第8回 漢字の書
MCは皆藤愛子さん。
そして今回みなさんと一緒に学習する高校生は、清水せれなさん、古橋舞悠さん、栗原大河くんの3人です!
今回は、スタジオを飛び出して東京都にある台東区立書道博物館へやってきました!
書道博物館には10000点以上の資料が収蔵されています。
作品を見ながら、次の3つのポイントに注目して書の歴史を学んでいきましょう。
(1)一番古い書とは何?
(2)始皇帝が果たした役割は?
(3)書体ができた順番は?
(1)一番古い書とは何?
さて、一番古い文字は牛の骨や亀の甲羅などに彫られています。
これを甲骨文といいます。
ここで、「達人に聞こう!」のコーナーです。
今回の達人・鍋島稲子さん(書道博物館学芸員)に、書の歴史について教えていただきました。
書のルーツとなる甲骨文が生まれたのは中国の殷時代(紀元前17世紀頃〜紀元前11世紀)。
すべてのことを占いで決めていた時代です。
動物の骨の表に占いたい内容を彫り、裏に溝を付けて焼き、表に入ったヒビの形で農耕や狩猟を占っていました。
その内容と経過を刻んだのが甲骨文です。
現在使われている漢字も、甲骨文がルーツです。
大河くんに、犬のおやつ用の骨に文字を刻んでみてもらいました。
骨はとても硬く、なかなか思うように彫れません。
当時の人が使った骨はもう少し柔らかく、水をつけたり表面を整えたりしてから彫っていたようですが、骨の硬さのために甲骨文は直線的な文字になったのです。
甲骨文の中には現在の漢字につながる文字がたくさんあります。
甲骨文のあとに生まれた文字が金文。
殷から周の時代にかけて、青銅器に鋳込まれたものです。
青銅器は神様に捧げる儀式で使われ、ふたの部分や胴体にその器が作られた理由が書かれています。
現在では青銅器は青く見えますが、当時は金色に輝いていました。
そのことから“金文”という名前がついたのではないかとも言われています。
青銅器は型を作って流し込んで作るものなので、直線だけでなく曲線が強調された文字となっています。
こうして漢字は紀元前から進化してきたものなのです。
(2)始皇帝が果たした役割は?
紀元前221年、広大な中国を初めて統一した始皇帝は、国を管理するためにそれまで地方ごとにバラバラだった文字を1つに統一しました。
それが小篆(しょうてん)です。
現在でも印鑑などに使われる由緒ある書体です。
始皇帝は、国家の統一だけでなく、文字の統一と度量衡(単位)の統一も行いました。
重さの基準となる銅のおもりを作り、そこにも小篆の文字を書くことで文字を普及させました。
その書体は甲骨文や金文と合わせて篆書(てんしょ)とよばれています。
篆書にも欠点がありました。
左右対称の字体で曲線も細やかなため、書類などを書く際とても時間がかかったのです。
そこで少し簡略化した書体が隷書(れいしょ)です。
隷書は篆書に比べて書きやすく、現在の楷書に近い書体になっています。
漢時代(紀元前206年〜220年)には隷書が公文書にも使われるようになりました。
紙が普及する以前は、文書のやりとりに、木や竹を短冊形に削った木簡や竹簡が使われていました。
木簡などを書くときに使われたのも隷書です。
書道博物館にある三体石経という石碑には、古代文字と小篆と隷書の3つの書体が刻まれています。
比べてみると、それぞれの特徴がよくわかりますね!
(3)書体ができた順番は?
日常的に隷書を書く中で、より早く書くための草書が生まれ、同じように早く書くために行書が生まれました。
そして4世紀から5世紀の初めには楷書が成立しました。
草書も行書も楷書も、すべて隷書から生まれた書体です。
篆書や隷書は正式な書体で、その流れをくむのが楷書です。
みなさんもメモを取るときなど、さっと早く文字を書きませんか?
そのような日常で使う書体として生まれた書体が草書や行書なのです。
唐時代(618年〜907年)に楷書は標準的な書体となりました。
唐時代の初めには欧陽詢、虞世南、褚遂良が楷書の傑作を生み出しています。
さらに100年ほど後に頭角を表す顔真卿を合わせて、この4人を唐の四大家といいます。
この番組でも九成宮醴泉銘(欧陽詢)や孔子廟堂碑(虞世南)などを学習しましたね!
唐の時代に確立した楷書の古典を、現在でも多くの人たちが学んでいます。
書道博物館を創設した中村不折が書の歴史を「羊」という字に注目して追っています。
このような変化を遂げて、現在私たちが使う文字になったのですね!
次回もお楽しみに〜☆
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