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※この番組は、前年度の再放送です。

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今回の学習

第29回 第4章 近代国家の形成と国民文化の発展

不平等条約の改正

  • 日本史監修:お茶の水女子大学名誉教授 小風 秀雅
学習ポイント学習ポイント

一.条約改正の努力 二.憲法発布と条約改正 三.条約改正の成功

今回の時代と三つの要
  • 明治時代の衣装で登場したAKB48の3人

今回も、引き続き明治時代について学んでいきます。
AKB48の3人は、今回の「三つの要」をそれぞれ表すような、明治時代の服装で登場です。

向井地さんは鹿鳴館の舞踏会で踊っていた女性、土保さんは日本の立憲政治を立ち上げた初代内閣総理大臣 伊藤博文の衣装です。そして込山さんは、法廷で働いていた明治時代の法律家の服装です。
これらの服装には、どのような意味があるのでしょうか。

  • 今回も19世紀終わり頃の明治時代
  • 欧米列強との関係は不平等条約に縛られていた

今回の時代は明治時代、19世紀の終わり頃です。

近代化が進み、人々の暮らしも様変わりしましたが、欧米列強との関係は幕末に結んだ不平等条約に縛られたままでした。
日本は なぜ対等な国家として認められなかったのでしょうか。明治政府は、条約改正へ向けて、長い道のりを歩みだします。

今回押さえるべき三つの要は、

一.条約改正の努力
二.憲法発布と条約改正
三.条約改正の成功

です。

日本政府はどのようにして、条約改正にこぎつけたのでしょうか。

日本政府が改正を目指した不平等条約とは、幕末に結ばれた「安政の五か国条約」のことです。不平等だった点は、以下の3つです。


・領事裁判権の規定
日本で罪を犯した外国人を、日本人が日本の法律で裁くことができなかった。

・関税自主権の欠如
日本は輸入品の税率を自主的に決めることができなかった。

・一方的な最恵国待遇
ある国と結んだ条約が他の国より有利な条件になった場合、他の国にも同じ条件を与えなくてはならず、しかも日本が相手国にこの待遇を与えるだけだった。

中でも一番問題になっていたのは、領事裁判権を与えてしまったことでした。
これらの条約改正のために、西洋風のドレスを着て、頑張っていた女性たちがいたといいます。

要 其の一 「条約改正の努力」
  • 西洋文明や制度の調査に向かった
  • 条約改正の会議を開こうとした

1871年11月12日、岩倉具視・木戸孝允・大久保利通ら、明治政府の最高実力者を中心とした岩倉使節団が、欧米へ向けて出発しました。
その目的は、新しく近代国家としての日本を作るにあたり、西洋の文明や制度を調査することです。そして、不平等条約改正の交渉を行うことも目的の一つでした。

一行は、アメリカやイギリスなどに条約改正の意志を伝えますが、期待していた成果は上げられませんでした。
その後 使節団は12か国を2年近くかけて訪問し、欧米諸国の圧倒的な国力と、日本が到底及ばないほどの近代的な法制度を知ることとなります。そして、不平等条約改正には、日本の近代化を推進することが不可欠だと痛感しました。

1879年から外務卿を務めた井上馨(かおる)は、条約締結国を東京に招いて、条約改正のための会議を開こうとしました。

  • 日本の近代化をアピールするための欧化政策
  • 頻繁に西洋式の舞踏会が行われた鹿鳴館

それに先立って日本の近代化をアピールしようと、盛んに欧米の制度や、風俗・習慣・生活様式などを取り入れる欧化政策を行います。
その象徴ともいえるのが、洋風建築の鹿鳴館でした。ここに各国の高官を招き、頻繁に西洋式の舞踏会を行いました。こうして日本の欧米化を示すことで、条約改正に有利になるのではないかと考えたためです。

  • 東京で条約締結国が集い改正会議
  • 領事裁判権を認めているのと変わらない

そして1886年、東京で条約改正の会議が開かれました。

日本側は、領事裁判権の撤廃と、関税自主権の一部回復を求めます。
しかし、イギリスが最後までこれに反対し、日本側は妥協案を受け入れざるを得なくなります。領事裁判権を撤廃する代わりに、外国人の裁判には、外国人判事を半数以上任用するというものです。これでは、領事裁判権を認めているのとあまり変わりがありませんでした。

  • 国民感情を逆なでする事件

そんな中、国民の感情を逆なでする事件が起きます。
紀伊半島沖で、イギリスの貨物船ノルマントン号が沈没します。イギリス人船長以下、乗組員はボートで避難しましたが、一緒に乗船していた日本人は救助しませんでした。
イギリス人の船長は、神戸にあるイギリスの領事館での裁判にかけられました。しかし責任を問われることはありませんでした。

この判決に人々は激怒し、領事裁判権への反発は一層激しくなりました。
こうした中、外国人判事を受け入れる改正案が明らかになると、民権派のみならず政府内部からも激しい反発を受けます。
こうして1887年、妥協した内容に反発を受けた条約改正会議は無期延期となり、井上馨は辞任しました。

  • イギリスが条約改正に反対した理由

向井地 「私たち女性も、ダンスを楽しんでいたわけではなくて、条約改正のために努力していたんですよ。でも、改正できなくて、残念でした。」

込山 「館長、どうしてイギリスは、最後まで反対したんですか?」

高橋館長 「イギリスが反対していたのは領事裁判権の撤廃でしたが、その理由は、当時の日本は法制度が整っておらず、司法制度の整備も遅れているから、ということだったんですよ。」

要 其の二 「憲法発布と条約改正」
  • 大隈は個別交渉に方針転換
  • 改正条約には日本の妥協があった

井上馨の交渉が成功しなかった理由の一つは、条約締結国すべてを一堂に集めて会議を行ったことでした。一つの国が反対すると、交渉が進まなくなってしまうためです。
次に条約改正を担った外相 大隈重信は、欧米列強との個別交渉に方針を切り替えました。これが功を奏して、交渉は日本側に有利に進みます。
さらに、伊藤博文らが中心となって作成を進めていた大日本帝国憲法の完成が、これを後押しします。


1889年2月11日、大日本帝国憲法が発布され、日本にも近代的な憲法が導入されます。欧米列国はもはや、法制度が整っていないからという理由で、領事裁判権の撤廃を拒むことはできなくなりました。
そして大日本帝国憲法発布からわずか9日後、アメリカが改正条約に調印すると、続いてドイツとロシアも調印します。

しかし、この改正条約にも妥協がありました。最高裁判所にあたる大審院に限り、外国人判事の任用を認めていたのです。
そのことが報じられると、国内では再び反対運動が盛り上がります。
そして1889年10月、大隈重信は反対派に爆弾を投じられて重傷を負いました。
こうして、またもや交渉は延期されてしまいます。

  • 領事裁判権があるのと同じ状態

土保 「あとちょっとだったのに!惜しかったと思いませんか?」

高橋館長 「いやいや。よく考えてみてください。このときの改正条約は、『大審院に限り外国人判事を受け入れる』という、日本側が譲歩した条約だったんですよ。」

土保 「それだと、結局は領事裁判権があるのと、同じような状態ですね。」

高橋館長 「そうなんです。この頃、大日本帝国憲法が発布され、議会ができました。それ以降政府は、議会、つまり国民の声を無視した条約改正交渉はできなくなってしまった。そして妥協しない、完全に対等な条約改正を求めるようになっていったんです。」

そんな日本に、チャンスが訪れます。

要 其の三 「条約改正の成功」
  • ロシアを食い止めるためイギリスが日本に歩み寄る
  • イギリスと交渉した外務大臣 青木周蔵

この頃、欧米列国の間では、情勢に変化が起きていました。
当時、イギリスとロシアが、アフガニスタンを中心に、アジアの各地で激しい利権争いを繰り広げていたのです。
その上ロシアはシベリア鉄道を敷設するなど、東アジアへの進出を強めてきました。
イギリスは、それを食い止めるため、日本に注目します。近代国家として国力を増していた日本を味方につけた方が良いと考えたのです。

こうして条約改正への最大の反対勢力だったイギリスが、日本に対し歩み寄りを見せ始めました。
大隈重信の後を引き継いだ青木周蔵は、これを機にイギリスが条約改正に同意すれば他の国も一気に改正に応じるのではないかと考え、イギリスとの交渉に入ります。
そして1890年7月、イギリス政府は、領事裁判権の撤廃を盛り込んだ日本の改正案に同意を示しました。

  • 責任を取って青木は辞任
  • 後任の陸奥が粘り強く交渉

ついに条約改正の道が開けるかと思われたその矢先、またもや事件が起こります。
1891年5月、日本に滞在中のロシア皇太子が、警護中の巡査に襲われ怪我を負います。
事件の責任を取って青木は辞任し、交渉はまたもや延期になってしまいました。

こうした中、青木の後を継いだ陸奥宗光(むつむねみつ)は、イギリスと粘り強く交渉を続けました。

  • 領事裁判権の撤廃に成功
  • 完全に対等になるまでに、さらに17年

そして1894年7月16日、ロンドンで新たな条約、日英通商航海条約が調印されました。この条約により、日本は外国人の犯罪を自らの手で裁くことができるようになりました。
イギリスが条約改正に応じると、他の国もそれに続きました。
岩倉使節団が交渉を始めてから22年、日本はようやく領事裁判権を撤廃することに成功したのです。

しかし実は、日本が欧米列強と完全に対等な立場になったのは、それから さらに17年後でした。1911年2月に、日米新条約が調印され、関税自主権を回復します。ここに至るまで、40年近くもの年月を費やしたことになります。


高橋館長 「長く難しい交渉でしたが、それを成功に導いたのは、日本が立憲制を導入できたこと。完全に対等な条約を求める国民の意志が強かったこと。この二つが大きかったと言えるでしょうね。」

日本の歴史 いとをかし
  • 小風 秀雅 先生(お茶の水女子大学大学院 教授)

今回も小風 秀雅 先生(お茶の水女子大学 名誉教授)に話をうかがいます。

欧米の国々が40年近くも不平等条約の改正に応じなかったのは、日本に立憲制が確立していなかったことだけが理由なのでしょうか。
小風先生はこのことについて、不平等条約そのものの特質からきていると、考えているといいます。特に「一方的な最恵国待遇」が曲者だったといいます。

小風先生 「どこか一つの国が、新しい条約を結んで新しい権利を獲得すると、それは自動的に他の国にも行き渡ってしまう。ある意味では便利なシステムなわけですね。ということは、一つの国が反対すると条約改正は不可能であると言っていいと思います。それが具体的にはイギリスだったんですね。」

  • イギリスは東アジアに大きな権益があった

イギリスが条約改正に反対したのは、イギリスが東アジアに一番大きな権益を持っていたためだといいます。

小風先生 「つまり日本に条約改正をしてしまうと、他の不平等条約を結んでいる国にも、対等条約を認めなきゃいけない。」

高橋館長 「ということは日本がアジアの諸国よりも少し進んだ状態になっていなければ、なかなかうまく行かないっていうことですよね。」

小風先生 「進んでいるというよりは、近代国家になっていなければいけない。つまり、相手を絶対に納得させるために、向こうが反対できない憲法を作らないといけなかったわけですね。この話はそういう形でつながっていきます。」

  • 列強内で抜け駆けを許さないシステム
  • 次回もお楽しみに〜

さらに、最恵国待遇には、別な一面があったといいます。

小風先生 「これは横並びのシステムでしたね。ということは、どこかの国が、それを踏み越えてアジアのどこかを植民地化しようとすることを、他の国がけん制できるわけですね。」

高橋館長 「抜け駆けは許さないんだ。」

小風先生 「そういった けん制のシステムでもあるわけです。協調しながらけん制しあっている。ということは、欧米側から この不平等条約の体制を壊すのは非常に難しいわけです。そこに風穴を開けていかなければいけなかったのが日本でした。必然的に時間がかかるわけですね。がちがちのシステムなので、壊れないわけですよね。」

高橋館長 「それは何十年もかかりますね。先生どうもありがとうございました。」


それでは、次回もお楽しみに!!

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