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※この番組は、昨年度の再放送です。

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今回の学習

第10回 第2章 武家社会の形成と生活文化のめばえ

鎌倉幕府の誕生

  • 日本史監修:東京大学史料編纂所教授 本郷 和人
学習ポイント学習ポイント

一.源平の争乱 二.封建制度 三.幕府の成立時期

今回の時代と三つの要
  • 源頼朝が開いた鎌倉幕府
  • 今回は12世紀末の時代

今日の教室は、合戦の時に陣営を飾った陣幕が張ってあり、いつもと雰囲気が違います。
陣幕は漢語、つまり中国の言葉で「幕府」といいます。
この「幕府」という言葉が、後の世に武家政権を指す言葉になっていきます。

今回の時代は12世紀の末、平安時代末期から鎌倉時代です。
源頼朝が鎌倉に幕府を開き、およそ700年にわたる武士の政権が始まります。
「1192(いいくに)作ろう鎌倉幕府」とは有名な語呂合わせですが、鎌倉幕府の成立時期については、様々な説があります。

今回押さえるべき三つの要は、

一.源平の争乱
二.封建制度
三.幕府の成立時期

です。

前回は平清盛による武家政権の確立を学びましたが、今回は武士による幕府の誕生を学びます。
まずは平清盛が後白河法皇を閉じこめ、平氏が強大な実権を握った時代から見ていきましょう。

要 其の一 「源平の争乱」
  • 平清盛は3歳の孫を安徳天皇として即位させる
  • 後白河法皇の皇子と源頼政が平氏打倒の呼びかけ

1180年、平清盛は娘徳子と高倉天皇の間に生まれた3歳の孫を、安徳天皇として即位させます。
このことで、自分が天皇になる可能性がなくなった人物がいます。後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)です。
以仁王は、源氏の中でひとり中央政界に生き残っていた源頼政(みなもとのよりまさ)とともに平氏打倒に立ち上がり、諸国に挙兵を呼びかけます。

  • 呼びかけに応えた源頼朝
  • 1180年富士川の戦いで平氏を破った頼朝

その呼びかけに応えた者の一人が、源頼朝(みなもとのよりとも)です。 1180年10月、頼朝は富士川の戦いに臨み、平氏の大軍を破りました。水鳥の飛び立つ音を、平氏たちは源氏の軍勢と間違えて逃げたと言われています。

その翌年の1181年、平清盛は、病で世を去ります。

  • 頼朝のいとこの義仲が平氏に勝利
  • 源義仲は平氏軍を破り都に入るも後白河と対立

1183年5月、倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで平氏に勝利したのは、頼朝のいとこの源義仲(みなもとのよしなか)です。

義仲は平氏を都から追いやりますが、清盛の死後、院政を復活した後白河法皇と対立するようになります。

  • 頼朝の弟である義経が義仲との戦に派遣された
  • 義経は平氏との戦いに勝ち続けた

義仲は、1184年1月、宇治川の戦いで同じ源氏と戦います。
この戦いに頼朝の弟、源義経(みなもとのよしつね)が司令官として派遣され、義仲を滅ぼします。

義経らが率いる源氏の軍勢は、1184年2月に一の谷の戦い、1185年2月に屋島の戦いと勝ち続けます。
決戦となったのは1185年3月、壇の浦の戦いです。

  • 源氏と平氏の激しい戦い
  • 清盛の妻は安徳天皇を抱いて入水

壇の浦の戦いの舞台は、本州と九州の間にある関門海峡でした。源氏と平氏の激しい戦いの末、平氏軍は総崩れとなります。

観念した清盛の妻は、孫に当たる幼い安徳天皇を抱いて海に身を投げます。平氏一門も次々と海に沈み、壇の浦の合戦で平氏は滅亡します。

  • 義経は奥州の藤原秀衡のもとに逃げ延びた
  • 源平の乱は、全国規模の内乱だった

しかし、内乱はこれで終わりませんでした。今度は源氏の中で、頼朝と義経の兄弟が対立を深めていきます。

義経は、少年時代を過ごした奥州平泉の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)のもとに身を寄せます。しかし頼朝の圧力を受けた秀衡の息子、泰衡(やすひら)との戦いの末、自害してしまいます。

1189年、頼朝は義経をかくまったことを理由に、大軍を率いて奥州を征服します。これによって、頼朝は東国の広い範囲を支配下に置きます。

この一連の争乱は源平だけの戦いではないことから、乱が起きた主な年号から「治承(じしょう)・寿永(じゅえい)の乱」とも呼ばれています。宇治川の戦いでは源氏同士、そして源氏と奥州藤原家など、全国規模の内乱だったことが分かります。

源氏が平氏に勝ったのは、東国の武士たちを配下に置いたことが大きかったと高橋館長は話します。東国の武士は馬の扱いに優れ、東北で起きた様々な反乱を鎮圧してきました。

では頼朝は、どのように東国の武士たちを配下に置いたのでしょうか。

要 其の二 「封建制度」
  • 東国における全盛期の平氏の勢力
  • 頼朝の拠点の鎌倉は攻めにくい土地

頼朝は、東国の武士たちが命をかけて守っていた「土地」に注目しました。

平氏全盛の頃、その勢力は東国にも及び(左図)、多くの武士が先祖代々の土地を脅かされていました。
以仁王の呼びかけを受けた時、頼朝は東国の武士たちに、「東国の支配は、私に任されている。おまえたちが土地を所有する権利は私が守る」と伝えます。この頼朝の言葉に、東国の武士たちはひきつけられ、頼朝に味方する者は増えていきました。

1180年、頼朝は鎌倉を拠点とします。鎌倉は、南は海に面し、三方を丘陵に囲まれた攻めにくい土地でした(右図)。

  • 鎌倉に作った大蔵御所が幕府と呼ばれた
  • 東国の武士は、頼朝を鎌倉の主と認めた

頼朝は鎌倉市内に新しく作らせた大蔵の屋敷に入りました。この屋敷が大倉御所、つまり幕府と呼ばれました。

頼朝に味方した東国の武士たちは、頼朝を「鎌倉の主」とし、自分たちのリーダーだと認めます。

1192年、頼朝は朝廷から、征夷大将軍に任命されます。

  • 土地を間に挟んだ、将軍と御家人の契約的な主従関係を封建制度という

頼朝は、将軍直々の家来となる武士を特に御家人と呼びました。御家人を、主に荘園などの管理者である「地頭」に任命することで土地の支配を保障したり、戦の功績に応じて土地を与えたりしました。これを御恩といいます。
御家人はこの御恩に対して、戦があれば戦場におもむき命がけで戦い、朝廷や幕府の警護にもあたりました。これが奉公です。


このように、主人と従者が土地を仲立ちとして、ご恩と奉公によって結ばれる制度が封建制度です。
つまり将軍と御家人の関係は、御恩に対して奉公で報いるというものでした。

御恩において、土地の支配を保証することを本領安堵、報酬として新しい土地の支配権を与えることを新恩給与といいます。
将軍と御家人は土地を間に挟んだ、契約的な主従関係にありました。

1192年(いい国つくろう)は、頼朝が征夷大将軍に就任した年でしたが、鎌倉幕府の成立には、他にも説があります。

要 其の三 「幕府の成立時期」
  • 1185年、諸国に守護・地頭を置く権限を朝廷に認めさせる
  • 1190年、朝廷から右近衛大将を任じられた

鎌倉幕府の成立時期は一体いつなのか、頼朝の足跡を辿ってそれぞれの説を見ていきます。

1. 1180年
頼朝は鎌倉に居を構え、軍事・警察機構となる侍所(さむらいどころ)を設置します。そして南関東と東海道東部の実質的支配権を手に入れた、この時を鎌倉幕府の成立とする説があります。

2. 1183年
この年、頼朝の東国支配権が、朝廷から事実上の承認を受けました。

3. 1184年
頼朝は鎌倉に公文所(政所(まんどころ))と、裁判所である問注所を設けます。
公文所(くもんじょ)は、財政を担当する機関でした。

4. 1185年
頼朝と義経の対立は次第に深まっていきます。そして義経追討のため諸国に軍事・警察権を握るための守護を、荘園などに地頭を置く権限を朝廷に認めさせます。

5. 1190年
奥州を征服した後に、朝廷から「右近衛大将(うこのえたいしょう)」という地位を任じられた時という説もあります。

6.1192年
頼朝が征夷大将軍に任命された年です。

  • 東京大学史料編纂所 教授の本郷 和人 先生
  • 「将軍の政府」を重視すれば5・6の説が鎌倉幕府成立年に

鎌倉幕府の成立時期には、なぜ様々な説があるのでしょうか。
今回も東京大学史料編纂所 教授の本郷 和人 先生に話をうかがいます。

もし「将軍の政府」が幕府であるという点を重視すると、5・6番の説が、幕府成立の年になります。
特に6番の説は、征夷大将軍に就任した、そのため将軍の政府が出来たという考え方になります。
これが「いい国作ろう源頼朝」や「いい国作ろう鎌倉幕府」という語呂合わせの根拠になっています。

しかし幕府というものの性格は、「将軍の政府」という側面だけではないといいます。

  • 「軍事政権」を重視すると幕府の成立年は1〜4

頼朝の軍事政権がどのように成立したかを見たときに、1〜4番の説が大事になると本郷先生は話します。

この「軍事政権」という点を重視する場合、1番の説については、鎌倉に軍事政権の基礎が出来たという事実が重要視されます。

4番の説については、守護・地頭の任命によって、武士の勢力が全国に広がったということが根拠になっています。つまり、このときに鎌倉幕府が日本全国に支配の権限を広げたと言えます。
現在は、これが決定的だったのではないかと考える学者が増えているといいます。そのため「いいはこ(=1185)作ろう源頼朝」という語呂合わせもできています。

このように「幕府」の解釈によって、成立年もこれだけ変わってしまうということが分かります。

日本の歴史 いとをかし
  • 当時の武士にとって肩書きが大事だった

今回は鎌倉幕府の誕生について学んで来ましたが、さらに、頼朝・義経の対立の理由について本郷先生に話をうかがいます。

先生によると、この兄弟の対立には後白河による、「この兄弟を割ってやろう」という思惑があったといいます。
封建制度は、将軍が自分の家来に土地を与えて家来にするというものでした。一方、少し形を変えた封建制度と言うべきものが他にあります。当時の武士にとって、とても大事なものに官職(肩書き)がありました。当時の武士は肩書きを与えられる事によって主人に仕えました。

本郷先生 それは最終的には、頼朝が征夷大将軍を貰うという話になります。義経も実は、後白河から検非違使という肩書きを、頼朝の許可無く貰ってしまうんです。そうなると、義経は後白河にお仕えしなくちゃいけない。要するに、頼朝の家来でもあるけれど後白河の家来でもあるということになって、家来としてどちらに仕えるのかという話になってしまいます。そうすると鎌倉にできたばかりの武士の政権は、弱体化してしまいます。だから頼朝は、「必ず私に許可を得なさい」と言っていたんだけれど、義経が勝手に貰っちゃった。

高橋館長 それを許すと、他の人たちにも示しがつかない。

本郷先生 そう。そこに目を付けたのが後白河でした。義経は軍事的な天才だったので、部下にしておいて頼朝にぶつければ、今度は源氏を倒せる。源氏を使って平家を倒した後は、源氏を仲間割れさせて力をそぐ。

土保 ずるがしこいですね。

  • 頼朝が征夷大将軍になるのは後白河の没後
  • 次回もお楽しみに〜

高橋館長 問題の後白河さんは、いつ亡くなるんですか?

本郷先生 1192年。

高橋館長 (後白河が)亡くなったから、(朝廷から)征夷大将軍に任命されるんですか?

本郷先生 その通り。後白河は鎌倉に政権が出来るのは嫌だったんです。だから、頼朝が「征夷大将軍にして下さい」と言っても、ダメだと言って許さなかった。

高橋館長 そういうことか〜。本郷先生ありがとうございました。


それでは、次回もお楽しみに!!

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