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※この番組は、2019年度の新作です。

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今回の学習

第16回 第2章 武家社会の形成と生活文化のめばえ

下剋上の社会と戦国大名

  • 監修講師:成城学園中学校高等学校教諭 楠木 武
学習ポイント学習ポイント

下剋上の社会と戦国大名

歴史を語り合う茶屋、歴カフェ。
日本史が大好きな店員、小日向えりさんのもと、歴史好きの平野詩乃さん、市瀬悠也さんが集まってきました。

今回の時代は、室町時代半ばから終わりにかけて。
この時代を代表する出来事といえば、「応仁の乱(おうにんのらん)」です。
将軍家で「家督相続(かとくそうぞく)」の争いが起こると、守護大名たちが次々と両陣営に加わり、44か国・27万人が参戦。
京都を主戦場とした戦いは11年に及び、町の大半が焼失してしまいました。
その戦いの主役となったのは、実は農民兼武士という、新たに登場した人々だったのです。
今回のテーマにせまる3つのポイントは「惣と一揆」「下剋上の風潮」「戦国大名の出現」
応仁の乱の前後で、社会はどのように変わっていったのか、見ていきましょう。

えり 「11年間に渡って27万人が戦ったからね!そして、その主役として活躍したのは、『足軽(あしがる)』と呼ばれた人たちです。かぶとなどはかぶらず軽装で機動力に富んでいて、守護大名に雇われて戦場を走り回り、略奪や放火を繰り返しました。実はこの人たち、京都周辺の地侍(じざむらい)、農民兼武士だったんです。」

惣と一揆

鎌倉時代以降、農業技術は大きく進歩しました。
やがて力をつけた農民は、守護(しゅご)大名などと主従関係を結び、侍の身分を獲得するようになりました。
これを「地侍(じざむらい)」といいます。
地侍が中心となって、農民たちは自分たちの村を形成するようになります。
このような村を「惣(そう)」と呼びます。
惣では寄合を開いて掟を定め、自治に関するさまざまなことを決定しました。

滋賀県東近江市にある、今堀日吉(いまぼりひよし)神社。
ここに伝わる中世からの古文書の中に、惣の掟についての記述があります。
1489年に定められた、20項目の掟。
その代表的なものを見てみましょう。
「村人が惣から屋敷を借り請けて、村人でない者を住ませてはならない。」
「惣の共有地と個人の私有地との境界についての争いごとが起こった場合は、金銭で解決すること。」
掟には惣に属する人々が団結するためのルールが、細かく定められていました。


えり 「今堀日吉神社文書の惣の掟には、もうひとつユニークなものがあります。
『犬を飼ってはならない。』
日吉神社は猿を神の使いと考えているので犬と猿は相性が良くないから禁じたという説と、もう一説は、村人が闘犬を行って賭博(とばく)に発展するのを禁じた、とも考えられています。」

悠也 「惣を作ることで農民が団結したのはわかったけど、戦に参加することにつながるかな?」

詩乃 「一揆でますます強くなって、自信つけたんだよ!」


詩乃さんが、当時の資料が沢山残っているという奈良にやってきました。

惣の農民たちは強い連帯意識で結ばれていました。
年貢を減らしたり悪い代官を辞めさせるために、一揆などの実力行動を取るようになったのです。


名勝 旧大乗院(きゅうだいじょういん)庭園には、日本で最初といわれる農民たちの一揆の記録が伝えられています。

植田さん 「室町時代の住職・尋尊さんという方が、過去の日記を編さんしたものに『正長(しょうちょう)元年9月、天下の土民(どみん)蜂起(ほうき)す』と記されています。土民とは農民のことで、農民が土一揆(つちいっき)を起こしたということです。『徳政(とくせい)と号し、酒屋(さかや)・土倉(どそう)・寺院等を破却(はきゃく)せしめ、雑物(ぞうもつ)等恣(ほしいまま)にこれを取り、借銭等悉(ことごと)くこれを破る。』とあり、徳政とは借金の帳消しということで、これを唱えて一揆を起こしたということです。ちょうどこのときが正長元年ですので『正長の土一揆(しょうちょうのつちいっき)』といわれています。」

正長の土一揆は1428年、京都周辺諸国の地侍や農民が、酒屋や土倉、寺院を襲撃し、借用証文(しょうもん)を焼き、質物(しちもつ)を奪い返して、実力による徳政を行ったものです。
一揆の主役である農民たちは、勝利の宣言を意外な場所に記していました。

詩乃 「碑文(ひぶん)ですね。」

石の一部に文字が彫られています。
「正長元年より以前に関しては、神戸四か郷には負債がない」という意味です。
正長の土一揆で徳政を勝ち取った農民たちが、それを記念して刻んだ碑文。
農民たちは、こうして団結力を強めたのです。

詩乃 「惣で団結力をつけて、土一揆で戦闘能力も身につけた。だから農民が応仁の乱の主役になったんだよ。」

下剋上の風潮

悠也 「応仁の乱の後、世の中はどうなっていったんだろう?」

えり 「足軽たちが略奪や放火を繰り返したおかげで、京都の町は大半が焼失してしまいました。これによって幕府は衰退したけど、一方で守護大名たちにも変化が起こります。そもそも彼らは自分の国を離れて京都に赴任していたんだけど、故郷には代わりに守護代(しゅごだい)という人を置いてたの。そして守護大名が京都で戦っている間に、その守護代や、有力な家臣が力を伸ばして、国の実権を握っちゃったわけです。こういうのを何というでしょう?」

悠也・詩乃 「『下剋上(げこくじょう)』!」

えり 「ご明察!下の者が上の者に取って代わったわけです。しかも下剋上が起こったのは武士だけじゃないの。」

広い地域の住民たちが、力を合わせて守護大名に立ち向かう。
これを「国一揆(くにいっき)」といいます。
代表的なのが、「山城の国一揆」です。
南山城(現在の京都府南部)では、応仁の乱の後も守護大名の畠山(はたけやま)氏が義就(よしなり)と政長(まさなが)の両軍に分かれて家督をめぐる対立を続けていました。
そこで立ち上がったのが、「国人(こくじん)」と呼ばれる、広域を支配する中小武士団のリーダーたちでした。
国人たちは集会を開くと、その結論を畠山氏に突きつけたのです。
「今後、両畠山氏は山城国へ入ってはならぬ」
「新しい関所など一切立ててはならぬ」
これは関所を通るたびに通行料を支払うのを避けるためです。
要求を聞かされた両畠山氏は、国人たちの力に押されて退去。
南山城では国掟(くにおきて)を定めて、8年近く国人たちによる自治を行ったのです。

「一向宗(いっこうしゅう)」と呼ばれる、浄土真宗の僧や門徒の人々が蜂起して守護大名に立ち向かう、「一向一揆(いっこういっき)」
当時発生した一揆の中でも、一向一揆は畿内や北陸、東海など、広い範囲で起こりました。
中でも有名なのが、加賀の一向一揆です。
1488年、一向宗門徒の国人たちが、彼らを弾圧した守護大名を倒し、その後100年近く国内を支配したのです。

このように国一揆や一向一揆が頻発することで、守護大名の多くは没落しました。
代わって登場したのが『戦国大名』だったのです。

戦国大名の出現

えり 「当時100を超える戦国大名が群雄割拠していたんですが、そのタイプは大きく3つに分かれます。
1つ目は、守護大名から成長したタイプ。『武田氏』『今川氏』『大友氏』『島津氏』などです。
2つ目は、守護代が下剋上を行ったケース。上杉氏や朝倉氏、織田氏もそうです。
3つ目が、国人から戦国大名になったケース。毛利氏がこのタイプです。
こうした戦国大名たちが、およそ1世紀に渡って天下の覇権を争って戦っていったのが『戦国時代』なんです。」


戦に勝つことで戦国大名の領地は広がっていきました。
すると国人、地侍、農民など、さまざまな人間を統治するための地域の法令が必要になります。そこで作られたのが、「分国法(ぶんこくほう)」です。

甲斐の武田氏は、それまで慣習的に認められていた決闘や私闘を、法で禁止しています。
「喧嘩についてはどちらが良いか悪いかにかかわらず、罪科(ざいか)に処す」

駿河の今川氏は、家臣が敵国と通じることのないように手を打っています。
「駿河(するが)・遠江(とおとうみ)両国の今川氏の家臣たちは、自分勝手に他国から嫁をもらったり、婿を迎えたり、娘を嫁にやることは今後禁止する」

分国法のおかげで、新たに町が形成されるケースもありました。
越前の朝倉氏の分国法です。
「すべて領地を多く持つ有力家臣たちは、みな一乗谷(いちじょうだに)の城下へ引っ越し、郷村の所領には、ただ代官だけを置くようにしなければならない」
家臣たちを集合させたこの法令によって、一乗谷は「城下町」として大いに発展しました。
谷のほぼ中央に朝倉氏の居館があり、川沿いに武家屋敷や、商工業者の集まる町屋が計画的に配置されました。
一乗谷はおよそ100年に渡って繁栄を続けたのです。
こうした城下町が戦国時代に数多く生まれました。
水陸交通の発達によって、「港町」「宿場町」も盛んになっていったのです。

日本史なるほど・おた話〜室町・戦国時代の裁判

日本史のおもしろくてためになる話。
今回は楠木武先生に伺います。

楠木先生 「今回見てきた時代は、惣が掟を作ったり国一揆が結ばれたり、自分たちのことは自分たちで守るぞ、というような時代でしたよね。こんな時代に、民衆はどうやって自分たちの秩序を守ろうとしたのか、当時の裁判について見てみたいと思います。」

「もちろん、お奉行様のような役人が来て裁くこともあったかと思います。でもどうしても白黒がつかない、そういう問題を決めるときに、実は神様に決めてもらったんです。」

「当時、よく行われたのが『湯起請(ゆぎしょう)』というやり方でした。例えば、2人が争いを行います。どちらも1歩も譲らないような場合、2人が煮えたぎる熱湯の中に手を突っ込んで、中に落ちている小石を拾うんです。悪いほうには神様がやけどを負わせます。悪くないほうは神様のご加護がありますから、やけどは軽いはずですよね。」

詩乃 「いやいや、2人とも絶対大やけどですよね。」

楠木先生 「戦国時代も末期になりますとこれがさらにエスカレートするような形式が生まれます。『鉄火起請(てっかぎしょう)』といいます。」

「悠也村と詩乃村が隣り合っています。代々領地をめぐって争ってきました。詩乃村代表の詩乃さん、詩乃村の領地はどこまでですか?」

詩乃 「やっぱり、広いほうがいいからこの辺りまで私の村です!」

楠木先生 「対する悠也村代表の悠也さん、悠也村の領地はどれくらいでしょうか?」

悠也 「やっぱり、ここらへんは譲れないかな。ここまで僕の村のものですから!」

えり 「領地がかぶってますね。」

楠木先生 「これは、どちらの言い分が正しいのでしょうね。そういうときに行われたのが鉄火起請です。真っ赤に焼けた鉄の棒を使います。」

悠也 「すごく熱そう。」

楠木先生 「では悠也村からいきましょう。まず牛王宝印(ごおうほういん・神社や寺から出される厄よけの護符)を悠也さんの手にのせてください。これがあれば神様が守ってくれます。次に、その真っ赤に焼けた鉄の棒を、悠也さんの手の上に置きます。」

悠也 「いやいや、無理ですよ!」

楠木先生 「今から見ると野蛮なやり方に見えますけれども、戦乱の状況の中で、神様のお告げという形を使って秩序を安定させる、これもいわば自力救済の社会の中での民衆の知恵だったと言えるかもしれませんね。」


それでは次回もお楽しみに!

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