NHK高校講座

日本史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:00〜2:20
※この番組は、昨年度の再放送です。

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今回の学習

第27回 第4章 近代国家の形成と国民文化の発展

自由民権運動

  • 日本史監修:創価大学教授 季武 嘉也
学習ポイント学習ポイント

一.自由民権運動の始まりと広がり 二.国会開設の勅諭 三.運動の激化と衰退

今回の時代と三つの要
  • 国会開設を求める声が高まりを見せる
  • 今回は19世紀後半

明治維新によって国民は「地租改正」や「徴兵制」など、様々な負担を課せられました。
しかし、国民が政治に参加する権利はありませんでした。そのため国会開設を求める声、すなわち自由民権運動が全国で高まりを見せるようになります。

今回見ていく時代は明治時代、主に19世紀後半です。
今回押さえるべき三つの要は、

一.自由民権運動の始まりと広がり
二.国会開設の勅諭
三.運動の激化と衰退

です。

日本の国会開設は、どのように進められたのでしょうか?


高橋館長 「今日は明治時代。日本の国会が生まれたのが明治です。国会はもちろんみんな知ってますよね。」

向井地 「政治家が国の政策について話し合いをする所ですよね。」

土保 「その政治家は国民が選挙で投票して、選んだ人たちです。」

込山 「総選挙なら私たちもやってます!」

国会は国民の声を反映して、国のあり方を話し合う場所です。明治政府発足の時に発表した基本方針である五箇条の誓文には、「一、広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スベシ」とあります。

高橋館長 「この基本方針には、広く会議を開設して、何においても公の議論によって決めると書いてあります。会議の開設、つまり国会のことですね。ところが、国会の開設には長い時間がかかりました。そこで起こったのが、自由民権運動です。」

要 其の一 「自由民権運動の始まりと広がり」
  • 政府を去った西郷と板垣
  • 板垣は民撰議院設立の建白書を提出

1873年(明治6年)、政府内で朝鮮に対する政策をめぐり対立が起きます。この政策の最終決定は、話し合いによる合議ではなく、大久保利通らの工作によって決着しました。この決着に反発して政府を去ったのが、西郷隆盛と、土佐藩出身の板垣退助です。
板垣は政府を批判して、1874年、民撰議院設立の建白書を政府に提出します。政府の実権が薩摩・長州など一部の藩出身の官僚に握られていることを批判し、国民の声を反映する民撰議院、すなわち選挙による国会を開設するべきだと訴えました。
この建白書は新聞に掲載されて大きな反響を呼び、国会開設を求める動きが広まりました。これが自由民権運動の始まりです。

  • 学校を作り、自由と権利を説く
  • 西郷は特権を奪われた士族とともに政府と戦った

1874年、板垣は故郷の高知市で政治結社「立志社」を設立します。板垣は、学校を作ることで、「自由」と「権利」という考え方を民衆に教えます。
民権運動の担い手である民権派は増え続け、各地に政治的結社が結成されます。1875年には全国的な連合組織「愛国社」が創立されました。

一方、「明治6年の政変」で政府を去った西郷隆盛は、武力による反乱を起こします。それまでの特権を奪われた士族たちは、政府に対する不満を募らせていました。
しかしこの西南戦争で、西郷たちは敗れます。

武力では政府に勝てないと考えた士族たちの反政府運動は、言論による自由民権運動へと変わっていきます。

  • 当時全国で2000を超える結社数

板垣退助ら民権派が積極的に行ったのが演説会です。日本各地をまわり、自由や権利について分かり易い言葉で人々に語りかけました。こうした演説会を続けることで、自由民権の結社数は、全国で2000を超えるまでになりました。

  • 政府は新聞雑誌の発行を許可制にして弾圧
  • 演説会も許可制に

これに対し、政府は「新聞紙条例」によって弾圧政策を行います。「新聞や雑誌の発行は、政府の許可を得なければならない」とし、さらには政府によって新聞雑誌の停止、禁止ができるようになります。
左図は、フランスの画家ビゴーが描いた風刺画です。左は警官、右は新聞記者たちと、政府の弾圧の様子を描いています。
政府はさらに、「集会条例」を制定し、政治に関する演説会を許可制にします。集会には警察官が立ち会い、内容によっては中止や解散を命じることが出来るようにしました。条例によって板垣らの集会には認可が下りなくなります。

さらに板垣は、ある日の演説後、暴漢に襲われます。
板垣は重傷を負いながらも、「板垣死ストモ 自由ハ死セズ」と言ったと伝えられています。
この言葉は人々の間に「自由」という言葉を浸透させ、国会開設運動を加速させていきました。

  • 現代の演歌とは違う

オッペケペー、オッペケペー
オッペケぺッポー、ペッポッポー
権利や幸福きらいな人に
自由湯(じゆうとう)をば飲ましたい
政治の思想が欠乏だ
心に自由のタネをまけ
オッペケペー、オッペケペー
オッペケぺッポー、ペッポッポー


これは、「オッペケペー節」という自由民権運動の歌の歌詞です。

高橋館長 「演説が禁止されてからは、こうした歌で運動を広めたんだね。ちなみにこうした歌を演歌といいます。」

AKB48 「演歌?!こぶし!」

高橋館長 「いやいや、現代の演歌のことではないんです。明治時代、演説歌のことを演歌と呼んでいたんですね。」

運動が広がると、政府も黙って見ていられなくなり、国会開設に向けて動き出します。

要 其の二 「国会開設の勅諭」
  • 国会開設に関して対立
  • 開拓使官有物払い下げ事件

自由民権運動が盛り上がりをみせていた頃、政府内では国会開設をめぐって対立が生じていました。
長州出身の伊藤博文と、肥前出身の大隈重信です。伊藤は十分な時間をかけて国会を開設すべきだとしていましたが、大隈は国会の即時開設を主張し、、この対立は一つの政変へと発展していきます。

そのきっかけとなったのが、1881年に起きた「開拓使官有物払い下げ事件」です。
開拓使とは、明治政府が北海道の開拓をするために置いた役所です。当時の開拓長官・黒田清ヘによって事件は始まります。黒田は10年計画で進めてきた開拓事業が終わるにあたり、国が所有していた農場や工場などの官有物を驚くほど安い額で、自分と同じ薩摩藩出身の企業に払い下げようとしました。
およそ1500万円を投じた官有物を、38万円あまりで払い下げ、しかも30年間無利子で分割払いを許すというものでした。
この内容が新聞に載ると、民権派は反発し、すぐに国会を開くべきだと政府を激しく攻撃しました。

この事件を利用したのが伊藤博文です。払い下げの中止を決める一方で、国会の開設などで対立を深めていた大隈を、民権派と手を結んでいるとして政府から追放しました。これが「明治十四年の政変」です。その上で伊藤は次の手を打ちます。
「国会開設の勅諭」を出し、これによって10年後に国会を開くことを約束しました。時間を置くことで事態の収拾を図り、国会開設が、民権派の主導によって行われることを避けようとしました。

  • 国会開設に備え民権派の政党が現れる

国会が出来ると決まると、次に出てくる動きは政党作りです。
1881年、民権派は板垣退助を党首に「自由党」を設立し、来たるべき国会開設に備えます。1882年、政府を追われた大隈重信が作ったのが「立憲改進党」です。慌てた政府は政府寄りの政党「立憲帝政党」を結成しますが、僅か1年で解散し、流れは民権運動側が優位になっていきます。

政党も生まれ、盛り上がりを見せるかと思われた民権運動でしたが、むしろ運動は盛り下がっていきます。それはなぜだったのでしょうか?

要 其の三 「運動の激化と衰退」
  • 松方のデフレ政策により不況に
  • 多くの農民が没落し各地で反対運動

当時、国は深刻な財政難に陥っていました。西南戦争の戦費をまかなうため、多額の紙幣を発行したことにより紙幣の価値が落ち、物価が急激に上昇したためです。

これに対応したのが、現在の財務大臣にあたる大蔵卿の松方正義です。松方は増税や官営事業の払い下げによる歳入増加と、歳出の切り詰めを行います。そして全体で黒字になった分、出回っていた紙幣を回収するデフレ政策を取りました。

これによって物価は下がりましたが、社会は深刻な不況に陥ってしまいます。
特に米・生糸など、農産物の価格が下落したため、農村は大きな打撃を受けました。このため多くの農民が没落します。
そこで、地方の自由党員と農民による反対運動が各地で展開されました。

  • 当時ほどんどが養蚕農家だった旧吉田町
  • 農民らによる暴動

この運動の一つが「秩父事件」です。
埼玉県秩父地方の旧吉田町は耕地が少ない山間の町で、当時はほとんどが養蚕農家でした。そのため、生糸の値段が暴落すると、農民たちは高利貸しから借金をして、なんとか暮らしをつないでいました。
自由党員を指導者とする農民の組織「秩父困民党」は、1884年10月31日、この地に古くから建つ椋(むく)神社で決起しました。

困民党の要求は、
・借金を10年間据え置いて40回の分割で支払うことを認めてもらう
・学校にかかる費用を減らすため、3年間休校する
・国の税金を減らす
・村の経費を削る
という4つでした。

11月2日、秩父の中心地を見下ろす音楽寺に、三千人とも言われる農民が集まりました。
彼らは鐘の音を合図に町になだれ込みます。そして高利貸し数軒を打ち壊し、役場や警察署、裁判所を占拠して書類を焼き捨てるなどしました。
しかし、騒動は政府が派遣した軍隊や地元の自警団によって鎮圧されます。そして困民党本部もわずか1週間ほどで解体し、事件は終わりを告げました。

  • スポンサーは運動の激化に不安を抱き離れていった

上の写真は、困民党が裕福な商人や豪農などに軍用資金を出させた領収書の一つです。この後、彼ら民権運動のスポンサーは、運動の激化に不安を抱き、民権運動から離れていきます。
民権運動は過激になり、かえって支持を無くしてしまったのでした。


込山 「私も暴力はキライです。」

高橋館長 「そうですよね。それに暴力というのは権力の介入の格好の口実になってしまいますからね。」

向井地 「館長、民権運動が衰退して、国会開設は中止になってしまうんですか?」

高橋館長 「いやいや、この後いよいよ国会が開催します。そして国会以外にも足りなかった大事なものが満を持して作られるんですよ。それは次回のお楽しみです。」

日本の歴史 いとをかし
  • 創価大学 教授の季武 嘉也 先生
  • 当時の自由とは「好きなことをする」ということ

自由民権運動について、季武 嘉也(創価大学 教授)に話をうかがいます。
まず、季武先生からAKB48の3人に、明治時代における「自由」とはどのようなものかという質問が投げかけられました。
それぞれ「思うがままに生きる。」「好きなことをする。」「ルールに縛られない。」といった回答をする3人ですが、「好きなことをする」が正解でした。

季武先生 「例えば皆さんは、学校の先生や親から『ああしろ』『こうしろ』と強制されて、『そんなの嫌だ』というのが自由と思ってる人も多いのではないでしょうか。」

AKB48 「あー確かに。」

季武先生 「それに対して、当時の人々は江戸時代までの窮屈な身分制社会から解放されて、『さあ自由になったんだから何でもするぞ』というチャレンジ精神が旺盛ったんですね。」

高橋館長 「それまでずっと押さえつけられていたから、それがふわっと開いた瞬間の開放感ですね。」

季武先生 「では自由になったからといって、当時の人たちは一体何をしたと思いますか?」

向井地 「政治?」

季武先生 「そうです、政治です。江戸時代は、政治は武士たちが独占していました。」

高橋館長 「それが明治になって自由になったため、参加することが出来るようになった。」

  • 民衆のエネルギーと民権派の活動が結合
  • 次回もお楽しみに〜

季武先生 「当時の人たちは自由になって、一人で何かやるというのではなく、大体は仲間と一緒になっていろんなものに取り組んでいました。」

高橋館長 「グループ活動か。」

季武先生 「そのような色々な種類のサークルが沢山出て来たんです。勉強したい人のグループ、それから仕事をする人のグループ。あるいは遊びのためのグループ。そしてもちろん政治のためのグループもありました。板垣退助たちは、そういう全国各地のサークルを回って、演説会を開いたんです。こうして友達の輪を広げていったんですね。」

向井地 「でも全国を回るのって、新幹線や飛行機がないから、大変なんじゃないですか?」

季武先生 「そこで、重要な役割を果たしたのが、メディアなんです。メディアと言いますと、新聞が真っ先に思いつきますが、先ほどのオッペケペー節のような、歌や芝居、あるいは講談なんかも重要です。この他にも、懇親会というのがありました。これは、自由民権派の弁士たちが堅苦しい政治の演説会をするんですけど、それと同時にピクニックや運動会という、イベントのようなこともして人を集めていたんです。こうして、自由となったことから各地域で生まれたエネルギーと、そして板垣退助のような民権派の政治家の活動が結合して、自由民権運動は一大国民運動になったんです。」

高橋館長 「先生、ありがとうございました。」


それでは、次回もお楽しみに!!

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