NHK高校講座

日本史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:00〜2:20
※この番組は、昨年度の再放送です。

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今回の学習

第22回 第3章 近世社会の形成と庶民文化の展開

幕政改革

  • 日本史監修:東京都立国分寺高等学校教諭 佐伯 英志
学習ポイント学習ポイント

一.享保の改革 二.田沼時代 三.寛政の改革

今回の時代と三つの要
  • 財政難になったらどうする?

今日は「幕政改革」がテーマです。
幕政改革とは、江戸幕府が行った政治改革のことですが、幕府はなぜそのような改革をする必要があったのでしょうか。
実は江戸時代中期、江戸幕府は財政が悪化していました。

高橋館長 「例えば、毎月のお小遣いが少なくなってしまったり、必要なものが買えなくなってしまったりした場合、まずどうしますか?」

向井地 「私だったらお菓子を我慢します。」

土保 「私は頑張って働きます。」

込山 「私はマンガもお菓子もほしいけど、ぬいぐるみだけに全部使います。」

AKB48の3人がこう答えたように、江戸幕府も財政改革が必要でした。

  • 18世紀の江戸時代中期がテーマ
  • 当時、幕府の財政は悪化していた

今回の時代は、18世紀、江戸時代中期です。
この時代になると、財政の悪化をはじめとする様々な問題が現れ、幕府は次々と政治改革を行っていきます。

開設以来次第に支出が増える一方で、収入が減少していった江戸時代中期の幕府は、どのような改革を行ったのでしょうか。また、その改革によって、どのような結果になったのかを見ていきます。


今回押さえるべき三つの要は、

一.享保の改革
二.田沼時代
三.寛政の改革
です。

江戸幕府が成立してから約100年後、改革の必要に迫られた、江戸時代中期の約80年間の政治を見ていきます。
この時代は幕府の財政が悪化し、旗本や御家人への俸禄(給与)の支給もままならないほどでした。

要 其の一 「享保の改革」
  • 紀州藩主の徳川吉宗が享保の改革に乗り出す
  • 大名の米の負担を緊急で上げ、参勤交代の負担を減らす

1716年、徳川家康 以来 将軍職に就いていた徳川宗家(本家)が途絶えると、御三家の1つである紀州藩主の徳川吉宗が8代将軍に迎えられました。
吉宗は29年間の将軍在職の間、様々な新しい政策を実行して幕政の改革に取り組みました。これを享保の改革とよびます。

改革の中心は、まず財政の再建にありました。
吉宗は、倹約令を出して支出を抑える一方、収入を増やすための政策を打ち出していきます。
「上米(あげまい)の制」といわれる政策は、諸大名に対して出された緊急の策でした。諸大名の石高1万石につき、100石の米を幕府に納めさせるというものです。その代わりに、参勤交代の際の1年間の江戸滞在期間を半年にして、大名達の負担を緩めました。

  • 年貢を定額制に
  • 幕府直轄領で江戸時代で最高の石高に

年貢の増収策としては、毎年の収穫高に応じて年貢量を決める「検見法(けみほう)」を改め、年貢を定額とする「定免法(じょうめんほう)」を取り入れます。これは、米の出来不出来にかかわらず、毎年安定した収入を確保することを狙ったものでした。

さらに、商人資本の力を借りて新田開発を進め、米の増産を奨励しました。
右図は、江戸幕府の石高を10年ごとにグラフにしたものです。
改革の結果、幕府直轄領の石高はおよそ440万石にまで増え、江戸時代を通じて最高を記録しました。

  • 大岡忠相は市政改革につとめた
  • 「いろは」47組を編成して町火消しの制度を作る

また吉宗は、5代将軍 綱吉以来続いた側用人政治を廃止し、譜代大名を重視すると共に、有能な人材を登用します。

江戸の町奉行に登用された旗本の大岡忠相は市政の改革に努め、裁判や刑罰の基準となる「公事方御定書(くじかたおさだめがき)」を編集します。
また都市政策として、火事の多い江戸に大名や旗本の火消しに加えて、「いろは」47組を編成し町方の消防制度を作りました。
組ごとに火消し専門の鳶を雇い、火事に備えさせたのです。

  • 庶民の意見を求める施策
  • 享保の改革は、増税政策という面もあった

そして、1721年には評定所門前に目安箱が置かれ、広く庶民の意見を求めました。
その意見の中から、小石川に庶民の医療施設として小石川養生所が設置されました。

米の政策に重点を置いた、吉宗の「享保の改革」は、後の改革の模範とされました。

このように吉宗は、思い切った改革を数多く実行しました。
享保の改革はうまくいったようにも見えますが、その後も改革の継続が必要でした。

幕府成立当初300万石弱だった石高は、吉宗の享保の改革後は440万石に増え、江戸時代を通じて最高に達します。
しかし、年貢の収納率の変化に注目すると、この改革について別の見方ができます。
年貢の収納率とは、取れた米のうち年貢として納めさせた割合です。収納率は1716年には34%でしたが、1744年には38%に上がっています(右図)。
つまり享保の改革は幕府の財政を改善させましたが、農村にとっては増税政策だったと言え、農民の生活は苦しくなっていきます。
そこで、これ以上の増税は無理と判断し、別な方法で財政再建に取り組む人物が現れます。

要 其の二 「田沼時代」
  •  商業に財源を求めた田沼意次
  • 同業者組織に営業許可書を与え、税を徴収

享保の改革の後、新たに幕府の財政再建に力を注いだのが、老中の田沼意次です。
田沼は十数年間にわたり実権を握り、きわめて強い権力をふるいました。

田沼は、年貢による収入には限界があるとして、発展しつつあった商業に幕府の財源を求めます。
商人や職人の同業者でつくる仲間組織に「株仲間」という営業許可書を与え、商品の仕入れや販売の独占権を認めました。
そして、その見返りとして営業税を徴収しました。

  • 流通を活発化させる、新貨幣
  • 蝦夷の俵物を新たな輸出品として金銀を輸入

また、市場経済を発展させるため、新しい貨幣を鋳造させます。
当時、江戸では主に金貨が、大坂では銀貨が使われ、貨幣価値は相場によって変化しました。
田沼は、良質の銀を使った「南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)」という貨幣を作り、この銀貨8枚で、金の小判1両と定めました。
江戸でも大坂でも使いやすい貨幣を導入し、流通を活発にしようとしたのです。

次に田沼は、長崎貿易に目を付け、輸出を増やそうとします。
産出量が減少していた金や銀に代えて、蝦夷地などから集められた、俵物と呼ばれる干しアワビやフカヒレなどの海産物を新たな輸出品としました。
そして、金や銀を輸入し、南鐐二朱銀などの貨幣鋳造に利用します。

また田沼は、蝦夷地の開発やロシアとの交易を計画し、外国に目を向けた政治家でもありました。
田沼の政策は、発展してきた市場経済を取りこみ、幕府の財源としたことは現実的で新しい面を持っていました。しかしその一方で、特権や地位を得ようとする商人や武士によって賄賂が公然と行われ、政治の公平性が損なわれました。

  • 全国で100万人もの死者を出した

1783年、浅間山が大噴火すると、火山灰が降り注ぎ農作物に大きな被害をもたらしました。
天明の大飢饉では、東北地方を中心に多くの餓死者を出し、全国でおよそ100万の人々が亡くなったと言われています。
こうした天災による社会不安の中で、田沼は次第に勢力を失い、1786年に失脚すると多くの政策は中止となりました。

また、百姓一揆や米蔵などを襲う「打ちこわし」が全国で頻繁に起こるようになります。
それが引き金となって、また新たな改革が始められました。

要 其の三 「寛政の改革」
  • 全国で打ち壊しが起こる
  • 吉宗の政治を理想とした松平定信

1787年、天明の飢饉が続く中、全国の主要都市で打ちこわしが相次いで起こりました。特に江戸では、町中の米屋などが襲われ、幕府は強い衝撃を受けました。
このとき、老中に抜擢されたのが白河藩主 松平定信です。定信は、田沼政治を否定し、8代将軍 吉宗の享保の改革を理想として、政治改革を進めました。

この定信による改革を寛政の改革といいます。

  • 出稼ぎを制限し農業人口の確保に努める
  • 無宿人に職業訓練などを施す

まず取り組んだのは、飢饉への対策でした。「囲い米」という制度を設け、米を蓄えるための貯蔵庫を各地に設置させ、凶作や災害の備えとしました。
また財政を再建するため倹約令を出し、大名から百姓、町人にいたるまで厳しい倹約を要求します。
当時の江戸では、関東の農村から貧しい農民が流れこみ、行商などを行って その日暮らしの生活していました。定信は出稼ぎを制限し、旅費や補助金を与えて農村に帰ることを勧める「旧里帰農令」を出して、農業人口の確保に努めました。

一方、江戸の石川島に無宿人と呼ばれる、人別帳から外された人々を収容する「人足寄場(にんそくよせば)」を設けます。ここで技術を身につけさせ、職業を持たせようとしました。

学問を重視した定信は、試験を行って役人を登用する新しい制度を作りました。

  • 風俗を乱すとして浮世絵などの出版を禁じる
  • 定信は将軍とも対立した

また、庶民に対しては、風俗を乱すと考えられた浮世絵や書籍の出版を禁じる「出版統制令」を出し、風俗の取り締まりを強化しました。
定信の厳しい改革は、民衆ばかりではなく幕府内部の反発もまねき、在職6年余りで退陣に追い込まれました。

高橋館長 「寛政の改革は幕政を一時的に引き締めましたが、民衆の反発をまねいた上、定信と将軍 家斉(いえなり)との対立もあって長くは続きませんでした。でもその反面、人足寄場のような社会政策や試験で人材を決めるという政策は、その後の社会に大きな影響を残したといえると思います。」

日本の歴史 いとをかし
  • 東京都立国分寺高等学校教諭 佐伯英志 先生

前回に引き続き、東京都立国分寺高等学校教諭 佐伯英志(さえき えいし)先生に、お話をうかがいます。今回は寛政の改革についてです。

佐伯先生によると、寛政の改革が起こった1つの原因が、天明の大飢饉だったといいます。その天明の大飢饉の最中に浅間山が大噴火し、土石流が村々を襲いました。

佐伯先生 「土石流で自分の家が流されたり、お友達の家が無くなったりしたら、みなさんだったらどうしますか?」

土保 「ボランティア活動?」

向井地 「助ける。」

込山 「体育館でみんなと一緒に生活します。」

佐伯先生 「実は、そのようなことは今に始まったことではなく、当時から行われていました。ある村が土石流に埋もれてしまったのですが、その時に、近辺の村々の人達が救いの手を差しのべて、お米やお金を寄付したり、家を無くした人達のために小屋を建ててあげたりといったことまでしてくれたんですね。」

高橋館長 「幕府はどうだったんですか?」

佐伯先生 「幕府も救いの手を差しのべたのですが、助けてくれたのは、(災害から)もっと後のことで、それよりも近所の人達の救いの手の方が早かったんです。」

  • 昔の精神を学ぶことも歴史の意義
  • 次回もお楽しみに〜

佐伯先生 「ボランティアというと、今の言葉のような気もしますが、実は、昔から日本人の心に生きているものなんですね。」

高橋館長 「いわゆる助け合いという精神なんですね。そういう意味では、歴史から学ぶことって大切ですね。」

佐伯先生 「そうやって歴史から学ぶことは、実はたくさんあって、1つ1つの事柄を覚えることも大事ですが、昔の精神を学ぶことも歴史の意義なんですね。」


それでは、次回もお楽しみに!!

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