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今回の学習

第19回 第3章 近世社会の形成と庶民文化の展開

江戸幕府と大名・朝廷

  • 監修講師:東京大学史料編纂所教授 山本博文
学習ポイント学習ポイント

江戸幕府と大名・朝廷

歴史を語り合う茶屋、歴カフェ。
日本史が大好きな店員、小日向えりさんのもと、歴史好きの平野詩乃さん、市瀬悠也さんが集まってきました。
教えてくださるのは、山本博文先生です。

今回の時代は、安土桃山時代の終わりから江戸時代の初めにかけて。
全国統一を果たした豊臣秀吉亡きあと、1603年に「徳川家康(とくがわいえやす)」は、江戸に幕府を開きます。
大名や朝廷などを束ねるために「武家諸法度(ぶけしょはっと)」「参勤(さんきん)交代」など、さまざまな制度を作り、260年余りに及ぶ長期政権の基礎を築きます。
今回のテーマにせまる3つのポイントは「江戸幕府の成立」「大名の統制」「朝廷・寺社の統制」
家康はどのようにして幕府を開き、天下を治めたのか、見ていきましょう。

江戸幕府の成立

えり 「これまで織田信長、豊臣秀吉ときて、ついに徳川家康です。」

悠也 「豊臣秀吉は全国統一をしたけど、たった10年で家康に取って代わられて、その家康(徳川家)は幕府を260年も続けたんだよね。何か違いがあったのかな?」

山本先生 「『改易(かいえき)』や転封、大名を全国的にうまく配置する、あるいは徳川家の世襲をシステム化するとか、そういうことで幕府の支配が永続化するように努力したわけですね。」


全国統一を完成させた豊臣秀吉が1598年に病でこの世を去ると、後を継いだのは秀吉の子・秀頼(ひでより)でした。
しかし、秀頼が幼少であったことから、政治は五大老(ごたいろう)と五奉行(ごぶぎょう)によって行われました。
中でも五大老の徳川家康は、次第に大きな力を持つようになります。
一方、五奉行のひとり石田三成(いしだみつなり)は、豊臣政権の将来に危機感を抱いてました。

1600年、家康は会津の上杉景勝(うえすぎかげかつ)の謀反(むほん)を口実として諸大名を率いて関東に向かいます。
その機を逃さず、石田三成は家康打倒を目指して兵を挙げたのです。
これを知った家康は、軍を引き返し岐阜に向かいます。
ついに両陣営は美濃国(みののくに)・関ヶ原(せきがはら)で激突します。
天下分け目の決戦、「関ヶ原の戦い」です。
家康の東軍(とうぐん)には福島正則(ふくしままさのり)・黒田長政(くろだながまさ)・細川忠興(ほそかわただおき)らが、三成の西軍(せいぐん)には毛利輝元(もうりてるもと)・宇喜多秀家(うきたひでいえ)・小早川秀秋(こばやかわひであき)ら西国(さいごく)諸大名がいました。
早朝、幕を開けた関ヶ原の戦い。
東軍およそ7万、西軍は8万以上ともいわれています。
一進一退の戦局は小早川秀秋らが寝返り、東軍の勝利に終わりました。
敗れた三成は京都で処刑され、毛利輝元は120万石の領地を37万石に削減されました。
西軍に属した多くの大名は、領地を没収される改易や領地を削減される減封(げんぽう)などの処分を受けました。
1603年 、家康は朝廷から「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」に任じられ江戸に幕府を開きました。
ここから明治維新までの260年余りを江戸時代といいます。


えり 「関ヶ原の戦いは、勝敗の命運を握っていたのが一人の武将だったなんてね。」

詩乃 「小早川秀秋が寝返らなかったら、西軍が勝つ見込みはあったんですか?」

山本先生 「そうですね。西軍が勝ったと思いますね。小早川は松尾山に陣していて、お互いの戦いをずっと見ているわけですよね。もしそこで西軍について、そのまま攻撃したとしたら東軍が大崩れになったはずなんです。そういう意味では、この小早川の行動というのは非常に大きかったわけですね。」

悠也 「もし関ヶ原の戦いで西軍が勝っていたら、どうなっていたんですか?」

山本先生 「想像ですからいろんな考え方ができますけど、おそらく秀頼が秀吉と同じように関白になって、その秀頼の政権が結構長く続いたんじゃないかと思います。その場合は、大坂の政権になりますから、江戸は今の東京みたいに発展することもなかったかもしれませんし、全国随分変わっていた気もしますね。」


関ヶ原の戦いに勝利した家康は1603年に征夷大将軍となり、江戸に幕府を開きました。
しかし、わずか2年後には将軍の地位を子の秀忠(ひでただ)に譲ります。
政権の世襲(せしゅう)を示すためでした。
しかし、静岡の駿府(すんぷ)に隠退した家康は、大御所(おおごしょ)と称し、政治上の実権は握っていました。

一方 大坂城では、秀吉の子・豊臣秀頼が大名や公家に対して権威を保ち、徳川幕府の支配下にはありませんでした。
家康は、豊臣家を脅威に感じていました。
そんな折、家康は秀頼が造らせた京都・方広寺(ほうこうじ)の釣り鐘に刻まれた小さな文字に目をつけます。
国の平和を願った「国家安康(こっかあんこう)」の文字。
家康は、この文字を家康の名前を分断するものだとして、いいがかりをつけ、非難します。
豊臣家は駿府に弁明の使いを送りますが、家康は厳しい条件を突きつけます。
大坂城を退去すること、母親・淀君(よどぎみ)を人質に差し出すことなどの条件に対し、豊臣側は受け入れを拒否し、大坂城に兵を集めます。
家康は、この方広寺の鐘銘(しょうめい)事件を口実として、豊臣方に挙兵させ、開戦に持ち込んだのです。

1614年「大坂冬の陣(じん)」、翌1615年「大坂夏の陣」2度の戦いによって大坂城は陥落、秀頼・淀君親子は自害し、豊臣氏はほろびました。
こうして、徳川家が名実ともに全国を支配することになったのです。



山本先生 「家康は征夷大将軍にはなりましたけど、豊臣家は家康の主人の家ですよね。秀頼は主人の子どもですから、主人としなければいけない、しかし自分(家康)の下に置きたい、ということでいろいろと考えるわけですね。」

悠也 「家康の性格を『鳴かぬなら鳴くまで待とうほととぎす』と表現するのを聞いたことがあるんですけど…」

えり 「有名ですよね。『鳴かぬなら殺してしまえほととぎす』は?」

悠也 「織田信長です。」

えり 「そうです、短気で激しい性格を表しています。『鳴かぬなら鳴かせてみようほととぎす』は?」

詩乃 「秀吉ですよね。」

えり 「そうです、秀吉は工夫をこらす性格。家康は我慢強い性格ってことですよね。」

山本先生 「(家康は)関ヶ原の戦いで勝利したけれども、そのあと征夷大将軍になっても豊臣家はそのままにしているわけです、大坂の陣までずっと我慢しているわけです。家康の辛抱強い性格をよく示していますね。
でも、だんだん家康も年老いてきて、秀頼が成長し次の日本の支配者になるかもしれない、それで焦りはじめて、難癖をつけて豊臣家との戦いに持ち込むわけですね。」


江戸幕府の政治組織は、三代将軍「家光(いえみつ)」の頃までに整備されました。
将軍のもとで政務を取りまとめたのが「老中(ろうじゅう)」です。
「若年寄(わかどしより)」は老中を補佐するとともに、旗本(はたもと)・御家人(ごけにん)に関する政務を扱いました。

「寺社奉行」は寺院・神社の統制・支配などを、「町奉行」は江戸の市政を、「勘定奉行」は幕府財政などを担当しました。
これらの役職は大名などがその職務につきました。
大名とは、1万石以上の「領知(りょうち)」をもつ将軍直属の武家のことです。
領知を保証された大名は将軍の家臣として、戦時には石高(こくだか)に応じた兵力で従軍する義務を負い、平時には幕府から城の修築や河川の修復などの土木・建築工事を命じられていました。
これを御手伝普請(おてつだいぶしん)といいます。

大名の数は全国で200を超え、徳川氏の一族を「親藩(しんぱん)」、関ヶ原の戦い以前から家康に仕える家を「譜代(ふだい)」、それ以後に徳川氏にしたがった家を「外様(とざま)」といいます。
親藩や譜代大名は江戸の周辺や全国の重要な地点に、外様大名は江戸から遠く離れた地に配置されました。
大名が領地を支配する組織を「藩(はん)」と呼び、その藩を幕府が支配しました。
統一政権としての幕府と、独立した領地を持つ藩によって、全国の土地と人民を支配する仕組みを「幕藩(ばくはん)体制」といいます。

1615年、大坂夏の陣の後、幕府は諸大名が持つ城の数を制限しました。
「一国一城令(いっこくいちじょうれい)」を出して、大名が住む城を除く領内の城を破壊させたのです。
多くの城を持つことで、必要以上に戦力を持つことを防ぐためでした。
次いで、大名の行動を取り締まる「武家諸法度(ぶけしょはっと)」を制定します。
城の新築や無断修理を禁じ、大名たちの間での結婚に幕府の許可を必要としました。

1635年、3代将軍家光は武家諸法度を改定し「参勤(さんきん)交代」の制度を加えました。
これにより、全国の大名は妻子を江戸に置き、1年ごとに領地と江戸を往復することになったのです。
仙台藩伊達家(せんだいはんだてけ)の参勤交代の様子が描かれた楽山公行列図巻。
籠で移動する大名や、1577人もの人たちが描かれています。
仙台から江戸までおよそ350km、10日間をかけたといわれています。
御手伝普請や参勤交代は大名の大きな負担となりました。

大名の統制

詩乃 「勝手に結婚してはいけない、自分のお城の修理をするのに許可が必要とか、大名たちは反発しなかったんですか?」

山本先生 「不平や不満はあったと思うんです。でも、大名としては幕府に気に入られるために、わざわざ自分から人質を出したり、江戸に住むようにしたりして、幕府の歓心を得ようとするんです。そういうことによって、江戸時代は大名が江戸と国許(くにもと)を交互に往復する制度になっていくわけなんですね。」

また、幕府の役職の任命にも大名を統制する仕組みがありました。

山本先生 「老中・若年寄・寺社奉行のような役職は、徳川家の家来の譜代大名をあてるわけです。それから、江戸の町を支配する町奉行・幕府の財政を管理する勘定奉行は、旗本をあてるんですね。つまり、幕府の全国統制は全て徳川家の家臣だけで行うようにして、外様大名は排除するという体制にしたわけなんですね。」

朝廷・寺社の統制

幕府は大名だけでなく、朝廷・寺院・神社の統制も強化していきます。

1615年、朝廷や公家に対して「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」を定めました。
天皇に学問を第一とするなどの心がまえを説き、権限を年号や暦の制定など形式的なことだけにとどめました。
さらに、将軍直属の京都所司代を置いて朝廷などの監視も行っていました。
朝廷は伝統的権威こそ保持していたものの、領地は少なく政治的には無力の存在となっていました。

幕府は、寺院や神社にも統制を強めます。
「寺院法度」を出して、寺院の本山(ほんざん)が末寺(まつじ)を統制する「本末(ほんまつ)制度」を確立。神社には社殿(しゃでん)の維持や装束(しょうぞく)の売買禁止などを定め、統制を加えました。


詩乃 「この時代になっても、お寺や神社に対して警戒していたということですか?」

山本先生 「そうですね。神社やお寺には、もう中世のような武力・財力はないわけですね。
しかし、戦国の世の中で武力を蓄えたりして、本来の宗教者としての業務を忘れているわけです。だから、平和な世の中になって秩序が必要になってくると、“本来の宗教を担う心を大切にしなさい”っていう法度なんですね。」

悠也 「朝廷に対しても厳しい対応をしていますよね。」

山本先生 「そうですね。朝廷や公家たちの世界は、戦乱の中でだんだん堕落していくわけですね。それをもう少しきちんとした組織にして、自分たちの役割を自覚して、朝廷が本来の姿を取り戻せば朝廷の権威が戻るので、徳川家に対して征夷大将軍を任命している朝廷の権威が上がれば自分たち(将軍家)の権威も上がる、そういうメカニズムなんですね。」

日本史なるほど・おた話〜江戸幕府を支えた「大奥」

日本史のおもしろくてためになる話。
引き続き山本博文先生に伺います。

山本先生 「今回は江戸幕府の特長である『大奥』というものをお話したいと思います。この大奥によって幕府の支配が260年続いたと言っても過言ではないわけです。」

えり 「大奥って、あのドロドロとした女性のねたみがうずまく、男子禁制の秘密の場所ですよね。」

山本先生 「映画やテレビだとそういうふうに描かれることが多いのですが、大奥の本来の目的は幕府を長く維持させるための最も重要な組織なんですね。」

「大事なのは世継ぎ(よつぎ:次の将軍となる人)という概念なんです。徳川家が江戸幕府の将軍家として存続していくためには、世継ぎが必ず必要なんです。その世継ぎを継続的にもうけていくために設けられた役所が、大奥だったんですね。」

悠也 「大奥って、どういった場所だったんですか?」

山本先生 「大奥というぐらいですから、ずいぶん奥にあるんですね。将軍のプライベートな空間で、将軍とその正室である御台所(みだいどころ)・将軍の子ども・側室たちの住居だったんですね。だから、江戸城本丸御殿の半分以上を占める敷地だったんです。」

「大奥女中は、多い時で2000人以上いたと考えられているんです。しかし、大奥女中は誰でもなれるわけではないので、当時の女性たちにとっては、憧れの職業なんですね。」

大奥女中は基本的に旗本など武家の娘が勤めましたが、商家・農家から大奥に入る娘もいました。

悠也 「憧れの職業ということは、お給料もよかったんですか?」

山本先生 「大奥女中のトップ 御年寄(おとしより)は、今でいえば年収2000万円以上もらっていました。諸大名からの贈り物もいくらでも来ますから、本当に裕福だったんですね。」


えり 「戦国時代では、後継ぎ争いでもめたりしていましたが、世継ぎを決めるシステムも上手に決めていくんですよね。」

山本先生 「そうですね。基本的には年長の子どもから後を継ぐ、長子(ちょうし)相続なわけですね。これは争いが少ないですからね。
正室の子どもがいれば優先的に正室の子どもですが、側室の子どもが世継候補になれば正室の子ども扱いになりますので、年齢順になります。
ただこの時代は、成人まで生きる子どもが少ないとか、あるいは男の子が生まれないということもありますから、そういう場合 徳川家では、御三家からお世継ぎを出すという、そういうことにしていましたね。」


それでは次回もお楽しみに!

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