NHK高校講座

日本史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:00〜2:20
※この番組は、昨年度の再放送です。

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今回の学習

第5回 第1章 古代国家の形成と貴族文化の誕生

平城京の時代

  • 日本史監修:奈良文化財研究所史料研究室長 渡辺 晃宏
学習ポイント学習ポイント

一.奈良時代の支配体制 二.土地政策の転換 三.遣唐使

今回の時代と三つの要
  • 今回は8世紀初頭の奈良時代
  • 3人は当時の衣装で登場

今回学ぶのは奈良時代ということで、AKB48の3人は奈良時代の衣裳で登場です。
3人が身に着けている衣装は、それぞれ「三つの要」に合わせた服装だといいます。

今回の時代は8世紀の奈良時代、「710年、何とみごとな平城京」と語呂合わせを覚えた人も多いのではないでしょうか。
この時代に、大宝律令に則った中央集権体制の整備が進められました。

今回押さえるべき三つの要は、

一.奈良時代の支配体制
二.土地政策の転換
三.遣唐使

です。

前回は、律令制に則った中央集権国家の始まりを学びました。
今回は、その律令国家の仕組みが、どのように整備されていったのかを学んでいきます。

当時の国づくりを象徴しているのが、3人が着ている衣裳です。
向井地さんが着ているのは、奈良時代の貴族の女性が着ていたものですが、和風というよりは少し中国風です。これは当時の中国、つまり唐の衣裳を手本にしたものです。
奈良時代の日本では、唐を手本にした国づくりを進めていました。

要 其の一 「奈良時代の支配体制」
  • 710年、藤原京から平城京へ遷都
  • 5キロメートル四方の平城京

710年、藤原京から平城京へ遷都が行われ、奈良時代が始まります。
平城京は、およそ5キロメートル四方の広さがありました。

碁盤の目のように整備された通りの中央には、朱雀大路(すざくおおじ)がありました。
道幅およそ75メートル、全長は4キロメートル近くもあり、現在は一部が復元されています。
朱雀大路を中心に東側は左京、西側は右京といい、貴族の邸宅や市場がありました。朱雀大路の北の突き当たりには朱雀門があり、その先の平城宮=大内裏(だいだいり)に、天皇の御所や役所が集まっていました。

  • 長安を手本に作られた平城京
  • 冠位十二階による役人の構成

平城京は唐の都 長安 を手本に作られました。碁盤の目の様な道路によって区画し、王宮を一番北に置くというレイアウトは、まさに長安そのままです。
平城京の人口は5〜10万人程度で、そのうち役人はおよそ7000人ほどだったと考えられています。
廐戸王によって作られた冠位十二階が、唐にならった位階制度として整備され、およそ150人前後の貴族を頂点とするピラミッドを形成していました。

  • 平城京遷都直前に貨幣が作られた
  • 五畿七道という行政区画で支配

経済の面でも、唐を手本にした国づくりが進められました。平城京遷都直前の708年には、唐にならって和同開珎(わどうかいちん)という貨幣が作られています。

唐を手本とした律令国家では、全国を五畿七道(ごきしちどう)に分けて支配しました。「五畿」は「畿内」ともいい、都周辺の5つの国のことで、いわば当時の首都圏です。それ以外の国々は「道」という行政単位で、7つに分けられました。

  • 鳥取東部の因幡国府跡
  • 大宰府は現在の九州全体を統括し、大陸との交流担う

それぞれの国には、役所として国府が置かれました。

因幡国(いなばのくに)は、現在の鳥取県東部に当たり、現在は国府跡が朱塗りの柱で示されています。
また九州には「大宰府」が置かれていました。大宰府は現在の九州全体を統括すると共に、中国や朝鮮半島との交流も担いました。さらに、防人(さきもり)と呼ばれる兵士を管轄し、国家を防衛する役割も果たしました。
また、陸奧国(むつのくに)現在の宮城県にあたる場所には「多賀城」が作られました。多賀城には陸奧の国府が置かれ、東北地方に支配を広げていくための拠点とされました。

この時代、こうして国の形が次第に整っていきました。

  • 鎮護国家思想を重んじた聖武天皇
  • 国ごとに国分寺と国分尼寺を建立する命令

さらに、律令制を整え、国をまとめる上で重要な役割を果たしたものが仏教でした。

この時代、大宰府で起きた反乱をはじめ、飢饉や疫病の流行などによって社会の動揺が続いていました。
そこで741年、時の聖武(しょうむ)天皇は国ごとに国分寺と国分尼寺を建立する命令、国分寺建立の詔(みことのり)を発しました。
国分寺には経典を置き、毎月読経することを定めます。

仏が国を守り、災難を除いてくれると信じたこの考えを、鎮護国家(ちんごこっか)の思想といいます。

  • のべ260万人が工事に関わったと言われる大仏
  • 752年、大仏完成

聖武天皇はさらに、大仏造立の詔を発しました。
高さおよそ15メートルにおよぶ大仏の建設には、巨額の建設費が投じられ、のべ260万人が工事に関わったと言われます。大仏を造ることによって人心をまとめ、国を一つにする狙いがありました。

752年、東大寺で盛大な大仏開眼(かいげん)の儀式が行われました。この時の大仏は、黄金に光り輝いていました。

  • 開眼供養会には諸外国含め1万以上の僧が参列
  • 農民は弥生時代から服装が変わらない

この大仏開眼供養会(かいげんくようえ)には唐をはじめ朝鮮半島、インド・ベトナムなどの諸外国を含め、1万を超える僧が参列したと言われます。仏教によって国をまとめ、国際的にも進んだ国家をアピールしようとしたのでした。
このように、当時の仏教と政治には、深い関係があったことが分かります。


込山さんの衣裳(右写真-左)は、当時の農民の衣裳と言われており、実は弥生時代から殆ど変わっていません。隣の向井地さんが着ている貴族の衣裳と比べると、農民がどれだけ苦しい生活をしていたかが分かります。
貴族たちは唐の進んだ文化を取り入れましたが、農民には縁遠いものでした。

要 其の二 「土地政策の転換」
  • 口分田を捨てて逃げ出す農民もいた
  • 三世一身法を出して開墾を奨励

701年に完成した大宝律令によって、班田収受法(はんでんしゅうじゅのほう)が本格的に実施されました。これは「土地も民衆も天皇のものである」ということを定めたものでした。

しかし、重い税の負担に耐えかねた農民の中には、口分田を捨て逃亡する者も出ました。
当時の納税台帳には「逃」という文字がいくつも見られます。
また自然災害による水田の荒廃や、人口の増加などの理由で、口分田が不足しました。
しかし、自分の口分田で精一杯の農民たちは、新たに田を開墾しようとはしません。

そこで政府は723年、三世一身法(さんぜいっしんのほう)を出して開墾を奨励します。新しく灌漑(かんがい)施設を作り、田を切り開いた者には、その田を三世代に限って私有を認める法律です。
しかし開墾された田も、三世代が過ぎ、取り上げの期限が近づけば荒廃してしまいました。

  • 土地の私有が認められる

このため743年に政府が出したのが、墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)です。開墾した田は、身分に応じた一定の範囲で自分の土地にして良いという法律で、土地の私有が認められることとなりました。

律令制においては「公地公民」、つまり「土地も民も天皇のものである」としていました。しかし墾田永年私財法では個人の土地の私有が認められ、公地公民に矛盾しているように見えます。土地政策については律令制をやめたということなのでしょうか。

  • 公地公民のイメージ
  • より広い土地を天皇が支配

ここで女学館の特別講師、奈良文化財研究所 史料研究室長の渡辺 晃宏 先生に話をうかがいます。

前回学んだ公地公民の制度では、土地と公民を天皇が直接支配しました(左図)。
それに対して、新しい土地改革の制度では、右図のようなイメージだと考えられるといいます。これは、個人が私有する土地も、変わらず天皇の支配の下にあるというものです。
つまり墾田の私有を認めることによって、それまで以上に広い土地を天皇が支配できる様になったということです。そのため墾田永年私財法は、決して公地公民の矛盾という訳ではないと、渡辺先生は話します。

これまで8世紀の政策転換については、律令制の崩壊だという考え方が強かったといいます。しかし、土地政策の転換を右図のイメージで捉えることができるならば、より支配が固まっていったと考えることができます。
渡辺先生は、「8世紀は、中国から直輸入した律令の制度を日本に見合うように展開し、改革していくという、本当の意味での律令国家の建設の時代だと、最近では捉えられるようになって来た」と話します。

国づくりも、色々と模索していた時期だったと言えます。

  • 土保さんが着ている遣唐使の衣装

奈良時代には、唐を手本にした国づくりを学ぶため、遣唐使が派遣されました。
土保さんが着ているのは、奈良時代の遣唐使・粟田真人(あわたのまひと)が着ていたであろうと思われる男性貴族の衣裳です。

遣唐使として唐に渡ったのは僧侶や留学生たちでしたが、日本に帰ると出世して高い身分につき、このような衣裳を着た人もいたといいます。

要 其の三 「遣唐使」
  • 当時の唐は最先端の制度や文化を誇った

702年、粟田真人を始めとする遣唐使が唐に向かいます。遣唐使の派遣には、唐に朝貢(ちょうこう)、つまり使節や贈り物を通して友好関係を築こうという狙いがありました。
これにより、白村江の戦い以来途絶えていた関係が再開しました。

この時代、唐は東アジアの大国として君臨し、遣唐使は進んだ政治制度や最先端の文化を学びました。704年に粟田真人が帰国し、彼らがもたらした情報によって、平城京の建設や中国風の国づくりが進められました。

  • 当時の東アジア
  • 大仏開眼供養会に700人もの新羅の使節団が来日

日本はまた、朝鮮半島を統一した新羅とも、頻繁に使節を交換しました。
「続日本紀(しょくにほんぎ)」によれば、大仏開眼供養会に王子を含む700人もの新羅の使節団が来日し、大仏を礼拝したと記されています。

7世紀末に中国東北部におこった渤海(ぼっかい)は、唐に滅ぼされた高句麗の流れを組む国です。渤海からは、のべ2500人に登る使節団がやって来ました。
彼らは、日本では手に入りにくい貂(てん)や虎、熊などの毛皮を特産品としてたびたび日本に持参しました。当時の様子を表した絵巻には、ヒョウの毛皮をまとう人が描かれています。

このように奈良時代の日本は、近隣の国々と、外交関係を結んでいました。

  • 日本は唐に朝貢したが、臣下にはならなかった

唐にならった国づくりにおいて、遣唐使がもたらしたものは重要でした。
また日本は遣唐使だけではなく、遣新羅使や遣渤海使も頻繁に送っていました。

当時の大陸には、東アジアから中央アジアまで広く支配した唐が君臨していました。また朝鮮半島には、朝鮮半島の三国統一を果たした新羅がありました。
新羅は唐に朝貢し、臣下として位置づけられます。一方、日本は唐に対して朝貢しましたが、新羅と違い臣下として位置づけられませんでした。その一方で、日本は新羅に対して、朝貢を求めます。
そのため、新羅が次第に国力をつけていくにしたがって対等の外交を求めてくるようになり、日本と新羅の間で関係が悪化することもありました。

もう一つ状況を複雑にしたのは、渤海という国の存在があります。渤海は当初、唐との関係があまり良好ではなかったため、日本と関係を結ぶことで唐に対する関係を有利にしようと考えます。

こうした4カ国が存在する東アジアの中で、日本はいろいろな国と外交を結びながら、律令国家の国づくりを進めていきました。

高橋館長は、「非常に微妙な立ち位置が続いた時代だからこそ、日本も国づくりがまとまったという側面もあるかもしれない」と話します。

日本の歴史・いとをかし
  • 贄と呼ばれる荷札
  • 「わかめ」が献上されたことが分かる

渡辺先生の所属する奈良文化財研究所は、奈良にある文化財を総合的に研究している研究所です。中でも古代の都である、平城京や藤原京の発掘調査が大切な仕事だといいます。
さらにその中でも最も重要な発見だと言われているのは、木簡という古代の人たちが使った生の資料なのだそうです。

渡辺先生は、贄(にえ)と呼ばれる、天皇の食料を貢進する時に使われた、木簡のレプリカを持ってきてくださいました。木簡は、地方から租税を送る時の荷札として使われたりしたといいます。

贄には現在の「わかめ」のことである、「海藻」という文字が書かれています。
「阿波国」と書かれた送り元は、現在でもわかめの産地として知られる徳島県の鳴門のことです。当時から、いわば「ブランド物」のわかめとして知られていたことがうかがえます。

  • 当時の役人の愚痴も見られる
  • 次回もお楽しみに〜!

木簡は国が編集した歴史書とは違い、まさに当時の人々が道具として使っていた「生」の史料です。そのため当時の人々の生の声や、記録を生き生きと我々に伝えてくれるといいます。
中には「早く出世させろ」や、「こんな不味い物は食べられない」というような、役人がぼそっと愚痴をこぼしたようなものもあるそうです。
こういった遺物から、私たち人間の営みが千数百年変わらないということを思い知らされます。

さらに渡辺先生は、「平城京の中では20万点を超える木簡が見つかっています。それも実はほんの氷山の一角で、まだまだ貴重な資料が土の中にたくさん埋もれているのは恐らく間違いないだろう」と話します。

今後、日本史の根底を覆すような新たな発見があるかも知れません。


それでは、次回もお楽しみに!!

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