NHK高校講座

日本史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:00〜2:20
※この番組は、昨年度の再放送です。

日本史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:00〜2:20
※この番組は、昨年度の再放送です。

今回の学習

第26回 第4章 近代国家の形成と国民文化の発展

明治維新

  • 日本史監修:お茶の水女子大学大学院教授 小風 秀雅
学習ポイント学習ポイント

一.中央集権国家の成立 二.身分制の廃止 三.明治維新の三大改革

今回の時代と三つの要
  • 今回は19世紀中頃の明治時代始めの時代
  • 江戸時代は地方分権だった

今回のテーマは明治維新です。
文明開化に沸く明治の日本は、進んだ西洋の技術や文化を取り入れ、社会は大く変化します。
大政奉還によって、およそ700年続いた武士の世が終わり、明治天皇を中心とした国家の中央集権化が推し進められました。

今日は19世紀中頃、明治時代始めの時代を学びます。

今回押さえるべき三つの要は、

一.中央集権国家の成立
二.身分制の廃止
三.明治維新の三大改革

です。


新政府は、王政復古の大号令によって天皇を頂点とした中央集権の国づくりを行います。
7世紀の大化の改新の際にも、天皇を中心とした中央集権国家の建設が行われました。しかし大化の改新以後は平安時代の終わりから武士が台頭し、江戸時代には将軍を中心とする幕藩体制になりました。

江戸時代の各藩は独自に税の徴収や政治を行っていたため、江戸時代は中央集権ではなく、いわば「地方分権」でした。
そこで明治政府はこれを改め、中央集権国家の建設を目指します。

明治政府は、なぜ中央集権の国家を目指したのでしょうか。

要 其の一 「中央集権国家の成立」
  • 太政官へ権力の集中
  • 残した「藩」が中央集権の妨げに

1868年3月、発足したばかりの明治政府は「五箇条の誓文」として基本方針を発表します。
天皇が神々に誓う形をとって発表することで、天皇が国の中心であることを示しました。そして、公の議論を尊重した政治を行い、国民が団結して国を繁栄させることを掲げます。
続く4月には政治体制を示した政体書を公布し、太政官を最高官庁として、立法・行政・司法の三権分立を原則としました。この様な太政官への権力の集中は、中央集権国家の樹立を目指したものです。

明治政府は旧幕府から没収した所領のうち、東京・京都・大坂などの大都市を府とし、その他を県と定めました。一方、藩はこれまで通り藩として残し、府、藩、県の三治制を行います。しかしこれは中央集権化の妨げになりました。

  • 領地と領民を、朝廷に返上させた
  • 知藩事への支配権再交付は、なされなかった

こうした状況を打開するために1869年1月、新政府は薩摩・長州・土佐・肥前4藩の藩主に「版籍奉還の建白書」を出させます。「すべての土地・人民は天皇のものであり、私有すべきではない」として、版と籍、つまり領地と領民を朝廷に返上させたのです。

4藩が版籍奉還に同意した理由は、「与えるべきものは之を与える」という一文にありました。

実は、徳川幕府では将軍が交代するたびに支配権を幕府に返上させ、改めて幕府から公布するという手続きが取られていました。そこで藩主たちは、今度は天皇を中心とする新政府が、幕府に代わって支配権を与えると思っていました。
有力藩にならい、およそ260の藩がなだれを打って版籍奉還を申し出ました。これによって藩主は「知藩事」という新政府から任命された地方行政官になります。

しかし、知藩事たちが当然与えられると信じていた支配権は再交付されませんでした。土地と人民は天皇の元に置かれたままとなり、新政府が実質的な支配権を持つことになります。
こうして、新政府は藩の力を弱めようとしました。
しかし、この段階では、税の徴収権や軍事力は各藩が保持したままでした。

  • 天皇が藩の廃止と知藩事の罷免を一方的に宣言
  • 新政府は全国を直接統治下に置いた

そこで新政府が次に行ったのが、すべての藩を廃止する、廃藩置県です。1871年7月、天皇が知藩事を東京に呼び、藩の廃止と知藩事の罷免を一方的に宣言しました。
残されていた藩は県になり、政府から新たに知事や県令が派遣されます。明治政府は全国を直接統治下に置き、軍事・租税の権限を一手に握ることとなりました。


このように、中央集権国家を作るためには、廃藩置県が必要でした。
また、版籍奉還や廃藩置県を行ったことで、武家社会にとって重要な関係も一新されました。それは、藩主と藩士の主従関係です。

要 其の二 「身分制の廃止」
  • 身分制度を廃止
  • 士族は身分上の特権を失った

藩主と藩士との主従関係が解消されたことをきっかけに、政府は江戸時代の身分制度を廃止します。
公家と、武士のうち大名を「華族」、一般武士を「士族」に、農民と町人らの庶民を「平民」に改めました。
天皇を中心とする中央集権国家建設のため、皇族以外はすべて平等であると定めます。平民も苗字を名乗り、華族や士族と結婚することが認められ、居住や職業の制限も廃止されました。
これによって士族は、身分上の特権を失いました。
政府はさらに、士族のリストラを進めます。

  • 秩禄は政府支出の30%を超え、大きな負担だった
  • 秩禄処分により、士族は経済的特権をも失う

政府はそれまで、廃藩によって職を失った士族に対しては家禄を支給し、王政復古の功労者には賞典禄という給与を与えていました。この2つを併せて秩禄(ちつろく)といいます。当時は秩禄が国の支出の30%以上を占め、大きな負担になっていました。政府は士族の秩禄を打ち切ることを計画します。

まず「秩禄奉還の法」を定めます。希望者に対し、秩禄の支給を止めるかわりに一時金を支給するというものです。さらに秩禄の受給者に最大で年間支給額14年分に相当する「金禄公債証書」を与えることで、秩禄の支給をすべて廃止しました。この秩禄処分により、士族は経済的な特権も失います。

金禄公債の利息だけでは生活出来なくなった士族の大部分は、公債を売り払い、商人になる者も現れます。しかし、慣れない商売に失敗して没落する者が続出しました。

要 其の三(1) 「明治維新の三大改革」
  • 刀も取り上げられた武士
  • 士族は兵役を担ってきた特権も失う

1876年3月「廃刀令」の公布によって、武士はその魂とも言える刀も取り上げられてしまいます。さらに、戦いのプロである武士から、政府はその仕事を奪う制度を作りました。

近代的な軍隊の創設を目指す政府は、国民すべてが国に奉仕すべきだとし、「徴兵令」を公布します。これによって、士族・平民の区別なく、満20才に達した男子は3年間の兵役に服することになります。
士族たちはこれに反発します。兵役を担ってきた自分たちの特権を奪うものとして非難したのです。また、江戸時代まで兵役の義務がなかった平民は、徴兵令に反対する暴動を各地で起こします。
しかし、政府は士族や平民の反発を力で抑え、徐々に国民皆兵を推し進めて行きます。

  • 当初は江戸時代の税制を踏襲していた
  • 近代的な租税で財政を安定させた

徴兵制によって軍備を整える一方、明治政府にとって財源の確保が急務の一つでした。
租税の徴収権は明治政府が押さえましたが、江戸時代以来の年貢制度がそのまま踏襲されていました。これでは税率が藩ごとに異なる上に、不安定な米の物納では安定した財源の確保が出来ません。

そこで政府は、まず土地の利用と売買を解禁します。そして課税対象を米の収穫高から土地の価格に変更し、物納を貨幣での納税に改めます。税率は3%とし、土地の所有者を納税者としました。
これによって各藩ごとに異なっていた年貢は、全国一律に貨幣で徴収される近代的な租税となり、財政を安定させました。

要 其の三(2) 「明治維新の三大改革」
  • 長野県松本市にある明治時代の小学校
  • 案内していただく学芸員の遠藤さん

強い国を作るために必要な改革として、軍隊と租税の2つについて見てきました。そして、3つ目の改革は教育です。

この教育の改革について、土保さんは長野県松本市を訪れ、調査をしてきました。
土保さんが訪ねたのは、明治時代に建てられた小学校です。明治時代の子どもは、どのような勉強をしていたのでしょうか。
1873年に開設された旧開智学校は、現在は学校の役目を終え、重要文化財として保存されています。

1872年、明治政府は新しい教育制度である「学制」を公布し、小学校から大学までの学校制度を定めました。6才以上のすべての男女が等しく就学する国民皆学を目指し、全国で2万を超える小学校が造られました。

学芸員の遠藤 正教さんの案内で、明治の小学校の授業を教えて頂きます。

  • 江戸時代の寺子屋は統一的な教育ではなかった
  • 一斉授業は明治時代に始まる

当時の教室に入ると、教壇に向かって机や椅子が並べられています。教師が前に立ち、それに向かって子どもたちが並ぶスタイルは明治時代に始まったものです。

江戸時代の寺子屋では、思い思いの場所に座る子どもたちを、指導者が個別に指導していました。また、教育内容も各寺子屋ごとにばらばらでした。

明治の学校は、大勢の子どもに効率的に新しい知識を教えようとしたため、一斉授業と呼ばれる方式を導入しました。こうして、全国でほぼ同じ内容の授業が行われました。

  • 高価な教科書の代わりに利用された掛図
  • 読み方の授業に挑戦

遠藤さん 「それでは明治時代の小学校1年生の授業をやってみたいと思います。」

土保 「教科書はないんですか?」

遠藤さん 「当時の教科書はこちらになります。」

こう言って遠藤さんが取り出したのが、当時教科書の代わりとして利用された掛図です。
当時の教科書はまだ高価なもので、購入する余裕のない子どもが大半だったため、この様な掛図を使用しました。


遠藤さん 「ではまずこの図を使って漢字の読み方の授業をしてみたいと思います。この字を読んで下さい。」

土保 「『なす』です。」

遠藤さん 「はい、正解です。こちらはわかりますか?」

土保 「しょうがですか?」

遠藤さん 「正解です。良くわかりましたね?」

土保 「絵を見て分かりました。」

他にも旧字の大根やニンジンなど、今では使われない難しい漢字が並んでいます。

  • ノート代わりに用いられた石板
  • 列強に対抗する国力をつけることが目標だった

次は書き取りに挑戦です。
当時ノートの代わりに用いられたのが石板でした。この石板に、石筆という石の筆記具で書きます。ところが、この作業には力が必要で、土保さんは字を書くのに苦労していました。

土保 「寺子屋での勉強もすごい難しかったと思うんですけど、そのままじゃダメだったんですか?」

遠藤さん 「当時は国民皆学を目指しました。日本国民全員が勉強して知識を付ける事で、西欧列強の力に対抗する国力が生まれるという考えでした。そのため江戸時代までとはちょっと違う、みんなが勉強できる様な制度を作っていったんだと思います。」

  • 学制公布から35年で就学率は約100%に
  • 難しい問題が多かった

学制公布直後30%もなかった就学率は、その後 次第に上がっていきました。そして35年間で、ほぼ100%近くになります。
教育の普及と充実は、日本の近代化を進めていく上で大きな役割を果たしました。


土保さんは明治の授業の感想として、「一年生の問題にしてはとても難しく、暗記モノが多い」と感じたそうです。

学制、兵制、税制の三つの改革は近代化の基礎となり、国民の生活に大きな影響を与えました。
教育を振興し、経済を発展させて国力をつけるとともに、軍備の整備を進めたのがいわゆる富国強兵です。この富国強兵政策によって、この後の日本の形が作られていきました。

日本の歴史 いとをかし
  • お茶の水女子大学大学院 教授 小風 秀雅 先生
  • 当時の政府のスローガン

今回も小風 秀雅 先生(お茶の水女子大学大学院 教授)に話をうかがいます。

なぜ明治政府は中央集権国家を目指したのでしょうか。そもそも明治維新のきっかけになったのは、江戸幕府が動揺した、ペリーの来航からでした。


小風先生 「中央集権化は、外国の圧力をひしひしと感じて、今のままではダメだということから始まったわけですね。外国との関係の中で、日本は独立・自立した国家として新しい歩を始めなければなりませんでした。そのためには中央集権国家にしなければいけないと、考えたんだろうと思います。」

高橋館長 「外国の脅威というのは、やっぱり相当厳しく感じてたんですね。」

小風先生 「それが事実であったかどうかは別として、そういう意識が非常に強く働いて、明治維新になりました。そして、そのためには何が必要かを考えたときに、廃藩置県のときに掲げられたスローガンに「万国対峙」というものがあります。これは世界の国々と対抗して、日本が自立していくということをスローガンにあげているわけです。つまり、それを進めるために廃藩置県を行う、中央集権国家を作るということです。」

  • 幕末段階から中央集権の意識はあった
  • 次回もお楽しみに〜

高橋館長 「やっぱり中央に全部集めて、それで一つにまとまっていかなければいけないという考えですね。」

小風先生 「そうですね。明治政府になって始まるわけではなくて、幕末の段階からそういう意識はあったわけです。そしてその連続で、明治維新政府になって実現していったということです。」

高橋館長 「しかし、非常に短い時間で、それが確立されていった印象があります。」

小風先生 「その国際感覚というのは非常に素晴らしかったろうと思いますね。」

高橋館長 「先生どうもありがとうございました。」


それでは、次回もお楽しみに!!

科目トップへ

制作・著作/NHK (Japan Broadcasting Corp.) このページに掲載の文章・写真および
動画の無断転載を禁じます。このページは受信料で制作しています。
NHKにおける個人情報保護について | NHK著作権保護 | NHKインターネットサービス利用規約