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Eテレ 毎週 金曜日 午後2:00〜2:20
※この番組は、2014年度の新作です。

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今回の学習

第19回 第3章 近世社会の形成と庶民文化の展開

キリスト教禁止と鎖国

  • 日本史監修:東京大学史料編纂所教授 山本 博文
学習ポイント学習ポイント

一.貿易の統制 二.島原の乱と鎖国 三.4つの窓

今回の時代と三つの要
  • 江戸時代に日本に入ってきたものは?

前回、江戸時代の始まりについて学びましたが、今回はそれに続く時代を見ていきます。
土保さんは、長崎に現地調査に行き、お土産にカステラを持って帰ってきました。

その土保さんからクイズです。

次の3つのうち、江戸時代に日本に入ってきたものはどれでしょうか?
1.ビール
2.ビリヤード
3.クローバー


実は、正解は「全部」なのだそうです。

  • 今回学ぶのは江戸時代、主に17世紀
  • 天下泰平の世に、キリスト教徒による一揆

今回学ぶのは江戸時代、主に17世紀です。この時代は大きな戦乱がなく、“天下泰平の世” でした。
しかし、キリスト教徒による大きな反乱 “一揆” が起こります。
この反乱には、日本国内だけではなく、海外との関係も大きく影響していたといいます。
キリスト教徒によるこの反乱は、江戸幕府にどのような影響を与えたのでしょうか。


今回押さえるべき三つの要は、

一.貿易の統制
二.島原の乱と鎖国
三.4つの窓

です。

江戸幕府の海外政策に関する歴史を学びます。

要 其の一 「貿易の統制」
  • 当初、家康は貿易に積極的だった
  • 幕府公認の朱印船で交易を行った

まずは、当時の日本と外国との関係から見ていきます。
江戸幕府を開いた当初、徳川家康は明や朝鮮、東南アジアとの貿易を積極的に行いました。ルソン、ベトナム、カンボジアなどと貿易をするために、朱印状を商人や九州の大名たちに与え、幕府公認の貿易船である朱印船を派遣しました。
朱印船の貿易によって輸出されたものは、銀や銅、鉄などの鉱山物資や工芸品などです。また輸入品は、中国の生糸や絹織物、南方からは象牙や砂糖などでした。

  • スペイン・ポルトガルからは宣教師が渡来して布教
  • 1612年、キリスト教の禁教令

さらに、オランダやイギリスなどヨーロッパからも船が来航します。その中でも、最大の貿易相手は、マカオを根拠地としたポルトガルでした。

スペインとポルトガルからは、キリスト教の布教のため、宣教師たちもやってきました。家康は、貿易の利益のため、キリスト教宣教師の渡来や布教を黙認します。
その結果、キリスト教は各地に広まり、信者が激増します。1605年頃には、キリスト教徒は全国でおよそ70万人に達しました。
増大するキリスト教徒に不安を感じた家康は、1612年、幕府直轄地にキリスト教の禁教令を出します。さらに翌年、それを全国に広げ、信者に改宗を迫ります。また教会堂を取り壊し、宣教師を国外へ追放しました。

  • 1616年、ヨーロッパ船の来航を平戸・長崎に限定

幕府は貿易も制限するようになり、1616年、ヨーロッパ船の来航を平戸と長崎に限定します。
3代将軍、徳川家光は、さらに貿易の制限と禁教を推し進めます。1635年には、日本人の海外渡航を一切禁じます。

このように当初は積極的な貿易政策を行っていた江戸幕府でしたが、増大するキリスト教徒の脅威に不安を感じ、貿易を統制するようになっていきます。

高橋館長によると、経済的な理由を考えると、海外との貿易は したかったのではないかといいます。
しかしこの後、江戸幕府の海外政策を大きく変える大きな乱が起こり、外国との関係が変化することになります。

要 其の二 「島原の乱と鎖国」
  • 戦国時代はキリシタン大名が支配した島原と天草
  • 江戸時代の領主松倉重政はキリシタン弾圧

戦国時代、長崎の島原と熊本の天草は、キリスト教を信じるキリシタン大名と呼ばれた有馬晴信と小西行長の領地でした。そして、その領民もほとんどがキリスト教徒でした。

しかし江戸時代に入り、キリスト教を排除する気運が高まると、新しく領主となった松倉重政はキリスト教徒を激しく弾圧します。さらに、領民たちに過酷な重税を課していきます。

  • 1637年に重税とキリスト教容認を求め一揆
  • 16歳の天草四郎がリーダー

そして1637年、島原の乱、島原・天草一揆が起こります。島原・天草地方のキリシタン農民らが中心となり、重税への反発とキリスト教の容認を求めた一揆です。
そのリーダーは、天草四郎時貞という16歳の敬虔なキリスト教徒でした。

島原半島の突端にある原城に立てこもった一揆軍は、総勢38000人にのぼったといわれます。
幕府は、九州諸藩を中心に12万あまりの大軍を動員し、鎮圧しようとしました。しかし、一揆軍は多大な犠牲者を出しながらも、強い団結の元 激しく抵抗を続けました。
一揆が鎮圧されたのはおよそ三ヵ月後のことで、一揆軍の犠牲者は、3万人以上にのぼりました。

  • オランダ人の貿易活動にも制限
  • 以後幕末まで続く鎖国が始まる

キリスト教徒による抵抗の激しさは幕府に大きな衝撃を与え、以後、徹底的にキリスト教を排除していくことになります。
島原の乱の2年後、幕府はポルトガル船の来航を禁止し、日本からポルトガル人を追放します。

さらに1641年、オランダ人の貿易活動にも制限を加えていきます。オランダ商館を出島に移し、ここ以外に行き来することを固く禁止しました。
こうして幕府は、ポルトガル人のみならず、西洋人全体に統制をかけていきました。

このように、島原の乱をきっかけに、江戸幕府は外国との交流を厳しく制限しました。
この “鎖国体制” は、以後、幕末まで続いていきます。

  • 東京大学史料編纂所 山本 博文教授

キリスト教を禁止するために国を閉ざした日本ですが、ポルトガルとオランダで対応が違ったのはなぜでしょうか。
特別講師の山本 博文 先生(東京大学史料編纂所 教授)に話をうかがいます。

  • 布教と貿易が一体だったカトリック国
  • 貿易のみ行ったプロテスタントのオランダ

キリスト教にはカトリックとプロテスタントという宗派があり、ポルトガルとスペインは主にカトリック、オランダはプロテスタントの国です。
カトリックの国は布教を行い、それにともなって貿易も行っていました。つまり貿易と布教が切り離せないものであり、むしろまず宣教師がやってきて、貿易商人を連れてくるという形だったといいます。

一方、プロテスタントのオランダの場合、東インド会社という会社の商人がやってきていました。彼らは布教をせず、貿易だけ行っていました。
幕府はキリスト教が日本に入ってくることを非常に嫌っていたため、ポルトガルやスペインは追放し、貿易は布教をしないオランダと行おうとしました。

要 其の三 「4つの窓」
  • 古くからの国際都市 長崎へ
  • 観光ガイドの三好さん

江戸時代、海外との交流はどのように行われていたのかを知るため、土保さんは長崎県長崎市にやってきました。
長崎市は、古くから西洋との交流が活発に行われていた国際都市です。

土保さんは、鎖国体制だった江戸時代に唯一開かれた港、出島の跡地へとやってきました。案内してくださるのは、長崎で観光ガイドそしている三好麻理子さんです。

  • 日本人も出島に許可なく立ち入れなかった
  • 当時の町並みが復元されている出島の跡地

出島は、鎖国体制の江戸時代にポルトガル人やオランダ人を収容し、貿易を行っていました。外国人たちはここから出ることを制限され、また日本人も許可なく立ち入ることができない、特別なエリアでした。
現在では、当時の出島の建物や町並みを忠実に復元しています。

二人が歩いていると、当時の格好をした人を発見します。鎖国時代、貿易の取り締まりをしていた役人だといいます。
建物だけではなく、役人や門番も再現しています。

  • 当時は貴重な砂糖
  • 砂糖を使って作られたお菓子

当時の倉庫に入ると、砂糖の袋が積まれていました。

三好さん 「これ全部砂糖なんです。今ではどこでも手に入るような当たり前の物なんですけど、昔は日本では取れなかったんで、輸入するしかなかったんですね。そのため、非常に貴重な物でした。」


当時、輸入品の主力は砂糖でした。外国から入ってきた大量の砂糖を元に、カステラをはじめ様々なお菓子が作られました。
ポルトガルから伝えられたと言われるカステラは、長崎で作られ続け、江戸時代に長崎の名産品になっていきました。

  • ビールも当時日本に伝わった
  • 緩衝材として用いられたクローバー
  • オランダ人が楽しんだビリヤード

ビールもこの頃に、出島に伝わったと言われています。
さらに、ガラス製品などを輸入する際、壊れないようにクローバーの干草を詰め物として使って運んでいました。
そこから、クローバーをシロツメクサと呼ぶようになったと言われています。

また時間があるときに、出島のオランダ人はビリヤードを楽しんでいたそうです。
出島には、鎖国体制の時代にも、様々な外国からの品物や文化が入ってきていました。

  • 長崎では清とも貿易を行っていた
  • 当時、外国との窓口は4つ

長崎では、オランダだけではなく、中国との貿易も行っていました。
1688年には、これまで長崎の町に住んでいた清の商人を集め、新しく築いた埋立地に居住させました。この清の商人の居留地を、唐人屋敷と言います。

江戸時代、日本には長崎をはじめとして、対馬・鹿児島・松前など外国との窓口が4つありました。

  • 朝鮮通信使は貴重な外国人
  • 薩摩藩は琉球を通じて明・清と貿易

朝鮮とは、対馬を介して江戸時代を通じて交流していました。
国書を交換する唯一の正式な外交関係を結び、朝鮮からは朝鮮通信使が来日しました。江戸まで行列をなして移動した通信使たちは、江戸の人たちにとって もっとも身近な外国人であり、目にすることができる貴重な外国の文化でした。

鹿児島の薩摩藩は、琉球と交易を行っていました。
1609年、薩摩藩は幕府の許可の下、琉球に侵攻します。敗北した琉球は、実質的に薩摩藩の支配下におかれます。
明や清とも貿易を続けていた琉球から、薩摩藩は中国からの輸入品を手に入れることができました。

  • 松前藩はアイヌの人々と交易

また蝦夷地の南端を支配していた松前藩は、アイヌの人たちとの交易を独占的に行い、鮭や昆布、毛皮などを手に入れていました。

江戸時代は鎖国体制でしたが、実際は日本は4つの窓を通じて、外国文化や外国人と触れ合っていました。


土保さんは実際に現地に行くことで、当時の長崎の様子を、肌で感じることができたようです。

土保 「長崎はカステラなどお菓子が名産品になっているだけはなく、料理の味付けも甘いんですよ。長崎に行って、今に至る歴史をたくさん知ることができました。」

込山 「鎖国と言っていましたけど、外国から食べ物や服、文化まで入ってきていたなんて、国を閉じていないじゃないですか。」

高橋館長 「確かにそうですよね。一体どうだったのか、山本先生に聞いてみましょう。」

日本の歴史 いとをかし
  • 鎖国はドアは閉まっているが窓が開いている状態
  • 次回もお楽しみに〜

山本先生によると、”鎖国であるか否か” については研究者によって見解が分かれているといい、山本先生は鎖国だと考えているといいます。
その理由は、日本人は外国に出て行くことができず、外国にいた日本人も日本に帰ることができなかったためです。また、日本に来ている外国人も行動を厳しく規制されているということを考えれば、鎖国だと考えられるのだといいます。
このことから、国の ”ドア” は完全に閉まっている状態だと言えます。
しかし先ほど見たように、窓は広く開いていました。外国から情報や貿易品は入ってくる状態でした。

山本先生 「ドアは閉まっていて、窓は開いている状態。これを窓から見ると鎖国ではないが、ドアが閉まっているのを見ると鎖国だという。こういう風に2つに意見が分かれます。」

高橋館長 「鎖国したことによって日本の近代化が遅れたじゃないかとよく言われますが、どうだったのでしょうか?」

山本先生 「戦争の技術と言うのはたぶん遅れたと思うんですよね。そういう面では幕末に黒船がやってきて、驚き困るわけですからね。しかし、貿易を非常に制限していますよね。貿易を制限していることによって、日本では必要な物資を日本だけで作ろうという意識も出てきます。」

高橋館長 「物づくりには非常に役に立ったんですね、逆に。」

向井地 「自分の手だけで作れるようになったんだ。」

山本先生 「そういう意味では、鎖国は損だったというだけではなくて、日本国内の産業が育成されるなど、いろんな良い面もあるんですね。」

高橋館長 「どうもありがとうございました。」


それでは、次回もお楽しみに!!

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