NHK高校講座

日本史

Eテレ 毎週 金曜日 午後3:00〜3:30
※この番組は、昨年度の再放送です。

日本史

今回の学習

第30回

日清戦争

  • 講師:桐蔭学園高等学校教諭 駒田 和幸
学習ポイント学習ポイント

日清戦争

日清戦争
  • 記念碑
  • 砲弾
  • 兵士の名前

今日のテーマは、「日清戦争」です。
日清戦争は、今から120年近く前、1894年に始まった戦争です。相手国の清は、江戸時代の「海外交流の実態」を学習したときに出てきました。日清戦争の時も清王朝が中国を支配していました。

日清戦争は明治になってから日本が初めて経験した本格的な外国との戦争です。
左の写真は、名古屋市千種区に残る戦死者の「記念碑」です。
高さは22メートルで、最上部は大砲の砲弾をかたどっています。
ここには、日清戦争の時に戦死した兵士726人の名前が刻まれています。

  • 道具のレリーフ
  • ピストル

その下には、当時の兵士が戦場で身につけていた道具のレリーフが彫られています。背嚢というリュックのような物に靴をつけています。ピストルもあります。
名古屋の部隊は日清戦争でたくさんの戦死者を出しました。この記念碑は、1903年、その功績を讃えるためとして、武器などを鋳直して作られました。

  • 旧真田山陸軍墓地
  • 日付や場所
  • 軍夫の墓

次の左の写真は、大阪市天王寺区にある旧真田山陸軍墓地です。明治時代の初めの西南戦争から太平洋戦争までの戦いで戦死した陸軍の兵士などの墓地で、5000基以上の墓石が残っていて、日清戦争の戦死者のものが多く残っています。
墓石の側面には、亡くなった日付や場所が記されています。

  • 軍人以外の墓

この墓地には、軍夫の墓も残っています。軍夫とは、兵隊とともに戦場へ行って荷物の運搬などをした人たちのことです。
墓石を見ると石工などの職人や病人の看護をする人など、軍人以外の人々も戦場で亡くなったことが分かります。

今日のポイント
  • まとめ

それでは、今日のポイントです。
(1)日清戦争の原因
日清戦争はなぜ起こされたのか。また、戦争の目的についても考えていきます。
(2)戦争の経過と結果
戦争の結果とともに、当時の人々が戦争をどのようにとらえていたのか、当時の戦場の写真や絵などから、戦争の様子も見ていきます。
(3)戦後経営
戦争の結果として、その後の日本はどのような進路をとったのかを追います。

まずは、ポイント(1)「日清戦争の原因」です。日清戦争が始まるまでの流れを見てみましょう。

開戦の経緯
  • 日朝修好条規
  • 日本と清
  • 金玉均

1860年代半ば以降、フランスやアメリカは、朝鮮半島を支配していた朝鮮王朝に開国を迫っていました。日本も、朝鮮に対して条約締結と開国を迫り、1876年に日朝修好条規を結んで朝鮮を開国させました。
しかしその一方で、清国も朝鮮への介入を強めていきました。

  • 甲申事変
  • 天津条約
  • 甲午農民戦争

朝鮮国内では清国を支持する勢力と日本を支持する勢力が対立しました。
1884年、日本の協力を得て国内を改革しようとする金玉均(キム・オッキュン)らのグループがクーデターを起こします。「甲申事変」です。これに対し清国は朝鮮に軍隊を送り、鎮圧しました。
翌1885年、日本は清との関係を修復するため伊藤博文を清に送り「天津条約」を結びました。この条約で、今後、朝鮮に重大な事件が起きて出兵する場合には互いに連絡しあうことを決めました。

1894年春、朝鮮南部で大規模な農民の反乱が起こりました。「甲午農民戦争」です。役人による不当な課税などに対して民衆が怒り、そのころ朝鮮で広まっていた新興宗教「東学」の指導者を中心に武力蜂起したのです。

  • 東学
  • 軍隊
  • 捕えられた東学の指導者

朝鮮政府はこの鎮圧のため、清国に出兵を要請。清国からは2000人余りの軍隊が派兵されました。
これに対して日本は、朝鮮にいる日本人を保護するためとして、朝鮮への出兵を決定、およそ4000人を送りました。
ところが、日清両国軍の介入に危機感をもった朝鮮政府と農民軍は和約を結び、反乱はいったん収まります。そこで、日本政府は清国に共同で朝鮮の内政改革を行なうことを提案しましたが、清国はこれを拒否しました。

  • 朝鮮王宮
  • 大院君

日本政府は独力で朝鮮の内政改革にあたるとして、そのまま兵を置くことを決めました。そして、朝鮮王宮を占領。清国寄りの政権を倒し、国王の父で日本を支持していた大院君(テウォングン)を政権の座につけました。
そして、清国軍を追放をしてほしいと、朝鮮王朝から日本に依頼させたのです。
その2日後の1894年7月25日、プンド(豊島)沖で遂に日清両軍の艦隊が戦いに突入、日清戦争が始まったのです。

19世紀末の東アジア情勢と戦争の原因・目的
  • 日清戦争前のアジア
  • ロシアの極東進出
  • 条約改正の達成

なぜ日本は清と対立してまで朝鮮半島にこだわったのでしょうか。
それを考えるためにこのころの東アジアの状況を整理してみましょう。

中国は清王朝が支配していました。
19世紀末、世界の強国としてイギリスと対立するロシアが東アジアにも勢力を伸ばしていました。
こうした対立に拍車をかけたのが、1891年に始まった、ロシアによるシベリア鉄道建設です。この鉄道の終点はウラジオストクです。
当時日本政府の要職にいた山県有朋は、シベリア鉄道が完成すれば、ロシアの朝鮮進出が容易になると危機感を募らせました。そして、日本の安全を守るためには国境を守るだけでなく、その外側(周囲)、つまり朝鮮の安全を確保する必要があると考えました。
一方、甲申事変後、朝鮮への影響力を強めるには清国を討たなければという主張もメディアに出てきました。こういう状況で1894年に起きた「甲午農民戦争」が引き金となって日清戦争が始まったのです。

日本が戦争に進んだ背景は2つあります。
一つは、国内の事情です。開戦前の1894年には政府は衆議院の政党勢力と対立して追い詰められ、衆議院を2回も解散するほどでした。国内的には、もう一つ、清国と戦える軍事力がこの時期になって整備されたということがあります。
また対外的には、イギリスとの関係です。1894年7月16日、開戦の直前に、イギリスと日英通商航海条約が結ばれました。
これによって、清と戦争になっても最強の国イギリスが戦争に介入するおそれがなくなりました。

  • 宣戦の勅諭

8月1日に出された、「宣戦の勅諭」にこの戦争の目的が書かれています。
「朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ。
〜陰ニ陽ニ其ノ内政に干渉シ・・・」
「日本が朝鮮を国際社会に引き入れた。しかし清が独立国であるはずの朝鮮に干渉しているのでそれを排する」−これが最終的な戦争の名目でした。つまり、「朝鮮の独立」のために、清国の勢力を朝鮮から追い出したかったのです。ここで日本は「朝鮮の独立」と言っていますが、ここでの「独立」とはあくまで清朝への従属関係を断ち切るという意味です。

では、ポイント(2)「戦争の経過と結果」です。日清戦争がどのように進んでいったのか見ていきましょう。

日清戦争の経過
  • 黄海海戦
  • 日清戦争
  • 勝利を祝う様子

1894年9月、日本の陸軍は朝鮮北部の都市、ピョンヤンを占領。海軍は黄海海戦に勝利、11月には陸軍が、清国の重要な軍事拠点・旅順を占領。遼東半島を制圧しました。
翌95年には中国・山東半島の威海衛を攻撃し、清の北洋艦隊を降伏させます。
日本が優勢な中で、清は講和を打診してきました。

  • 下関市
  • 清国の使節
  • 日清講和記念館

1895年3月、総勢100人を超える清国の使節が講和会議のため山口県の下関にやってきました。ここには講和会議の様子を伝える記念館があります。
この記念館には、講和会議に関する資料が展示されている他、会議が行なわれた部屋が当時の調度品そのままに再現されています。

  • 両国の全権
  • 賠償金
  • 日清講和条約

清国側の全権は李鴻章。日本側の全権は伊藤博文首相と陸奥宗光外相です。
交渉で日本は、
・日本の国家予算の4倍以上にあたる「3億両の賠償金」。
・「遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に譲ること」。
・加えて「清の重要な港を開港する」ことを要求しました。
4月、賠償金以外はほぼ日本の要求通りで合意に達し、日清講和条約、いわゆる下関条約が結ばれました。

日清戦争の二つのとらえ方
  • 日本軍の動き

ここで、日清戦争とはどんな戦争だったのかもう一度考えてみようと思います。
2つの考え方があります。
一つは、「狭い意味」の日清戦争です。戦いが始まった1894年7月から講和条約が締結された95年の4月まで。
戦場となったのは、朝鮮から清国の東北部、戦争の末期には日本軍は台湾近くの澎湖島を攻撃しました。このわずか10か月程度の戦争を指します。

もう一つは、「より広い意味」でとらえる見方です。これは、朝鮮王宮の占領や東学鎮圧戦争まで含めるものです。
東学は「甲午農民戦争」を起した宗教団体でした。農民軍はいったん撤退したのですが、日清戦争中に再び蜂起しました。日本軍は朝鮮政府軍とともにその鎮圧に繰り出したのです。
そして台湾征服の戦争です。下関条約で日本は清から台湾を獲得しました。
しかし台湾では、日本の領土になることに反発して抵抗運動が起こりました。日本は軍隊を派遣してこれを鎮圧して、台湾を征服したのです。
そこまでを日清戦争ととらえる考え方もあります。

日清戦争と日本国民
  • 日清戦闘画報
  • 日清戦闘画報
  • 日清戦闘画報

日清戦争が始まると、新聞、雑誌、演劇、錦絵、兵士たちの手紙などさまざまなメディアが戦争を伝えました。
例えばこれは「日清戦闘画報」といって、戦争の経過を絵入りで伝えたものです。このように、一つ一つの戦闘を絵で描き、詳しい解説をつけています。
新聞社は競って従軍記者や従軍画家を送りました。

さて、この日清戦争に政府はおよそ24万人の兵力を投入しました。そのうち、海外の戦地に行ったのが17万人余りでした。戦死者は台湾征服の戦争まで含めるとおよそ1万3000人で、そのうち台湾でコレラやマラリアなどにかかって病死した人が1万人もいました。戦争は実は病気との闘いとも言えたわけです。

  • 旅順郊外
  • ビゴーによる絵
  • ビゴーによる絵

それでは当時の写真や絵から、戦場の実態を見てみましょう。
これは、亀井茲明(これあき)という従軍カメラマンが旅順郊外でとらえた、毛布を持って避難する女性と子供たちです。戦争相手国の一般の民間人たちにもたらす悲しみを写した貴重な写真です。

もう一つ、触れておきたいことがあります。次の絵を見てください。
これは、風刺画で有名なビゴーが戦場を描いた絵です。
笠をかぶったり草履をはいた人がけが人を運んでいるところですが、この戦場に似つかわしくない格好の人たちが、軍夫といわれる人々です。
軍夫は民間の業者が集めて、十数万人が戦場に出かけたといわれますが、7000から8000人が死亡しました。日清戦争は「兵士と軍夫の戦争」と言われるほどです。

「文明の戦争」という見方
  • 日清戦争の義

さて、兵士たちはどんな考え方や思いで戦地に行ったのでしょうか?
その時にキーワードとなるのが「文明」という考え方でした。
日本は文明という立場に立って清と戦うのだという考え方です。

その例として、当時、キリスト教徒として有名だった内村鑑三という人が、このような、戦争を正当化する論文を『国民之友』という雑誌に発表しました。この人は後の日露戦争の開戦前には非戦論、戦争反対を主張した人です。
元は「Justification of the Corean War」というタイトルの英文で書かれたものです。当時の戦場が主に朝鮮半島だったので、こういうタイトルがつけられました。英文で書くことによって、欧米世界に日本の戦争の正当性を訴えたのです。

その中で「日本は東洋に於ける進歩主義の戦士なり」として、進歩の敵である中国以外の世界中すべてが日本の勝利を望むだろうと言っています。
日本は欧米流の文明を取り入れ、近代化を図っているという自負があったのです。

さらに「日本の勝利は東洋六億人の自由政治 自由宗教 自由教育 自由商業を意味」するという記述が見られます。
この論文からは、進んだ日本がアジアの盟主、すなわちアジア地域の中心となることを構想していたように読み取れます。
この戦争は日本にとって「文明に基づく、文明のための戦争」なのだという考え方は、内村鑑三だけでなく、当時、福沢諭吉が主宰する新聞「時事新報」など、さまざまなメディアで盛んに主張されました。そしてそれが国民、兵士たちにも受け入れられていったのです。

戦後経営
  • 日清講和条約

ではポイント(3)「戦後経営」です。この「戦後経営」とは、日清戦争後の軍備拡張を中心とした日本の政策を指す言葉です。

日清戦争後、下関条約が結ばれ、日本はこのように、ほぼ要求通りに2億両=3億円という多額の賠償金と、遼東半島、台湾、澎湖諸島などの領土を得ました。また清は、朝鮮が独立国であることを認めました。
しかし、数日後、ロシア、ドイツ、フランスが「遼東半島が日本のものになることは、朝鮮の独立を有名無実、つまり名前だけで実態のないものにする」として、日本に放棄を求めました。いわゆる「三国干渉」です。
結局、日本は三国に対抗する武力がなかったため、これを受け入れました。そして遼東半島をおよそ4500万円で清国に返還しました。
この三国干渉の後、日本は「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」をスローガンに、軍備の拡張を進めました。これは、敵に復讐するまで、薪の上に寝て身を苦しめ、にがい肝をなめて敵討ちの志を忘れないようにした、という中国の故事です。このスローガンが日清戦争後の「戦後経営」に大きく影響します。
具体的には、兵器などを作るのに欠かせない鉄の生産を増やそうとしました。それについて見てみましょう。

官営八幡製鉄所
  • 官営八幡製鉄所
  • 兵器工場
  • 造船

20世紀初めに撮影された、福岡県の八幡製鉄所の映像です。
日本最初の本格的な製鉄所である八幡製鉄所の建設が始まったのは、日清戦争が終わって3年後の1897年のことでした。
それまで日本は、鉄の大部分をイギリスなどからの輸入に頼っていました。
日清戦争後の日本は、軍備拡張のための兵器作り、軍艦の建造、鉄道の建設、そして工業機械の製造などのために多くの鉄を必要としました。

  • 鉄道の建設
  • 操糸
  • 八幡製鉄所

そこで政府は、日清戦争の賠償金を投じて、福岡県八幡村、現在の北九州市に官営の製鉄所を建設したのです。
ドイツの技術を取り入れた製鉄所は1901年に操業を始め、15年ほどで鉄の国内生産の80%を占めるまでになりました。
これ以降、八幡製鉄所は、日本の重工業の中心となっていきました。

金本位制の採用
  • 金本位制で使われた紙幣
  • 金本位制
  • ビゴーの絵

「戦後経営」の大きなポイントとして、日本は賠償金を元に金本位制を採用しました。
これは金をお金のおおもとと考える制度です。「金本位」といっても、もちろん普段は紙幣や硬貨をお金として使うのですが、それがお金として安心して使えるのは、いつでも金と交換できるからだ、と考えるのです。

写真左が金本位制で使われた紙幣ですが、これには、「この紙幣で金貨拾円と交換できる」と書いてあります。
19世紀にイギリスがこの制度を定め、その後ヨーロッパの他の国々も金本位制を採っていました。しかしそれまでの日本は違いました。
ところが日清戦争で日本は清から、当時の国家予算のおよそ3年分にもあたる賠償金をイギリスのお金・ポンドでもらいました。ポンドを持っているということは、当時は金を持っていることと同じでした。
そこで日本はその賠償金を使ってヨーロッパの国々と同様に「金本位制」を採ることができました。
そうすることで、日本の円が、ヨーロッパの国々で信用のあるお金と見なされます。
また金本位制という同じ制度を採っているので、貿易などでの取引もスムーズになります。日本が金本位制を採用したということは、欧米と経済的に対等になる一歩だったわけです。

その様子を示したビゴーの絵があります。
「1897年の日本」という絵です。欧米列強の国々が集まっている中に日本が入っていく様子です。列強の国々は、驚いたり、冷ややかな目で見ているのが当時の日本に対する見方を表しています。
       
今日は、日清戦争がどのような戦争であったかを学習しました。そこでは「文明」というのが重要なキーワードになっていました。その文明という考え方がいかに近代の日本をとらえていたのか、そのことを知る上で、当時の言論界をリードした福沢諭吉の『文明論之概略』を読むことをおすすめします。

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