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日本史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:00〜2:20
※この番組は、昨年度の再放送です。

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今回の学習

第17回 第3章 近世社会の形成と庶民文化の展開

豊臣秀吉

  • 日本史監修:東京大学史料編纂所教授 山本 博文
学習ポイント学習ポイント

一.秀吉の全国統一 二.検地と刀狩 三.朝鮮侵略

今回の時代と三つの要
  • 今回は16世紀末頃の安土桃山時代
  • 秀吉がとった政策とは

今日のテーマである豊臣秀吉は、「太閤さん」や「太閤殿下」と呼ばれ、現在でも人気が高い歴史上の人物です。
以前学んだように、天皇を助けて政治を行う役職を「関白」といいます。そして関白の位を譲った後の人を「太閤」といいます。秀吉は関白まで上りつめ、太閤になったため、「太閤さん」と呼ばれるようになりました。

今回の時代は16世紀末頃、安土桃山時代です。
織田信長亡き後、秀吉はどのようにして天下を統一し、どのような政策をとったのでしょうか。


今回押さえるべき三つの要は、

一.秀吉の全国統一
二.検地と刀狩
三.朝鮮侵略

です。

太閤殿下と呼ばれ親しまれた秀吉の、統一事業を見ます。

高橋館長によると、織田信長には優秀な家臣がたくさんいたといいます。
本能寺の変の後、信長の後継者をめぐる争いが始まり、秀吉はそれらを勝ち抜いていくことになります。

要 其の一 「秀吉の全国統一」
  • 織田信雄・徳川家康を屈服させて信長の後継者に
  • 大阪に巨大な大阪城を築き城下町も発展する

1582年、織田信長が家臣の明智光秀に京都の本能寺で襲われ自害しました。
この時、秀吉は中国地方を支配する毛利輝元と戦っていました。事件の知らせを受けた秀吉は、ただちに戦いを止め、毛利氏と講和して京都に向かいます。そして、山崎の戦いで明智光秀を倒しました。

これをきっかけに秀吉は、たくさんの家臣たちの中から大きく抜け出し、信長の後継者としての地位を固めました。1584年には、小牧・長久手の戦いで信長の次男 織田信雄(のぶかつ)と徳川家康の連合軍と戦い、のちに屈服させます。

また秀吉は大坂に、大坂城を築きました。その大きさは、見る者を圧倒するほど巨大だったといいます。城の周りには城下町も作られ、大坂は日本の中心として賑わいました。

  • 高い官職を得て他大名を従わせた
  • 争いを止めない大名を攻撃

1585年、秀吉は公家の内紛に乗じて、天皇を助けて政治を行う関白に就任します。より高い官職を得ることで、他の大名を従わせようとしました。翌年の1586年には太政大臣にもなり、豊臣の姓があたえられました。

さらに秀吉は天皇の名で、大名同士が争うことを止めさせる命令を出し、これに従おうとしない大名には攻撃を加えました。
まず九州の島津義久を攻めて降伏させた後、小田原の北条氏を滅亡させます。さらに、伊達正宗ら東北地方の諸大名も降伏しました。これによって秀吉は、1590年に天下統一を成し遂げたのです。

  • 秀吉の経済基盤も天下統一に重要だった
  • 経済力を背景に金の大判まで作る

秀吉の天下統一の背景は、強大な軍事力だけではなく、経済基盤の整備も重要でした。

秀吉の第一の経済基盤は、征服のたびに設けた約200万石の直轄地です。そして大坂・京都・伏見・堺・長崎などの重要都市を支配して収入を得ました。さらに、佐渡金山、石見・生野銀山を支配しました。

これらの経済力を背景に、秀吉は金の大判、つまり貨幣まで作っていきます。
実物の大きさにコピーした金の大判は、「こんな大きなもので何を買うのか」とAKB48の3人が驚くほど大きいものでした。高橋館長によると、金貨としては当時 世界最大級の大きさであったこの大判は、物の売り買いではなく主に恩賞として使われたといいます。

さらに、秀吉は画期的な政策を打ち出していきます。

要 其の二 「検地と刀狩」
  • 太閤検地
  • 土地の生産力を米の量である石高で表した

平安時代から続く荘園制では、税を払う者と受け取る者とが1つの土地に何層にも重なり、複雑な関係にありました。
秀吉は、太閤検地によって荘園制度を解体していきます。

検地では、各地で田畑の広さや生産力、耕作者を詳細に調査しました。そして「一地一作人」を原則として、1つの土地の中で、税を払う者と受け取る者の関係を整理します。
これによって、耕作者から直接 税を納めさせることができるようになりました。当時の検地帳には、田畑の面積や、生産高とともに耕作者の氏名が記録されています。

また、征服した領地や降伏した戦国大名の領地にも検地を行い、土地の生産力を米の量である石高(こくだか)で表しました。大名の領地は石高であらわされ、これを基準に軍事を負担させました。これを石高制といいます。

  • 大仏建立を口実に百姓から武器を取り上げる
  • 身分統制令によりさらに身分の固定化

次に、秀吉が打ち出した政策が、刀狩です。
1588年、大仏建立を口実に刀狩令を出し、百姓たちから武器を取り上げて武力を奪いました。
1591年には、百姓が畑を放棄して商売をすることなどを禁止する身分統制令を出します。これによって、身分の固定化を進めました。

このような、戦闘のための兵士と、農作業に専念する百姓とを区別する政策を兵農分離といいます。

  • 山本 博文 先生
  • 荘園制の複雑な構造からシンプルに

平安時代から何百年も続いた荘園制の解体は、大胆な政策であったといえます。秀吉は、なぜそこまでして荘園制をやめようと考えたのでしょうか。

特別講師の山本 博文 先生(東京大学史料編纂所 教授)に話をうかがいます。
秀吉がどのような考えで太閤検地を行ったかを知る前に、まず太閤検地以前の土地制度である荘園制が、どのような構造であったのか確認します。

荘園とは、今の村のようなものだといいます。荘園の上には本所や領家という、荘園に対する権利を持っている人々がいました。
荘園の中には荘園を管理する荘官、土地を運営する名主、実際に土地を耕作する作人という人たちがいました。さらに、その荘園を守る地頭という武士もいました。
作人が作った米などは、これらのいろいろな人達に分配されました。荘園には非常に多くの権利が存在したのです。

ところが、秀吉が検地を行うことで、その構造を変えます(右図)。
実際に土地を耕作している人の名前を把握し、土地の権利を与えます。そして年貢は、その地域の領主に支払うという、すっきりとした関係にしました。
作人は、名主が作人になることもあれば、作人が権利を認められて作人になることもありました。
荘官や地頭は武装もしており、領主(武士)になって、作人と1対1の関係になります。

このように太閤検地は、間にいる人達が儲けて力を持つということを無くすものでした。そしてその結果 権利を最も失ったのは、本所や領家といった今までの公家や寺社であり、それまでの権利はほとんど無くなってしまいます。
それまでは金の儲け方がいろいろな所にありましたが、それが許されなくなるというのが太閤検地だったと、山本先生は話します。

また、刀狩りによっても社会が大きく変わりました。
刀狩以前は、荘園を守るために名主や作人も刀を持ち、武装していました。
しかし秀吉は、「作人は米さえ作っていれば、その土地は自分が守ってやる。だから刀はいらないだろう」という姿勢を取り、刀をすべて取り上げました。
没収した刀は、新しく作る大仏殿の釘やかすがいにして信仰に使うので、みな幸せに暮らせるであろうという建前でした。
こうすることで、農民は刀を持たずに耕作に専念し、刀を持つ人は武士として戦いに専念するとういう、シンプルな社会になっていったといいます。

要 其の三 「朝鮮侵略」
  • 文禄の役で朝鮮侵攻
  • 各地で抵抗を受ける

秀吉は、早くから大陸への出兵の方針を表明していました。
天下統一後、秀吉は朝鮮に対し、日本への朝貢と中国・明への進撃の協力を求めます。
しかし朝鮮は、これを拒絶します。そこで1592年、秀吉は朝鮮におよそ15万の大軍を送って侵略戦争を開始します。文禄の役と呼ばれる戦いです。

釜山に上陸した日本軍は、各地に軍を展開し、朝鮮の都である漢城(現在のソウル)を落とします。
しかしその一方で、各地で義勇兵が蜂起し、日本の兵士を悩ませました。
また海上では、朝鮮水軍を率いる李舜臣(りしゅんしん)が日本の水軍を破り、制海権を奪い返します。

そして明から援軍が到着して攻撃を開始すると、日本の軍は劣勢となり、戦局は次第に不利になっていきました。
秀吉は、明との講和交渉のため休戦しますが、交渉は決裂します。

  • 講和交渉が決裂し、再度侵攻
  • 秀吉の病没により全軍が撤兵

1597年、秀吉はおよそ14万の軍勢で朝鮮半島に再攻撃を開始しました。慶長の役と呼ばれるこの戦いでは、苦戦を強いられました。

翌年、秀吉が病によって死去し、戦いは終結に向かうことになりました。
これを受けて、秀吉を補佐した徳川家康などの五大老と石田三成などの五奉行が、全軍を撤兵させました。

  • 秀吉は寧波が貿易ネットワークの中心だと知っていた
  • 当時の日本は陶器作りの技術がまだ弱かった

秀吉の、朝鮮や明への侵略の意図は、どのようなものだったのでしょうか。

山本先生によると、1つは、天下統一によって日本全国が秀吉のものになり、朝鮮や明に領地を増やそうというものだったといいます。
もう1つは、貿易ネットワークを狙ったものです。秀吉は明を従わせて北京まで行き、さらに寧波(ニンポウ)に行ってこの地域を支配すると言っていたといいます。
寧波は、東シナ海の貿易ネットワークの中心でした。つまり九州から朝鮮、中国、台湾周辺の海上の貿易ネットワークすべてを手に入れ、東アジアの海洋帝国を作ろうとしたという新しい説も出ているといいます。
秀吉は、当時日本に来ていたポルトガル人やスペイン人から、その地域の情報を得ていたと考えられているそうです。

山本先生 「ここが一番富の源泉であり、日本の柱になる地域だと考えたんじゃないかと思うんです。しかし実際は北京を攻めて、こういう帝国を作る前段階で、朝鮮で非常に大きな抵抗を受けたわけです。当時の日本では陶器を作る技術が遅れていたため、朝鮮人の陶工を日本に連行したりするなど、朝鮮の人々へ大きな被害を与えます。

  • 朝鮮出兵は豊臣政権の没落を早めた

山本先生 「また日本からも、多くの人が出兵していきました。特に、物を運ぶのは皆 百姓であったため、国内では田を耕す人が徐々に減って耕地は荒廃していきます。なおかつ戦闘は苦戦していますので、戦いに行った武将達の間に反目が生まれて関係が険悪になっていきます。結局、朝鮮侵攻が豊臣政権の没落をはやめてしまう1つの大きな要因になるわけですね。」

高橋館長 「この戦いは結果的に見ると、両国にとっていいことは1つもない。」

山本先生 「今でも朝鮮侵略については批判されている面はあります。秀吉はちょっと想像力が足りなかったところがあるかもしれませんね。」

日本の歴史 いとをかし
  • 高貴な血筋でなくても皆が従うように

下剋上の時代と言われた戦国時代における「非常に大きな変化」について、引き続き山本先生に話をうかがいます。

戦国時代以前の武家の棟梁は、鎌倉幕府・室町幕府ともに清和天皇の子孫である貴種であり、そのように高貴な血筋でないと武士も従おうとしなかったといいます。しかし信長以降は、皇族の血を引いていない者であっても、みなが従うようになりました。

山本先生 「太閤さまの出世物語は、足軽から始めて信長の草履取りになり、武将になって、今度は天下を統一するわけですからね。社会の構造が、ここで変わるので、これは日本の近代国家の始まりと言っていいぐらいの大きな変化だと思うんですね。」

  •  当時の日本は世界的に金銀がたくさん産出された
  • 次回もお楽しみに〜

高橋館長 「でも“武”というのは力が強くて相手を倒すための武もあるけど、ここに出てきた信長とか秀吉は、ある意味お金ですね。」

山本先生 「そうですね。武というのは、経済がないと兵も養えないし鉄砲も買えない。だから富を握った者が強くなるという側面があるんですね。」

高橋館長 「それで大判といったものが出てくるわけですよ。」

山本先生 「この頃の日本は、金銀がざくざく出てくる時代だったんですね。社会に金銀が溢れ、日本は世界的にも金銀が豊富な土地だということで、ポルトガル人なんかもやって来るわけですね。」

高橋館長 「黄金の国、ジパングですね。」

山本先生 「それだけの経済力を誇って、それを握ったのが信長であり、秀吉であったわけなんですね。」


それでは、次回もお楽しみに〜!

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