NHK高校講座

日本史

Eテレ 毎週 金曜日 午後3:00〜3:30
※この番組は、昨年度の再放送です。

日本史

今回の学習

第19回

江戸幕府の成立 〜支配のしくみ〜

  • 講師:琉球大学准教授 武井 弘一
学習ポイント学習ポイント

江戸幕府の成立〜支配のしくみ〜

江戸幕府の成立〜支配のしくみ〜
  • 家光
  • 家光略年表
  • まとめ

今回から7回にわたって、江戸時代の歴史を見ていきます。
江戸幕府は260年あまり続いた長期政権で、その間は大きな戦乱がほとんどなく平和が続きました。その基礎=幕府の政治体制は、家康だけでなく、2代将軍・秀忠、そして3代将軍・家光によって作られました。
今回は、特に家光の時代に着目して、江戸幕府がどのように確立したのかを見ていきます。
中央の図は家光に関連した年表です。家光は1604年に生まれたのですが、その前の1603年は江戸幕府ができた年でした。そんなことから、家光は「生まれながらの将軍」と呼ばれます。
将軍就任後は、家康を尊敬し、家康の治世を理想とした政治を行ないました。
そして「老中制」など江戸幕府の基盤となる体制を固めていきます。
1637〜38年の島原・天草一揆(=島原の乱)を最後に、幕末まで、国内で大きな戦乱は起こりませんでした。

それでは、今回のポイントです。
ポイント(1)幕府の成立
家康・秀忠・家光によって、全国支配が固められる経緯を見ます
ポイント(2)将軍と大名
将軍と大名が、どのような関係で結ばれていたのかを見ます
ポイント(3)職制(しょくせい)の整備
江戸幕府が、なぜ長期政権となり得たのか、将軍権力と職制、つまり仕事の仕組みから、支配の仕組みを捉えます

まずは、ポイント(1)
徳川家康が江戸幕府を開いてから3代将軍・家光が登場するまでをたどりましょう。

江戸幕府の成立
  • 関が原合戦図屏風
  • 大阪城

1600年、天下分け目の関ヶ原の戦いが、東西両軍合わせて17万を超える兵力で争われました。この戦いに勝利を収めた徳川家康が、全国の支配者となります。
家康は、1603年に征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開きました。

しかし、大坂城には豊臣秀吉の子・秀頼(ひでより)が健在でした。
形の上では、秀頼が成人するまでの間、豊臣家の家臣である家康が政権を預かっているということになっていたのです。
そこで家康は、1605年、息子の秀忠に将軍の地位を譲りました。豊臣氏ではなく徳川家が代々政権を握ることを示したのです。
さらに1615年の「大坂夏の陣」で秀頼を滅ぼします。これで、徳川家の支配を脅かす勢力はなくなりました。

  • 秀忠
  • 一国一城令
  • 武家諸法度

その後、将軍・秀忠はさまざまな法令を定めて、幕府の基盤を固めていきます。
諸大名に対しては『一国一城令』と『武家諸法度』、
朝廷と公家には『禁中並公家諸法度』、
寺院・神社に対しては宗派ごとに『寺院法度』を出して統制していきました。
そして1623年、家光が第3代将軍に就任。政治体制をさらに整え、江戸幕府の支配を安定させていきました。

幕府の経済・軍事基盤〜生まれながらの将軍・家光
  • 江戸幕府の支配基盤
  • 禁中並公家諸法度

全国の支配者になった徳川家は、具体的にはどのくらいの力を持っていたのでしょうか。
まず一つに、諸大名とは比べ物にならない強大な経済力がありました。全国のおよそ6分の1を直轄領とし、18世紀にはその石高は400万石に及びました。
また、京都・大坂・長崎などの主要都市や、佐渡や但馬生野などの鉱山も直轄地としていました。これは、前回学んだ豊臣秀吉の財源と似ています。
さらに、全国に流通する貨幣の鋳造権や長崎貿易の統制権も独占しました。
そして直属の軍事力として、俗に「旗本八万騎」と呼ばれる、旗本や御家人がいました。

法令の中で『禁中並公家諸法度』は、朝廷の内部に規制を加えるためのものでした。
第一条で、「天子(=天皇)が修めるものの第一は、学問である」として、天皇を政治から遠ざけようとしました。
また、幕府は、京都所司代を置いて朝廷を監視しました。幕府は、強い力で朝廷までも抑えつけようとしたわけです。

平和を願う人々
  • 島原の乱図屏風
  • 島原の乱図屏風2

ただ、政治が安定し長期政権につながった背景には、長く続いた戦国時代に人々がうみ疲れ、平和を求めていたということもあります。左の絵を見てください。
これは1637年、家光の時代に起きた 「島原・天草一揆」の様子を描いた屏風絵です。
一揆軍が立て籠もった城(原城)を九州諸藩の軍勢が攻めている場面で、石垣をよじ登って攻め立てています。

右の図は拡大したもので、一揆軍と一緒に立てこもったと思われる女性や子供の死体が捨てられています。またそれを見ている幕府方の兵士は、鼻をつまんで、顔をしかめています。
本来武士は「戦争のプロ」であり、戦国時代には死体を目にすることなどは日常茶飯事でした。おそらく、こんな表情をすることはなかったのではないでしょうか。
大坂夏の陣から20年あまり平和な日々が続いたことで、武士の価値観にも変化が表われていたと考えられます。

なによりも、この屏風絵からは、民衆を巻き込んだ戦乱の悲惨さも伝わってきます。
戦いを嫌い、平和を求めた人々の思い・時代の雰囲気とでもいうものが表われています。そうした人々の気持ちが、江戸幕府の安定・長期政権につながったと考えられるのです。

家康を慕う家光
  • 日光東照宮
  • 陽明門
  • 大猷院

そういう社会の雰囲気の中で、家光は、幕府の基礎を築いていったのですが、家光は、1623年、わずか20歳で将軍に就任し、家康を崇拝し、その政治を理想としました。家康と家光のつながりを示す世継ぎ決定のエピソードがあります。
家光がまだ小さいころ、両親は家光の弟を寵愛していました。それを聞いた家康は、弟より兄・家光の方が立場が上であることを明らかにします。家康が家光とその弟と対面した時、家光を自分の傍らに座らせましたが、同じくそばに座ろうとした弟は、遥か下の席に着かせました。このことによって、家光の世継ぎとしての地位が確固たるものになったのです。

家康の恩を忘れなかった家光は、家康が神として祀られていた日光東照宮の大造替(建替え)を行ないます。
現在見られる日光東照宮は、その時の絢爛豪華な装いを今に伝えています。1999年、「日光の社寺」として、世界遺産にも登録されました。
本殿の入り口にそびえる陽明門は、江戸時代初期の彫刻や彩色など工芸・装飾技術のすべてが集約され、その出来栄えは一日中眺めていても飽きないということで「日暮らし門」とも呼ばれています。500を超える彫刻は特に見事なものです。

また日光には、家光の廟「大猷院(たいゆういん)」もあります。これは、家光が「死んだ後も家康に仕えたい」という遺言を残したことから、東照宮のそばに廟が建てられたのです。
大猷院の建物は家康をまつる東照宮に向いており、家康に対する家光の強い思慕の念を示しています。
このように家康・家光が神として祀られたことは、江戸幕府の権威あるいは将軍の力を高めることにもつながりました。

将軍と大名
  • 領知判物
  • 御在判
  • 武家諸法度改定

将軍の力がどのくらい大きかったかというと、例えば将軍が日光に参詣したり京都に上洛する際、諸大名には、石高に従って決められた数の兵馬を出す軍役が課せられていました。1634年、家光上洛の際の軍勢は30万余りで、関ヶ原の戦いの時の東軍・西軍を合わせた動員数を、はるかに上回っていたのです。

大名とは、将軍と封建的な主従関係を結び、1万石以上の領地を与えられたもの(200数十家)です。
大名は将軍の代替わりごとに「領知判物(りょうちはんもつ)」によって所領を安堵(あんど=保証)されました。
上左は、1634年(寛永11年)に家光から対馬藩主・宗義成に対して与えられた、領知を安堵する文書です。領知は対馬と肥前国の一部(現在の佐賀県 鳥栖市など)で、合計1万1837石とあります。
ちなみに上の文書は写しで、「御在判」と書いてある位置に本来は家光の印判(花押)がありました。

領地を安堵された諸大名にはある程度の自治が認められ、幕府の法を取り入れ、あるいは独自の制度を定めて藩を治めていました。 
将軍は大名を『武家諸法度』をはじめとする法令によって規制していましたが、家光は、1635年にそれまでの『武家諸法度』を大きく改定しました。
たとえば、贈答や屋敷を簡略にすること、交通を円滑にすることなど、時勢に沿った新しい内容が盛り込まれました。

その中で、特に重要なのが、参勤交代の制度化です。
諸大名は、原則として、国元と江戸とを1年交代で往復するのですが、その時に行なわれるのが、大名行列です。その様子を、加賀藩の例で見てみましょう。

加賀藩の参勤交代
  • 加賀藩大名行列図屏風
  • 金沢板橋間駅々里程表
  • 親知らず

加賀藩、現在の石川県を治めていた前田家は、石高百万石という大きな大名です。 参勤交代の大名行列は、戦乱がない泰平の世で大名の威信を示す、数少ない機会でした。
前田家の行列は、2000人を超える家臣を引き連れた大規模なものでした。しかし、一見華やかな行列の裏には、大変な苦労がありました。

金沢から江戸までの道のりは、およそ460キロ。おおむね12泊13日の道中を滞りなく旅するためには、綿密な計画が必要でした。
写真はさまざまな障害を想定して作られた日程表です。まるで現代の電車の運行表のように精密です。
数ある障害のなかで、最大の難所が親不知(おやしらず)でした。 北アルプスの北端が日本海に切れ落ち、険しい崖が15キロも続いていました。
ここを迂回すると、日程が何日も遅れてしまうため、時には人垣を作って荒波を防ぎ、
駕籠(かご)を高く掲げて通らなければならなかったといいます。
また、悪天候や他の大名行列との鉢合わせで足止めされると、日程が遅れるのに加えて宿代もかさみました。

加賀藩の大名行列にかかった費用は、現在の金額でおよそ7億円とも言われます。
参勤交代の費用には、この他に江戸城の近くに与えられた大名屋敷の維持費や儀礼にかかる費用などもありました。江戸での支出が、藩の財政の多くを占めていたのです。
加賀藩の場合、藩全体の年間の支出合計およそ17万両のうち6割が江戸で使われたものでした。これは現代のお金に直すと102億円になります。

諸藩の財政負担〜大名統制〜職制の整備
  • 江戸図屏風
  • 大名の改易

また大名は、その他に「普請役」なども命じられました。これは、河川の堤防工事や江戸城の修築などの土木工事を、費用や労働力を出して負担することです。
1635年から始まった江戸城の拡張工事の場合、普請役を課された大名は114名で、この時点での大名の半数以上になります。
江戸図屏風に描かれている江戸城の天守は、この時に建てられたものです。

ずいぶん負担が多いので、幕府は大名を潰そうとしていたように思われてしまうのも、仕方がないかもしれません。実際幕府は、大名に対して、所領を全て没収する「改易(かいえき)」や、一部没収する「減封(げんぽう)」、領知を配置換えする「転封(てんぽう)」などといった処分を行なうことがありました。

上に、改易を行なった件数とその理由を挙げてみました。
家光までの時代は、それ以後の時代と比べて、期間は短いのに件数は倍近くあります。改易が初期に多いのは、あえて厳しい処罰を与えることで将軍と大名の主従関係を確立しようとする狙いもあったとも考えられます。
改易の理由は、跡継ぎがない場合、法令違反(密貿易や仮病で参勤交代を怠ったという理由もあった)、領内統治の不行き届き、「乱行」などです。
先ほど触れた「島原・天草一揆」では、島原藩主が、改易となった上に死刑を言い渡されました。

とにかく理由を見つけて処罰しようとしていたという風に思えますが、しかしそれぞれの例を詳しく見ていくと、処罰が下されているのは藩主に藩を治める能力がないと判断された場合だということが分かってきます。
実は、幕府は大名家を積極的に潰そうとしていたわけではありませんでした。
例えば、大名家内部の派閥争い=「御家騒動」が起こると、家臣団をまとめることができない、つまり統治能力がないとして、改易・減封とすることもありましたが、反対に大名家の存続を認めた場合も多いのです。

  • 相良騒動の経緯
  • 人吉城
  • 炎上した屋敷

肥後(現在の熊本県)にあった人吉藩の場合を見ましょう。
1640年、人吉藩主・相良頼寛が幕府に、「重臣が横暴な振舞をしている」と訴えました。
重臣が藩政を自分勝手に行なったり、『一国一城令』に反して自分の城を築いたりしているというのです。
幕府が評決(裁判)をするためにその重臣を江戸に呼び寄せると、藩に残っていた重臣の部下80人が城内の屋敷に籠城しました。これは反乱です。
それに対して、藩側は総勢1700人でその屋敷を攻めました。上の図は、その時の様子を描いた絵図ですが、屋敷が攻められて炎上したことを表わしています。
最終的に、籠城した部下80人の多くが自害し、攻めた側も30〜40人の死傷者が出るという大事件となりました。島原・天草一揆のように、周辺の大名が兵を出さなければならないのでは、と心配されたほどでした。

島原・天草一揆の場合は、島原藩主は改易されて死刑にまでなりましたが、この時の人吉藩の場合、幕府の裁定では重臣が流罪にされただけで、大名の相良氏はお咎めなしでした。それはなぜでしょうか。
この場合、問題とされたのは重臣の横暴でした。事件後、他の家臣が藩主の下にまとまる姿勢を示したので、相良氏の統治能力には問題なしと判断されたのです。
幕府にとっては、大名が藩をきちんと統治していることが重要だったのであり、積極的に大名を潰そうとしていたわけではなかったといえるわけです。

職制の整備
  • 老中制
  • 将軍の一日
  • 役人の仕事の様子

続いてポイント(3)「職制の整備」です。
江戸時代の初期、家康から家光の治世前半には、将軍の側近が何人かでさまざまな仕事をこなしていました。
しかし、側近の権力が強まって幕府にとって不利益になる恐れがあったり、また、仕事が集中して政治が停滞することもしばしばあったりと、その欠点が目につくようになります。
家光もはじめは側近を通して政治を動かしていましたが、1637年から1年以上にわたって家光が重い病にかかってしまい、政治が停滞してしまいました。そこで、1638年までに「老中制」という仕組みを整えました。
老中は、4〜5人の大名が月代わりで業務を担当し、その下に権限を明確にした役職を置きます。ここで重要なことは、合議制であったということです。
そして特に重要だった役職は、三奉行=江戸の都市行政などを行なう「町奉行」、幕府の財政や直轄領を監督する「勘定奉行」、寺社を取り締まる「寺社奉行」です。寺社奉行は老中の管轄ではありませんでした。
以後、多少の変更はあったものの、基本的な組織は変わりませんでした。そして、次第に仕事内容がマニュアル化していきます。

具体的な例をみてみましょう。
中央は将軍の一日を図にしたものです。
将軍は、日の出のころに目覚めて身支度を整え、簡単な健康診断を受けた後、朝食を摂ります。
9時ごろに大奥に行き、代々の将軍の位牌を拝んだ後、妻や大奥の女中たちと挨拶をします。その後、政務を行なう場所に行き、午前10時〜午後1時は老中からの伺いを決裁するなどの政務を行ないます。老中制で各職を統括するのは老中の仕事でしたが、裁判の裁決など、最終的には将軍の許可(決済)を受けなければなりませんでした。
午後1時以降は原則として私的時間であり、朱子学の講義を受けたり、馬術・武術の稽古をしました。しかし、江戸後期になると決裁すべきことが多く、夕方まで仕事に追われることが多かったようです。
夕食を済ませると大奥へ行くこともありましたが、眠るときは1人。夜は読書をしたり、当直の小姓と話をしたりして、夜11時に就寝です。
このように将軍は、毎日半ば機械的に同じスケジュールをこなしていました。

最後に、下級役人の仕事の様子を描いた絵をみてみましょう。
上右の図は、民事訴訟を担当していた地方の役所の幕末の様子を描いたものです。
机に向かって座っている役人の武士たちと、訴状を持って訴えに来た町の人がいます。
下級役人たちの後ろにあるのは書類を綴じた本でしょう。役人たちは、過去の判例などが書かれた書類を参考にして、訴えの裁定を行なっていました。
その奥には、おそらくこれらの文書を保管している棚があります。過去にあったさまざまな訴えの内容と裁定の結果を保管していたのです。
このように、下級役人もマニュアル通りに仕事をこなしていた、つまり武士の官僚化が進んでいたということがわかります。
それによって仕事を効率的に行なうことができ、ひいては幕府政治の安定にもつながっていったのです。

次回は、江戸幕府の海外政策について見ていきます。

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