NHK高校講座

日本史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:00〜2:20
※この番組は、2019年度の新作です。

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今回の学習

第8回 第2章 武家社会の形成と生活文化のめばえ

武士の登場

  • 監修講師:東京大学史料編纂所教授 本郷和人
学習ポイント学習ポイント

武士の登場

歴史を語り合う茶屋、歴カフェ。
日本史が大好きな店員、小日向えりさんのもと、歴史好きの平野詩乃さん、市瀬悠也さんが集まってきました。
教えてくださるのは、本郷和人先生です。

今回取り上げる時代は、平安時代後期。
10世紀から12世紀です。
この時代の日本は、律令が紛争解決の手段としては機能していなかったといいます。
無秩序で、いわば弱肉強食の世界。
そこで、自衛のための強い武力として誕生したのが「武士」です。
武士は武士団を作り、やがて平氏、源氏という2大勢力へと成長を遂げるのです。
今回のテーマ「武士の登場」に迫る3つのポイントは、「武士の誕生」「武士団のおこり」「桓武平氏と清和源氏の台頭」
武士はどうやって生まれたのか、知られざる武士の姿に迫ります。

武士の誕生

本郷先生 「当時の武士っていうのは、馬に乗れること、それから弓。この2つができないと武士として認められない。」

えり 「武士が生まれた平安時代って、どんな時代だったんでしょうか?」

本郷先生 「均一な国家ではなかった。例えば税金。取れるところから取る。だから本当に力が強い人がいて、『税金なんて払わないよ』って言ったらなかなか取れないんです。」

悠也 「でも、大化の改新が終わって、日本って中央集権の国家になってたと思うんですけど。」

律令とは、国が定めた法律のことでした。

本郷先生 「政府っていうものは、僕たち国民を守ってくれるわけじゃないですか?例えば犯罪があったら警察がやってきて守ってくれる。だけど、当時の日本の国家はそこまでみんなを守ってくれない。自分の命、自分の財産、それから自分の家族、これは自分の力で守らなくちゃいけない。言ってみればキーワードは『自力救済』です。」

えり 「そこで生まれたのが武士というわけです。武士には大きく分けて2つの起源があるんですよね?」

本郷先生 「地方で、『自分の身は自分で守る』、そういうふうに一生懸命考えた人が武装する。それで武士になっていった。だから、この考え方に立つ説というのは、武士の本場は地方。もう1つ、朝廷の武官っていう考え方もあるんです。朝廷の貴族の中で、わりと下級な人が武芸を習って、それで身分の高い人に仕える。こっちの考え方は、武士の本場は京都。」

福島県相馬市・南相馬市に伝わる、相馬野馬追(のまおい)の祭礼。
実は平安時代に生まれた、ある武士がその起源に関わっているといわれています。
その武士の名は「平将門(たいらのまさかど)」
桓武天皇(かんむてんのう)の子孫である高望王(たかもちおう)の孫です。
高望王は、中央から東国(とうごく)に国の行政官である国司として派遣され、そのまま土着しました。
孫の将門は地元に根付き、農民たちとともに新たに土地を開墾し、農地を増やします。

将門の領地で見つかった製鉄炉と工房の跡。
将門は鉄を精錬し、農具を作っただけでなく、武器も生産。
土地を守るために武力を強化していきました。
将門は野生馬を放ち、敵兵に見立てて軍事訓練をしたといわれています。
これが相馬野馬追の起源とされているのです。

将門の軍はおよそ8000までに膨れ上がりました。
力をつけた将門はやがて朝廷に反旗を翻すことになります。
「平将門の乱(たいらのまさかどのらん)」です。
939年、将門は常陸(ひたち)の国司に反抗した藤原玄明(ふじわらのはるあき)を助けたことをきっかけに、常陸の国府を襲い、国の印と蔵の鍵を奪います。
朝廷から託された印と鍵を奪うことは、常陸の国を手に入れたことになります。
将門は自ら新皇(しんのう)と名乗り、東国の支配者になろうとしました。
そして、東国から次々に国司を追い出します。

これに対し、朝廷は異例の太政官符(だいじょうかんぷ)を発行。
将門を討った者には、貴族の位を与えるという、破格の褒章を打ち出します。
太政官符の呼びかけに応じた1人が平貞盛(たいらのさだもり)。
将門と同族の平氏であり、東国の豪族が成長した武士です。
決戦のとき、貞盛軍はおよそ3000。
これに対する将門軍は、わずか400。
実はこのとき、将門は自分の兵の多くをそれぞれの村に帰していました。
村は1年の収穫を左右する田おこしの時期でした。
当時の武士は農民をかねていた者が多かったのです。
940年、将門は討たれました。

地方武士の実力を知った中央は、下級貴族や地方の有力者を「押領使(おうりょうし)」「追捕使(ついぶし)」に登用して治安維持にあたらせるようになります。
これが朝廷の武官としての武士の誕生です。

詩乃 「平将門も、それを討った貞盛も、どっちも平氏だっていうことですよね?」

本郷先生 「そうなんです。彼らはいとこどうしなんですね。この戦いは、もともと平氏一族の土地争いから始まってるんですよ。将門も貞盛も、桓武天皇の子孫なんです。だから『桓武平氏』といわれています。将門を討った貞盛の子孫が、平清盛(たいらのきよもり)ということになります。」

詩乃 「ところで、『武士にとって必要な技術が弓と馬』って、どういうことですか?」

本郷先生 「力をつけた有力な農民が『今日から武士になります』って言うのは認められないんです。周りの人たちが『確かにあなたは武士ですよね』って言うことで初めて武士としてみんなも認めてくれる。今で言えば県庁、県知事さんが主催をする大きな狩りがあったんです。その狩りに『あなたはぜひ出場をして下さい。』というふうに招待されて初めて武士として認められる。狩りをするときには馬に乗れないとだめですよね。馬に乗って、弓の技術を磨いた人、これが武士なんですね。」

武士団のおこり

平将門の乱がおこった際、実際に活躍したのは私兵を率いた地方の武士たちでした。
武士たちは、対立抗争を繰り返し強力な武士が他を統合、武士団を作っていきました。
武士団は、武装した地方の有力な領主である「惣領(そうりょう)」を頂点に、その一族、「家子(いえのこ)」で構成されました。
「血縁」による集団です。

武士団が強くなると、その土地のほかの武士が保護を求め、「郎党(ろうとう)」と、その部下の「下人(げにん)・所従(しょじゅう)」という家来になります。
その土地に由来してできた縁が「地縁」です。
武士団は血縁を中心に地縁によって拡大していきました。
やがて、信望厚い統率者を「棟梁」とあおぎ、大武士団となっていったのです。

えり 「武士団の中で2つの大きな勢力が現れます。朝廷の武士として伊勢を本拠地とした平氏。東国に勢力を広めた源氏です。

詩乃 「源氏はどうやって東国に勢力を広めたんだろう?」

桓武平氏と清和源氏の台頭

桓武天皇を祖先とする平氏を桓武平氏と呼ぶのに対し、清和天皇を祖先とする源氏は、「清和源氏」と呼ばれます。
1051年、陸奥(むつ)で起きた前九年合戦で、源氏は東国武士との結びつきを強めることになります。
当時、陸奥では豪族の安倍氏が勢力を持ち、しばしば国司と争っていました。
この争いを収めるために派遣されたのが「源頼義(みなもとのよりよし)」とその子、「義家(よしいえ)」です。
頼義が現地にくだると、安倍氏は乱をおこします。
頼義は、出羽国(でわのくに)の豪族・清原氏の援助を得ます。
そして、東国の武士をひきいて清原氏とともに戦い、安倍氏を滅ぼしました。

そのおよそ20年後には「後三年合戦」が起きます。
安倍氏にかわって勢力をえた清原氏一族の相続争いがおき、義家が介入。
清原一族の藤原清衡(ふじわらのきよひら)を助けて、争いを平定しました。
前九年、後三年の合戦を通じて、源氏は東国の武士と主従関係を結び、武家の棟梁とあおがれるようになりました。

清和源氏が東国で勢力を広げる一方、桓武平氏は西国(さいごく)を中心に、朝廷での地盤を固めます。
「平忠盛(たいらのただもり)」は、西国の海賊を討伐したことで、朝廷の信任を得ました。
その後、諸国の受領を歴任し、朝廷での地位を築いていきます。
源氏と平氏は、こうして勢力を広げていったのです。

悠也 「平氏ってもともと東国にいましたよね?」

本郷先生 「当時は都を中心とした地域がとってもいい土地だと考えられていたんです。平氏はもうそれなりに財産を築いて、今の三重県である伊勢国(いせのくに)に本拠地を移したんです。本拠地を伊勢に置いた平氏は都へ、それから西国へ勢力を伸ばしていったことになります。それで平氏がいなくなった関東に力を伸ばしていったのが源氏なんですよ。」

日本史なるほど・おた話〜奥州藤原氏の平泉文化

本郷先生 「『奥州藤原氏』が岩手県平泉で築いた独自の文化についてお話したいと思います。」

えり 「奥州藤原氏といえば、後三年合戦で源氏が手助けした、藤原清衡と基衡(もとひら)、秀衡(ひでひら)、泰衡(やすひら)ですよね。」

後三年合戦のあと力をつけた藤原清衡は、平泉に本拠をかまえ、独自の文化を築き上げました。
国宝・中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)は、お堂全体を黄金の輝きで覆い、阿弥陀如来(あみだにょらい)をまつっています。
阿弥陀如来が導く浄土の姿を地上に現すためだと考えられています。

金色堂に見守られた平泉の町は、京都に次ぐほどの繁栄を誇り、最盛期には10万もの人々が暮らしたといわれています。
東北の政治の中心であるだけでなく、町のおよそ3分の2を仏教寺院が占めるという宗教都市でもありました。
人々はこの町で、極楽浄土の世界を体験することができたのかもしれません。

1189年、「源頼朝(みなもとのよりとも)」率いる源氏の軍勢によって、平泉は陥落。
奥州藤原氏は滅亡しました。

えり 「どうして東北のこんな小さな町、しかも900年ほど前、平泉に都市文化が花開いたんでしょうか?」

本郷先生 「ひとことで言うと、金なんですね。当時日本列島で産出された金は、ほとんど平泉周辺。しかも平泉周辺で採れる金は、非常に純度が高かったんですよ。」

本郷先生 「それからもう1つ。馬。陸奥の馬は当時のいちばんのブランド品だったんです。」

詩乃 「馬の質がいいってことは武士の質もよかったんですか?」

本郷先生 「そうなんですよ。いい馬に乗ってるわけですから、武士も強かった。金と馬をもとに都と交渉して自分たちの存在を認めさせ、さらには都のすぐれた職人さんを雇ったり、工芸品を買い求めたりして、平泉に極楽浄土のような宗教都市を造ろうということを考えてたみたいですね。」


それでは次回もお楽しみに!

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