NHK高校講座

日本史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:00〜2:20
※この番組は、昨年度の再放送です。

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今回の学習

第8回 第1章 古代国家の形成と貴族文化の誕生

武士の登場

  • 日本史監修:東京大学史料編纂所教授 本郷 和人
学習ポイント学習ポイント

一.武士の誕生 二.武士団のおこり 三.源氏と平氏

今回の時代と三つの要
  • 今回は10世紀〜12世紀の平安時代後期
  • 武士とは?

今回は、いよいよ「武士」が登場します。
武士と言えば、武士の役を演じることも多い高橋館長。「その時その時代、どういう風にその人が生きていたのか。どういう場所で、どんな考えを持って生きていたのか。それ想像しながら役を作っていくんですが、実に、楽しいです。」と話します。

今回の時代は、10世紀から12世紀にかけての平安時代後期です。
弓馬を操る戦闘集団である武士は、なぜ生まれたのでしょうか。
あるときは土地を切り開き、あるときは貴族に仕える武士。そして、あるときは反乱を起こすこともある「武士」とは、いったい何者だったのでしょうか。


今回押さえるべき三つの要は、

一.武士の誕生
二.武士団のおこり
三.源氏と平氏

です。

武士がどのように生まれ、どのように成長していったのかを見ていきます。

前回は、平安時代の華やかな貴族文化を学びました。
平安時代は、優雅で平和な時代だったという印象を持っている人が多いかもしれません。しかし華やかな貴族の文化を表とすると、その裏では武士たちが戦いに明け暮れて、貴族の平和を守っていたといいます。

まずは武士たちがどのように生まれたのか、見ていきます。

要 其の一 「武士の誕生」
  • 反乱鎮圧後も地方に土着し、開発領主に
  • 都では、内裏(だいり)や、貴族の邸宅の警護

10世紀、律令は紛争解決の手段としては機能せず、力の強いものが勝つ自力救済の時代でした。朝廷の支配も地方には行き渡らず、各地で度々反乱が起こります。

その鎮圧のため、朝廷は中央の下級貴族や地方の有力者を、押領使(おうりょうし)・追捕使(ついぶし)として派遣しました。
彼らは反乱を鎮圧した後も地方に土着し、土地を切り開いて開発領主となり、私兵を蓄えます。また都では、内裏や、貴族の邸宅の警護に当たりました。
こうして、「朝廷の武力」としての武士が誕生します。

  • 桓武天皇の末裔、平将門
  • 高望王は東国に派遣され土着して開発領主に

当時の武士の、具体的な例を見てみます。
桓武天皇の末裔である平将門(たいらのまさかど)は、歴史の舞台に武士が登場した、最初の事件の主人公です。

桓武天皇のひ孫に当たる高望王(たかもちおう)は、中央から東国に派遣され、そのまま土着して開発領主となりました。
高望王の孫に当たる平将門は、地元に根付いた武士として、農民たちとともに新たに土地を開墾し農地を増やしました。

  • 鉄を取り出し、農具や武器を作る
  • 自ら新皇と名乗り、東国の支配者になろうとした

自力救済の時代においては、自分の土地は自分で守らなくてはなりませんでした。そのため将門たちは砂鉄から鉄を取り出して農具を作ったほか、武器を生産し、土地を守るために武力を強化していました。

939年、将門は常陸(ひたち)の国司に反抗した藤原玄明(ふじわらのはるあき)を助けたことをきっかけに、反乱を起こしました。
まず常陸の国府を襲い、東国から次々に国司を追い出します。そして自ら新皇(しんのう)と名乗り、東国の支配者になろうとしました。

  • 東国・西国ともに反乱が起きた
  • 朝廷は破格の褒章

同じ頃、西日本でも反乱が起こります。伊予の藤原純友(ふじわらすみとも)の乱です。純友は瀬戸内海諸国を襲い、国司を殺害し、大宰府を焼き払います。
この二つの乱が「承平(じょうへい)・天慶(てんぎょう)の乱」です。

東からは将門、西からは純友に攻め込まれるのではないかと追い詰められた朝廷は、異例の太政官符(だいじょうかんぷ)を発行します。将門を討った者には、貴族の位を与えるという、破格の褒章を打ち出したのでした。
当時、貴族の位は代々世襲で受け継がれる特権階級であり、武士が貴族社会に入るなどありえないことでした。

太政官符の呼びかけに応じたのが、ともに東国の豪族である藤原秀郷(ふじわらのひでさと)と平貞盛(たいらのさだもり)です。940年、将門は討たれ、将門の反乱は同じ東国の武士によって終焉を迎えます。将門を討った貞盛と秀郷は約束通り、貴族の位を与えられました。
この出来事が、政治の場に武士が深くかかわっていくきっかけとなりました。

  • 東京大学史料編纂所教授 本郷和人先生
  • 武士の起源

武士の誕生と発展について、東京大学史料編纂所教授の本郷和人(ほんごうかずと)先生に、話をうかがいます。

武士の誕生にはさまざまな説がありますが、大きく二つの方向から説明することができるといいます。
一つは、もともと京都の朝廷に仕えている貴族だったという説です。貴族たちが都を離れて現地へ下向し、次第に力を得て武士になっていったというものです。

もう一つは、もともと現地の豪族などの有力者だったという説です。この場合は、有力な農民というケースもあった可能性があります。これら現地の有力者たちが力を得て、次第に成り上がっていき、武士になったという説も有力なシナリオです。

  • 武士は都と地方の両方に軸を置いて活躍
  • 地方では国司に仕えた

さらに武士たちは、中央と地方の生活という二通りの生き方によって、力を伸ばしていきます。
中央では、宮中や貴族の警備や、都の治安を守るという警察のような仕事をしていました。

一方、自分の領地である地方に帰ってくると、大きな土地を切り開いた開発領主という存在であったといいます。開発領主の子孫たちは在地領主と呼ばれ、多くの土地を持っていました。彼らは、現代の県知事に当たる国司に仕え、「館侍(たちざむらい)」や「国侍(くにざむらい)」と呼ばれたりしました。

また、地方の犯罪者等を取り締まるために、押領使や追捕使などの役職に就くこともありました。
このように、武士は都と地方の両方に軸を置いて活躍しました。

武士たちは戦いを繰り返し、次第に武士団を作っていきました。
武士に欠かせないものといえば馬であり、当時の武士は馬に乗って戦っていたと考えられています。
向井地さんは、武士とともに活躍した馬に会ってきました。

要 其の二 「武士団のおこり」
  • 強力な武士が他を統合して武士団を形成
  • 弓馬の技術は、武士の命に関わる最も重要なものだった

武士たちは対立・抗争を繰り返し、強力な武士が他を統合して武士団を作っていきました。
彼らは館を構え、家来である家の子や郎党を率いて、弓馬の練習に励みます。
弓と馬の技術は、武士の命に関わる最も重要なものでした。

東国は、その地形から良馬を育てるのに適しており、政府の馬牧(うままき)である官牧が多くありました。良い馬がいたため、強い武士団も育ちやすい環境でした。

  • 藤原秀郷が始めたと言われている
  • 稽古の指導をしてくださる松本玲奈さん

鹿島神宮流鏑馬(やぶさめ)神事は、藤原秀郷が始めたと言われています。

現在この伝統行事を奉納するのは、倭式騎馬會(わしききばかい)の皆さんです。
騎馬會の皆さんは毎月一回、河川敷で流鏑馬の稽古に励んでいます。

今回、向井地さんも稽古に参加させてもらうことになりました。
指導してくださるのは、松本玲奈さんです。

  • 日本在来馬の白星ちゃん
  • 狩の服装で流鏑馬にチャレンジ

皆さんが稽古で乗っている馬は、普段私たちが時代劇で見るよりも小さい馬です。
倭式騎馬會の馬は、全て日本在来馬です。当時の武士たちと共に戦った馬の子孫で、現在は2000頭弱しか残っていません。

向井地さんが今回乗るのは、おとなしいメスの白星ちゃんです。
馬に乗りながら矢を射るために、向井地さんはしばらく練習し、一人で馬に乗れるようになりました。

いよいよ流鏑馬を体験してみます。
武士といえば甲冑ということで、向井地さんは大将が着る大鎧(おおよろい)のレプリカを身に着けることになりました。重さは本物の三分の一、およそ10キログラムです。
兜を被って立ち上がりますが、とても重く、何とか立ち上がることができるという状態です。
東国武士の気持ちになりきってみたものの、これでは乗馬は難しいということで、狩をするときの服装に着替えてチャレンジです。

  • 見事 的に命中
  • 良い馬がいたことで武士団が成長

的を立ててもらい、いよいよ流鏑馬に挑戦です。
しかし何度挑戦しても、放った矢が的に当たりません。そこで倭式騎馬會の森会長がコツを伝授し、再度挑戦します。すると見事に矢が的を射抜きました。

流鏑馬はとても難しかったという向井地さんは、「当時の武士は、さらに全力疾走の馬の上で、重い鎧を着て流鏑馬をしていたことがすごい」という感想を持ちました。

稽古を通して、武士には馬が欠かせなかったこと、そして良い馬がいることで武士団が育っていったことを感じた向井地さんでした。

要 其の三 「源氏と平氏」
  • 強力な武士団が中小武士団を配下に従える
  • 武士の棟梁の代表格、清和源氏と桓武平氏

数多くの武士団が成長して行く中で、11世紀になると強力な武士団が現れ、その統率者は多くの中小の武士団を配下に従えるようになりました。

これが武士の棟梁であり、その代表が清和源氏と桓武平氏の一族です。

  • 源頼信は東国に派遣され勢力を伸ばす
  • 前九年の役と合わせ源氏が東国武士と結びつきを強めた

清和源氏の源頼光(みなもとのよりみつ)と頼信(よりのぶ)は、摂関家に接近し、保護を受けて名声を高めました。
頼信は1028年、平忠常(たいらのただつね)の乱を平定し、東国に勢力を伸ばします。

源氏がさらに東国武士との結びつきを強める出来事が、陸奥(むつ)、現在の東北地方で相次いで起こりました。
豪族 安倍氏の反乱を、源頼義(みなもとのよりよし)が鎮圧した前九年合戦、そして別の豪族の後継者争いを、義家(よしいえ)が平定した後三年合戦です。

源氏は東国武士団を率いて二つの乱を戦い、棟梁として仰がれるようになりました。

  • 義家が去った後、東北は奥州藤原三代が繁栄

義家が去った後の東北は、奥州藤原氏が清衡(きよひら)、基衡(もとひら)、秀衡(ひでひら)の三代にわたって統治し、独自の文化と繁栄を築き上げました。

  • 平正盛は源義親の乱を鎮圧
  • 忠盛は西国の国司を歴任し地位を築いた

一方、桓武平氏の平正盛(たいらのまさもり)は、源義親(みなもとのよしちか)が出雲で起こした反乱を鎮圧します。
正盛の子の忠盛(ただもり)は、西国の海賊を討伐し、上皇の信任を得ます。さらに西国の国司を歴任し、貴族の身分を得て上皇の近臣として朝廷に地位を築きました。

源氏と平氏は、こうして勢力を広げていきました。

このように源氏は東国武士団との結びつきを強め、平氏は朝廷での地位を固めることで、それぞれ力を持っていったことが分かりました。
後に、源氏と平氏は雌雄を決する時がきますが、それについては次回以降見ていきます。

日本の歴史・いとをかし
  • 藤原秀衡を演じた高橋館長
  • 藤原秀衡は在地に生き、かつ都の文化も持ち込んだ

実は高橋館長は、大河ドラマで藤原秀衡を演じたことがあるといいます。
当時 役を与えられた館長は、まず台本を読み、藤原秀衡がどのような人物だったのかを感じるために藤原の里へ行ったのだそうです。

東北地方では前九年合戦や後三年合戦といった非常に悲惨な戦いがあり、大勢の人たちが亡くなっています。奥州 藤原三代の人々は、だからこそ理想郷、平和の里を作ろうと考えたのではないかと、高橋館長は思いをめぐらせたといいます。また、豊かな穀倉地帯を守り、大事にしていこうと考えたのではないかと感じたそうです。

本郷先生は、これは世界遺産に登録された平泉の理念そのものだと話します。そして、この高橋館長の話に、今回の全体の話が密接に結びついてくるといいます。
「藤原秀衡という人物は、在地、すなわち平泉という土地に生きていたという側面があります。また、都の文化を持ち込み、流麗な建物を作るということもしました。このように文化を創っていくという側面もあり、二つを兼ね備えた人物だった。」と本郷先生は話します。


それでは、次回もお楽しみに!!

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