされ、ロシアではロシア革命によるソヴィエト連邦誕生などがありました。

これらは日本にも大きな影響をおよぼし、様々な団体が各地で結成され、社会運動を展開します。

  • 社会運動に影響を与えた吉野作造
  • 民本主義の理論が大正デモクラシーの潮流を生む

そうした運動に大きな役割を果たしたのが、東京大学教授 吉野作造の唱える民本主義の理論です。吉野は「主権者が誰であれ一般民衆の幸せのために政治は行わなければならない」と唱えます。いくつもの雑誌が発刊されて民本主義の思想が展開され、これが大正デモクラシーの潮流を生みます。
吉野はまた、普通選挙によって民意を政治に反映すべきだと主張しました。

当時の選挙は、25才以上の男性で、10円以上の直接国税納税者に限られた制限選挙でした。吉野作造の民本主義を後押しに、普通選挙を求める運動は全国に広がっていきました。

このように、政党政治の他に、普通選挙を求める運動も現れてきます。

要 其の三 「原内閣の成立」
  • ロシア革命の影響を恐れて出兵した日本
  • 米価が急上昇

この頃日本はロシア革命の影響を恐れて、アメリカ・イギリスなどとともに、シベリアに軍隊を送りました。
このシベリア出兵により、軍隊への補給で米がなくなるのではと考えた人々が米を大量に買い、米価は急上昇しました。

  • 都市部では別の形で暴動に
  • 軍が国民に向けて発砲した

富山では米の値上がりから生活に困った主婦たち700人近くが、米商人を相手に抗議を行います。
この米騒動はメディアによって全国に飛び火しました。都市部では賃金の値上げや、家賃の値下げなどに形を変えた暴動に発展します。

時の首相 陸軍大将の寺内正毅は長州出身で、元老 山県有朋の推薦による閥族内閣でした。米騒動に対し寺内は全国に、のべ10万人の軍隊を派遣し鎮圧にあたります。軍隊は国民に向けて発砲、10人以上の死者を出し、逮捕者は全国で2万5千人以上に上りました。

人々の怒りは政府そのものに向けられるようになり、米騒動の規模は全国で70万人以上に拡大しました。政府内からも寺内首相の退陣を求める声が上がり、内閣は総辞職して寺内は退陣します。

  • 平民の政治家が初めて総理大臣に
  • 初めての政党内閣

次の首相は誰かと日本中が見守る中、米騒動に衝撃を受けた元老らは、立憲政友会総裁で衆議院議員の原敬を推薦します。それまで藩閥や軍人などで占められていた日本の首相の座に、初めて平民の政治家が就くことになりました。国民は原首相を「平民宰相」と呼び、期待をよせました。
原は、陸軍・海軍・外務の3大臣以外をすべて政友会党員で組織します。これによって初めての本格的な政党内閣が成立しました。

  • 民意を反映させる政策を実行
  • しかし普通選挙には反対した

原内閣は、民意を政治に反映するための政策を矢継ぎ早に実行します。
米騒動の収拾のため、米を緊急に輸入するなど米価対策にあたりました。さらに産業の奨励や高等教育機関の拡充などを行います。また大規模な鉄道敷設計画を実行し、地方を含めた交通網の整備を進めました。
しかし、その一方で普通選挙については、時期尚早として反対の態度を取りました。

普通選挙は実現しなかったものの、一般大衆の声が政治を動かす時代がこのとき訪れました。

高橋館長 「明治が数々の志士・英雄たちによって作られた時代だとしたら、大正というのは一般大衆が力を持ち、政治に大きな影響を与え始めた時代だと言えるかもしれません。普通選挙の実現については、また別の回で学びましょう。」

日本の歴史 いとをかし
  • 日本の流行歌第一号「カチューシャの唄」

再び季武先生に、大正時代の大衆文化について話をうかがいました。

日本の流行歌の第一号は、「カチューシャの唄」という曲だといいます。
これは1914(大正3)年に、帝国劇場で上演されていたトルストイの「復活」という劇の中で、主人公の松井須磨子さんが歌った曲です。

季武先生 「そもそも、カチューシャと言いますのは、この劇の主人公の女性の名前なんです。その主役の松井須磨子さんが、頭にカチューシャを付けていて、そこから広まったということです。この曲に真っ先に反応したのは、大学生や高校生たちでした。」

  • 一般の人々が自己主張するようになった
  • 次回もお楽しみに〜

季武先生 「それが非常に評判が良かったんで、レコーディングされ、まだ当時では蓄音機が少なかったんですけれども、相当の枚数を売り上げたと言われています。こうして、一般の人々にもこの曲は広く広まりました。このように一般の人々が、自分の好きなものを自己主張するようになり、多くの共感を呼ぶと流行し、大衆文化となりました。」

高橋館長 「先生、どうもありがとうございました。」

土保 「ヒット曲の第一号が大正時代にあったなんてびっくりです!」

込山 「カチューシャも!」

高橋 「100年前の流行、今みなさんしてるんですものね。すごいですね、考えてみたら!」


それでは、次回もお楽しみに!!

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