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Eテレ 毎週 金曜日 午後2:00〜2:20
※この番組は、2014年度の新作です。

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今回の学習

第12回 第2章 武家社会の形成と生活文化のめばえ

モンゴル襲来

  • 日本史監修:成城学園高等学校教諭 楠木 武
学習ポイント学習ポイント

一.モンゴル帝国 二.モンゴル襲来 三.御家人社会の変化

今回の時代と三つの要
  • 今回は13世紀後半
  • 日本の歴史上初めての外国軍の侵入

「モンゴル襲来」は、日本が歴史上初めて本格的な外国軍の侵入を経験した事件です。
モンゴルといえば、大草原でテントのような家で移動生活をする遊牧民や、力士というイメージがあるというAKB48の三人。
モンゴル相撲と言われる格闘技があり、日本でもモンゴル出身の力士が活躍しています。
またモンゴルの遊牧民族の人々は、大草原を移動するための乗馬の技術が、非常に高いといいます。
ところが そんな彼らが、今から約700年前の鎌倉時代、日本に攻めてきたことがあります。

今回は、13世紀後半、鎌倉時代の中頃から終わり頃にかけての時代を見ていきます。
この時代、大陸では大帝国のモンゴル帝国が出現します。13世紀後半、モンゴル帝国の支配拡大の波は、日本にも押し寄せます。
その時日本は、どのように対処したのでしょうか。また、これによって社会は、どのように変化していったのでしょうか。

今回押さえるべき三つの要は、

一.モンゴル帝国
二.モンゴル襲来
三.御家人社会の変化

です。

歴史上、初めて本格的な外国勢力の侵入を受けた日本の姿を見ます。
当時の日本は、本格的な外国勢力との戦いは、白村江(はくすきのえ)の戦い以来です。

「彼を知り己を知れば百戦危うからず」という言葉があるように、まず相手のことを知る必要があると話す高橋館長。
はじめに、モンゴル帝国について見ていきます。

要 其の一 「モンゴル帝国」
  • 人類史上最大の規模だったモンゴル帝国
  • 北京に大都を築き、国号を「元」とする

中国大陸北部に広がる大草原地帯に、13世紀の初め、遊牧狩猟民族の中の1つの部族であるモンゴルが興ります。1206年、部族を統一し、モンゴル帝国を築いたのがチンギス・ハンです。その領土は、最盛期には東アジアからヨーロッパ東部まで、東西9千キロにも及ぶ人類史上最大の規模でした。
1234年、中国北部にあった金を滅ぼしたモンゴル帝国は、1259年には朝鮮半島の高麗を支配下におきます。

そして、チンギス・ハンの孫にあたるフビライ・ハンが、1260年に5代目の皇帝になります。フビライは現在の北京の地に大都という都を築き、1271年には、国号を中国風の「元」に改めます。

  • 南宋の関係国を支配下に収めていく元
  • 元の支配の波が日本にも押し寄せる

当時、中国の南半分を支配し、勢力を維持していたのが南宋です。フビライは、この南宋の征服を推し進めようとしていました。まず、南宋と通商関係をもつ地域を支配下に置いていきます。やがて、その支配の波は、日本にも押し寄せてきました。

1268年、元が支配下におく高麗の使者を通して、フビライの国書が鎌倉幕府に届きます。その内容は、日本と友好関係を結んで交流したいというものでした。
しかし、その最後には「兵力を用いるのは、誰が望むだろう」とも書かれていました。

  • 元は脅迫じみた国書で日本に朝貢を求めた

スタジオに用意した国書の写しを、詳しく見てみます。
末尾の一節には、

「問を通じ好(よしみ)を結び、以(もっ)て相(あい)親睦せん」
(訪問し合って友好を結び、親睦を深めよう)

とあります。
しかし、さらに最後には、

「至用兵、夫孰所好」
 ↓
「兵を用いるに至りては、夫(そ)れ孰(た)れか好む所ならん」
(兵力を用いるのは、誰が望むだろう)

と結んでいます。

これは親睦しようという提案ですが、「お互い望まないと思うが、親睦を結ばないのなら兵を送るつもりだ」という脅迫と受け取れます。

このように、日本に朝貢を求める元の国書に、鎌倉幕府はどう対処したのでしょうか。

要 其の二 「モンゴル襲来」
  • 18歳で執権に就任した北条時宗
  • 文永の役が始まり、対馬と壱岐が元に襲われる

フビライの国書に返書を送らないまま、鎌倉幕府では、北条時宗が18歳の若さで第8代執権に就任します。
一方、フビライは、合計5回にわたって国書と使者を送ってきました。これに対し、時宗はことごとく無視を続けました。

1274年10月、元と高麗の連合軍が軍船900隻、兵士3万の規模で対馬沖に現れました。文永の役と呼ばれる戦いの始まりです。
元軍は、圧倒的な武力で対馬・壱岐を次々と襲っていき、ついに博多湾に姿を現します。

  • 一斉に上陸を開始する元軍
  • 名乗りを上げて1対1で戦おうとする武士

幕府は九州の御家人たちを動員して、襲来に備えていました。

しかし元軍が一斉に上陸を開始すると、初めて外国兵士と戦う武士たちは、戦い方が全く違っていたために大混乱に陥ります。
武士たちは、「やあやあ、我こそは・・」などと国内での戦のように名乗りを上げ、一対一で戦おうとします。
一方、元軍は名乗りもせず、集団となって一斉に襲いかかってきました。

  • てつはうという爆弾も驚異的な武器だった
  • 博多は陥落するも翌日には元軍は撤退

勝手の違う戦い方に苦戦する武士たちを、さらに驚かせたのは元軍の使う武器でした。
「てつはう」という爆弾が、次々と武士たちを襲います。
この「てつはう」は、火薬が爆発すると鉄のかけらが飛び散る、恐ろしい武器でした。

こうして元軍の戦法に圧倒され、武士たちは退却しました。元軍の兵士は博多の町に突入して火を放ち、その日のうちに、博多は陥落しました。
ところが、翌朝退却していた武士たちは、驚くべき光景を目にします。元軍が、博多の町から忽然と姿を消していたのです。

元の歴史書には、その理由について、「元の軍勢は矢が尽きたため、あちこちで略奪だけして撤退した」と記されています。

  • 元軍の再来に備えて石の防塁を築いた
  • 御家人でない武士も幕府の指揮下に

時宗は、元軍が再び襲ってくることに備えました。

まず、博多湾沿岸などを御家人に警備させる「異国警固番役(いこくけいごばんやく)」を強化します。さらに、元軍の上陸を阻止するため、高さ、およそ3mの石の防塁を20kmにわたって築きました。

また、朝廷や有力寺社に従う、御家人でない武士も幕府の指揮下におきました。

  • 1281年、圧倒的な軍事力で日本に進軍を始める

1279年、フビライは南宋を滅ぼし、中国全土を支配下に治めました。そして、中国南部の貿易都市・泉州などで、日本を再び攻めるための軍船を作り始めます。

1281年5月、高麗から東路軍4万、中国の沿岸からは江南軍10万、総兵力14万、軍船4400隻が日本へと出発しました。そして6月、900隻の軍船とともに東路軍が博多湾に姿を現します。

  • 射程距離が長い弓矢で応戦する日本の武士
  • 夜陰に乗じて奇襲

準備を進めてきた武士たちは、射程距離の長い弓を使って水際で戦い、上陸を阻止します。また、夜陰に乗じて小舟で忍び寄り、奇襲攻撃をかけました。

行く手を阻まれた東路軍は、いったん退き、海上で体制を立て直そうとします。

  • 江南軍が合流した元軍を暴風雨が襲う

7月になり、ようやく江南軍が到着し、東路軍と合流します。ところが、出撃しようとしていた元の艦隊を暴風雨が直撃します。

この大自然の猛威によって元軍の大半の船が沈み、兵士たちの多くが溺死しました。
弘安の役と呼ばれる戦いは、こうして終わりました。
文永の役と弘安の役の、二度のモンゴル襲来を元寇ともいいます。
こうして日本は、危機を乗り越えたのでした。

元は三度目の遠征も計画していましたが、元の支配に対する中国民衆の反乱やベトナムの抵抗などがあり、これが実現することはありませんでした。
しかし、二度のモンゴル襲来の影響は、日本の社会を大きく変えることになります。

要 其の三 「御家人社会の変化」
  • 北九州の警固は御家人にとって負担が大きかった
  • 得宗家の力が強くなる

鎌倉時代後期に描かれた「蒙古襲来絵詞」という絵巻物があります。肥後の国、現在の熊本県の御家人、竹崎季長(たけさきすえなが)が元軍の兵士相手に奮戦する物語です。

季長は、文永の役で手柄を立てれば所領を手に入れられると、勇んで戦いました。ところが、手柄が鎌倉に正確に報告されていないことが分かりました。
季長は文永の役の後、自ら鎌倉に向かい直訴し、その甲斐あって故郷近くの地頭に任じられました。
しかし季長とは違い、元軍と戦った西国の御家人の多くは、重い負担にもかかわらず十分な恩賞をもらえず苦しみました。
三度目の襲来に備える、北九州の警固は、御家人にとって大きな負担でした。小さな所領の武士の中には、所領を質に入れたり売ったりする者が現れるようになりました。

モンゴル襲来は、御家人が元軍をくい止めただけでモンゴルからは何も得られず、幕府には与えられる所領がありませんでした。戦やその備えの費用は全て御家人の自前であったため、御家人たちは非常に困窮しました。
その一方で、幕府では、得宗(とくそう)の力が強くなっていきます。得宗とは、北条氏の本家、嫡流のことです。

  • 全国の守護職の半数以上が北条氏
  • 負担ばかりで所領を得られなかった御家人に不満がたまる

モンゴル襲来後の、諸国に置かれた守護を務める一門の図を見てみます。
この図からは、全国の守護職の半数以上を、北条氏が占めていることが分かります。また、モンゴル襲来に備えて設置した「鎮西探題(ちんぜいたんだい)」のトップにも、北条氏の一族を送り込みました。
こうして北条氏、中でも得宗は強大な権力を握るようになりました。

当時はモンゴルの脅威に対処するためもあり、幕府、つまり得宗が権力を集中させて支配を強めていこうとしました。
しかし、このことは幕府に対する御家人の不満が高まっていくことにもつながっていきます。

日本の歴史 いとをかし
  • 成城学園中学校高等学校 教諭 楠木 武 先生

今回は、特別講師の楠木 武 先生(成城学園中学校高等学校 教諭)にお越しいただきました。
モンゴル襲来後の政治と社会について、話をうかがいます。

  • 博多の筥崎宮
  • 神仏の力で敵国を降参させるという意味

モンゴル襲来の激戦地、博多には筥崎宮(はこざきぐう)という神社があります。
その楼門にある へん額には、「敵国降伏」と書いてあります。これは相手の国を降伏させようとする、意思表示です。

楠木先生 「当時は、おそらく降伏を『ごうぶく』と読んだのだと思いますが、神や仏の力で敵国を降参させるというような意味合いがあります。筥崎宮では、夜中神様の化身が突然現れ、矢を一斉に放って海の上のモンゴル軍を撃退したという言い伝えがあります。神仏を深く信じる当時の人々の感覚からすると、こうした神々の活躍というのは説得力があったのでしょう。」

高橋館長 「だから、あの当時吹いた暴風雨を『神風』と呼んだのですね。」

楠木先生 「こうして『神風によって日本が勝利した』という観念が広がっていきます。すると武士と同様、お寺や神社の神様や仏様も戦いましたから、寺社も当然幕府に対して恩賞を要求します。」

高橋館長 「神様が恩賞を求めたんですか?」

楠木先生 「そうなんです。幕府も寺社から恩賞の要求があれば、これに対応せざるをえません。」

高橋館長 「恩賞といっても、どうするんですか?」

楠木先生 「そこが問題で、新しく得た領地がありませんよね。結果として、寺や神社がかつて持っていた権利を取り戻させるという形が多かったんです。すると、それまで権利を持っていた人たちの権利が否定されてしまう場合が出てきます。権利を否定された人たちは、当然、自分たちの権利を主張しますね。」

高橋館長 「『冗談じゃないよ。そこは、うちのもんだよ』と。」

  • 元寇を期に出た不満分子が後に倒幕運動に関わる
  • 次回もお楽しみに〜

楠木先生 「すると、権利を否定されてなお主張する者に対して『こいつらは言うことを聞かない悪党だ』といって寺社側が訴え出るというようなトラブルが激増しました。軍事警察の担当である幕府としては、悪党だという訴えがあれば、これを弾圧せざるをえません。」

AKB48 「ひどい、かわいそう。」

高橋館長 「これは黙っていられないですね。」

こうした不満分子が、後に倒幕運動に関わってくると、楠木先生は話します。長い目で見ると、モンゴル襲来は鎌倉幕府の滅亡にも大きな影響を与えたと言えるかもしれません。

高橋館長やAKB48の三人は、神仏が権利を主張する時代が厳然とあったということに驚いた様子です。


この後、倉幕府はどうなっていくのでしょうか。
それでは、次回もお楽しみに!!

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