NHK高校講座

日本史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:00〜2:20
※この番組は、前年度の再放送です。

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今回の学習

第31回 第4章 近代国家の形成と国民文化の発展

琉球と北海道

  • 日本史監修:お茶の水女子大学名誉教授 小風 秀雅
学習ポイント学習ポイント

一.近世の蝦夷地 二.蝦夷地から北海道へ 三.琉球から沖縄へ

  • 今回は17世紀〜19世紀、江戸時代から明治時代
  • 蝦夷地から北海道、琉球から沖縄へ

今回は、沖縄と北海道がテーマです。AKB48の3人は、沖縄の代表的なお菓子 ちんすこうや、北海道のチーズなど、それぞれの名産品を用意しました。
どちらも日本の北と南の端にある、日本の代表的な観光地ですが、その背後には激動の歴史がありました。

今回の時代は、17世紀から19世紀、江戸時代から明治時代にかけてです。

雄大な大地が広がる北海道には、アイヌ民族が暮らし、明治以前には蝦夷地と呼ばれていました。一方、澄みきった海に浮かぶ島 沖縄には、かつて独自の文化を育んできた海洋国家“琉球王国”がありました。

しかし江戸から明治にかけて、清やロシアなどの影響を受けた琉球と蝦夷地には、苦難の歴史がありました。琉球から沖縄へ、そして蝦夷地から北海道へ、二つの地域はどのようにして変わっていったのでしょうか。

今回押さえるべき三つの要は、

一.近世の蝦夷地
二.蝦夷地から北海道へ
三.琉球から沖縄へ

です。

沖縄の位置を地図で確認すると、沖縄は本州から遠く離れ、中国とも近いことがわかります。同様に、北海道も東京より大陸の方に近い位置にあります。

高橋館長によると、歴史は地理的な影響を大きく受けるものであり、北海道と沖縄も例外ではないといいます。

要 其の一 「近世の蝦夷地」
  • かつて蝦夷地と呼ばれた地域
  • 独自の文化を育んでいたアイヌ

蝦夷地と呼ばれた現在の北海道、樺太、千島列島には、アイヌ民族が住んでいました。
彼らは雄大な自然の中で、魚や獣、鳥などを糧として大自然とともに暮らしていました。そしてコタンという集落を作り、独自の言葉を使い、独自の文化を育んでいました。

  • 北海道南端に拠点を置いていた松前藩
  • アイヌ民族が松前藩に戦いを挑んだ

江戸時代には北海道は蝦夷地と呼ばれ、“和人”、つまり本州系の日本人たちとアイヌ民族との間で交易が行われていました。

現在の北海道の南端に拠点を置いていた松前藩は、アイヌ民族との交易を主な収入源としていました。
アイヌ民族からは鮭や昆布、毛皮など、松前藩からは米などを交換する交易でした。しかし、わずかな米と大量の海産物を交換する松前藩の不当な交易に、アイヌ民族の不満が高まります。

そして1669年、漁業権をめぐるアイヌ内部の争いを契機に、静内の首長 シャクシャインを中心にした勢力が一斉に蜂起して松前藩に戦いを挑みました。
この「シャクシャインの戦い」では、松前藩は津軽藩などの協力を得てアイヌ側を鎮圧します。
シャクシャインの戦いに敗れたアイヌ民族は、以後、全面的に松前藩の支配下に置かれていくことになりました。

こうしてアイヌ民族の生活は、江戸時代に松前藩によって支配されてしまいます。
そして、江戸時代の終わり頃になると、蝦夷地をめぐってロシアとの紛争が起こります。日本とロシアに挟まれたアイヌ民族は、紛争に巻き込まれて大きな影響を受けることになります。

要 其の二 「蝦夷地から北海道へ」
  • 日露和親条約で国境を定めたが、雑居地もあった
  • 明治になり、国境を確定

18世紀末から、蝦夷地をめぐって、日本とロシアとの間に紛争が起きるようになりました。
危機感を覚えた幕府は、1807年、蝦夷地のすべてを幕府の直轄地とします。そして1855年、開国した日本は、ロシアと日露和親条約を結びました。

この条約で、日本とロシアは国境について取り決めました。
千島列島における日本とロシアとの国境を択捉(えとろふ)島と得撫(うるっぷ)島の間とし、樺太においては国境を画定せず、これまでの慣習どおり日本とロシアの雑居の地としました。

その後、明治になると、国境が画定していなかった樺太をめぐって、ロシアと紛争が続きました。
そこで1874年、榎本武揚(たけあき)を特命全権公使としてロシアに派遣します。
そして樺太・千島交換条約を結び、樺太をロシア領、千島全島を日本領とすることで国境が画定しました。

  • ロシアに対する警備も兼ねていた

しかし、そのように国境が画定する中で、北海道、樺太、千島などに暮らしていた先住民族の意見が取り入れられることはありませんでした。
こうした中、日本政府は蝦夷地の開拓を本格化させていきます。

1869年、蝦夷地は北海道と名前が改められました。同時に、富国強兵を目指す明治政府は、開拓使を設置して本格的な開拓に乗り出しました。
当初、北海道開拓の中心となったのは、各地から移住してきた農業兼業の兵士である屯田兵(とんでんへい)でした。彼らは、ロシアに対する警備も兼ねていました。

  • 開拓使の招きで来日
  • この頃本格的に作られるようになったチーズ

さらに、農業などに西洋の技術を取り入れながら、開拓事業は進んでいきます。
“Boys, be ambitious.(少年よ、大志を抱け)”で有名なクラーク博士が開拓使の招きで来日し、札幌農学校でアメリカの近代農法などを教えました。チーズやバターも、この頃に本格的に日本で作られるようになったと言われています。

  • 開拓が進み急拡大した人口
  • この間、アイヌの人口は変わらなかった

開拓が進むと北海道の人口は急激に増え、1870年に6万ほどだった人口が、1912年には170万を超えます。

しかし、この間にアイヌ民族の人口は、ほとんど変わっていませんでした。
明治政府は、アイヌ民族に農業に従事するよう促しました。その結果、それまでの生活基盤であった狩猟や漁業などの権利を失っていくことになります。

このように日本が近代化していく中で、アイヌの人々の生活は大きく変わっていきました。
日本にとっては、ロシアに近いという地理的な条件もあり、北海道を開拓していくことが重要でした。

要 其の三 「琉球から沖縄へ」
  • 華夷秩序の中にあった琉球
  • 薩摩の侵攻後も清と貿易を続けた

琉球は14世紀からおよそ500年に渡り、中国皇帝から「琉球国中山王(ちゅうざんおう)」という号を与えられ、中国を頂点とする華夷秩序の中にありました。
琉球と中国は、お互いに使節団を派遣し、朝貢貿易という形で交易を盛んに行っていました。

1609年、薩摩の島津氏は、江戸幕府に許可を得て琉球に侵攻します。敗北した琉球は、実質的に薩摩藩の支配下に置かれることになります。
しかし、琉球の人たちにとって中国との貿易は欠かせないものでした。そのため、琉球は独立した王国の形をとり、中国とも関係を続けました。

  • 琉球王国の中心だった首里城
  • 中国風の造りをした北殿
  • 和風の南殿

琉球王国の中心だった首里城は、正殿に向って左側に、中国の使者を迎えるのに使われていた北殿があります。朱塗りで、丸い柱を用いて、中国風の造りになっています(中写真)。
一方、右側の南殿は、薩摩藩との行事に使われました。四角い柱で、白木造りの和風の造りになっています(右写真)。

このように琉球王国は、中国と日本とバランスをとりながら、2国との関係を保ち続けていました。

  • 琉球の人たちが殺害された事件の処理
  • 琉球藩を廃止して沖縄県とした

時代は江戸から明治に変わり、1871年、明治政府は清と日清修好条規を結びます。日本と清が初めて結んだこの条約は、お互いの領事裁判権を認め合うなど、対等の条約でした。

翌年、日本は琉球藩を設置し、琉球は日本に帰属するとしました。しかし、清はこれを認めませんでした。

1871年、台湾に漂着した琉球の人たち54人が、現地の人々に殺害される事件が起きました。それを解決するとして、1874年、日本は台湾に出兵します。
大久保利通らが北京に渡り、出兵は日本に属する人々を守るためだったと主張しました。そして清は事件の責任をとって、日本に賠償金を支払うことになりました。

これにより、琉球は日本に属するとみなした明治政府は、琉球藩を廃し沖縄県とすることを進めました。しかし、清は琉球の宗主権を主張し続けました。
これに対し、琉球の人たちは、清・日本の両国とこれまで通りの関係の維持を望みました。
1879年、明治政府は武力を背景に琉球藩を廃して沖縄県とする「琉球処分」を行います。琉球国王を東京に移し、沖縄に軍隊や警察を置き、日本の法律を適用していきます。

  • 沖縄に対して旧慣温存政策をとった日本政府
  • 宮古島の住人が人頭税廃止を求めた

しかしその一方で、明治政府は、“旧慣温存”という琉球王国の古い慣習や制度も認める政策をとりました。急激な改革によって琉球の旧支配層が反発することを防ぐためでした。
例えば、「カタカシラ」と呼ばれた男性の髪の結い方や、女性が手などに入れ墨をする風習もそのまま残っていました。

しかし、1893年に宮古島で、旧慣の一つに対する反対運動が起こります。
琉球時代からの税制度、人頭税(じんとうぜい)に苦しめられていた宮古島の住民が沖縄県知事に人頭税の廃止を訴えました。

一方、1894年に起きた日清戦争で日本が勝利したことにより、清の宗主権は否定されました。これによって、明治政府は清国寄りだった琉球の旧支配層の動向を気にする必要がなくなりました。

こうして旧慣温存の政策は改められ、沖縄の人々は完全に明治政府に統治されるようになっていきます。

  • 近代化の課程で国境画定が重要だった

込山 「沖縄にそんな歴史があったなんて、私、知りませんでした。」

土保 「1879年に沖縄県になったということは、今から100年以上前のことだったんですね。」

高橋館長 「そうなんですね。日本が近代化を進める中で、国境を決めるということは、大変重要なことだったんです。」

向井地 「でも館長、なぜ国境を決めていく必要があったんですか?」

高橋館長 「じゃあ、それは特別講師に聞いてみましょうか。」

日本の歴史 いとをかし
  • お茶の水女子大学大学院 教授の小風 秀雅 先生
  • 沖縄は日清両属の地だったと言える

今回も小風 秀雅 先生(お茶の水女子大学 名誉教授)に話をうかがいます。
当時の日本にとって、国境を決めることは、なぜ重要だったのでしょうか。

この当時は、近代国際法という新しいルールが、世界中に広まっていった時期でした。それまでは、土地と人がどこに属しているかということは、かなりあいまいだったといいます。しかし近代国際法というルールにおいては、必ずどこかの国に属するという形で決まっていくことになりました。

小風先生 「それまでは(国境は)かなりあいまいだったんですね。日本から見れば、北海道(蝦夷地)も、沖縄(琉球)も日本と非常に深い歴史的関係を持っている地域でした。ところが、北海道や沖縄もそれぞれ、やはりロシアや中国という国とも非常に深い関係を持っているわけですね。そうすると、日本と深い関係にあるからといって、そのまま近代国家としての日本に属するという風には簡単にはいきませんでした。それが北海道の場合ですと、樺太という島は日露雑居の地でした。つまり、どちらの国でもない。」

高橋館長 「日本でもない。」

小風先生 「ロシアでもない。逆に日本でもあるし、ロシアでもあるというように、非常にあいまいなわけですね。琉球は華夷秩序の元に、清との間に関係を持っていましたけれども、薩摩藩の支配下に置かれていた。そういう意味では、日清両属の地域であるということですね。この両属というのも、非常にあいまいな形だったんですね。この雑居とか両属とかいう関係が、近代世界の中においては、存続できなくなってきます。」

高橋館長 「要するに、国の境を決めなさいと。」

小風先生 「そういうことですね。」

高橋館長 「例えば北海道に住んでいる人、あるいは沖縄に住んでいる人たちの意見は、その当時は聞くことではないんですか?」

  • 権利がない代わりに義務もない
  • 次回もお楽しみに〜

小風先生 「それがなかなか難しいところなんです。両地域は、基本的には日本という国の中に含まれていくことになります。(左図中の)本土と言うのは日本です。九州から青森までの地域を指しています。国民の義務の一つである徴兵令は、本土では1873年。そして国民の権利の代表的なものとしての参政権は、本土では1890年から。ところが北海道や沖縄では、それらがかなり遅れて実施されるわけですね。」

高橋館長 「相当遅れているということですね。それまでは、治められてはいるけども、参政権もなければ、徴兵制もなければ……。」

小風先生 「権利もなければ義務もないという地域でした。権利も与えられ、義務も課せられる。そのことによって、国民になるわけですが、それにはかなりの時間が必要だったということですね。」

高橋館長 「こういう歴史があったということですね。先生、ありがとうございました。」


それでは、次回もお楽しみに!!

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