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今回の学習内容

第8回

藤原氏の繁栄 〜摂関政治と国風文化〜

講師:東京都立松原高等学校教諭 戸川 点
藤原道長が自身の栄華を満月にたとえて「望月」の歌を詠んだことは周知のことだろう。道長は次々と娘を天皇の中宮にし、摂関政治の全盛期を築きあげたのである。ではその摂関政治とは一体どのようなもので、どのようにして生まれたのだろうか。ここでは摂関政治をキーワードに平安時代中期の政治、地方支配、文化の様子などを考える。
今日のテーマ
  • 藤原氏の繁栄 〜摂関政治と国風文化〜

学習ポイント

 藤原氏の繁栄 〜摂関政治と国風文化〜
今日のねらい
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平安貴族たちは遊びに明け暮れていたわけではなく、さまざまな政治課題に対応しながら国政を運営していました。今日はそのような平安貴族の日常生活を、有名な藤原道長を例にくわしく探ります。

次の3つのポイントについて見てみましょう。
(1)摂関政治−藤原氏の繁栄
(2)受領の地方支配
(3)国風文化と浄土信仰

    摂関政治
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    1つ目のポイントは摂関政治です。
    摂関政治とは、藤原氏が婚姻を通じて天皇家と結びつきながら摂政や関白などになり、主導した政治のことです。
    一般には天皇が幼少の時、天皇の代行をするのが摂政、天皇が成人の時に天皇を補佐するのが関白です。
    そしてこのころの重要なシステムに「陣定」というものがありました。これは、月に2〜3回、大臣級の貴族が開く国政会議です。
    ここでは国政全般のあらゆる問題を扱いました。
    「陣定」で決まったことは、天皇に伝えられ、決裁をうけて初めて決定されます。
    ところが天皇が幼少の場合、決裁ができません。そこで天皇の代行をするのが摂政、補佐をするのが関白なのです。これが、摂関政治の形です。

    しかし、藤原道長は実際にはほとんど摂関にはなっていません。
    ここで道長の生涯について、簡単に見てみましょう。

    道長は966年に生まれました。
    995年、天皇に奏上したり、天皇が下す文書を事前に見る「内覧」という役職になり、次いで996年に「左大臣」という役職について、道長は政界のトップになりました。
    1016年、道長は、後一条天皇の即位とともに摂政に就任しますが、これも翌年には息子の頼通に譲っているので就任期間はたった1年ほどです。
    関白にはなりませんでした。

    先ほどの「陣定」には、天皇を助ける立場の摂政や関白は出られません。
    道長は決裁する立場に立つよりも、会議に出て公卿たちをまとめる立場をとろうとしたよ
    うです。

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      もう一つのポイントは、道長が積極的に外戚関係を築いている点です。
      道長は、4人の娘を次々と天皇家に入内させ、天皇のミウチになりました。
      娘が産んだ子が天皇になれば、道長は天皇の母方の祖父となります。
      このような立場を外戚といいますが、これはとても強い関係になります。
      こうして政治の中枢に座っていったわけです。
      そして娘たちを魅力的にして天皇に愛されるようにするため、高い教養をもった清少納言紫式部など才能のある女性を「女房」として送り込みました。
      こうした女性たちが国風文化を作っていきました。

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        では、道長たち貴族はどんな日常生活を送っていたのでしょうか。

        「紫式部日記絵詞むらさきしきぶにっきえことば」は、源氏物語の作者・紫式部の日記に基づくとされる絵巻物です。
        紫式部は、道長の娘・彰子(しょうし)に使えていたため、この絵巻には道長の姿がたびたび登場します。

        例えば道長は、彰子に待望の男の子が生まれると喜んで訪れました。自らの権力を維持する手段になるからです。

        道長はまた、自らの日常を伝える貴重な記録を、後の世に遺しています。
        日記・「御堂関白記」です。日本に残る自筆の日記としては最古のものといわれています。
        この日記はもともと、暦の余白に書き込まれたものです。毎日の吉凶や禁忌、つまり避けるべきことなどが小さく書かれ、その間に、その日あった出来事を道長が書いています。
        貴族の日記は、毎日の仕事の記録、そしてこのころ発達した宮中行事の準備の仕方や進め方などを書いたものが多く、宮廷生活の知識を詳しく子孫に伝える「公式の記録」という意味合いの強いものでした。

        こうした日記に書かれた事柄から平安貴族の生活、そして道長の政治家としての活動を知ることができます。

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          藤原道長の日記「御堂関白記」の1000年1月を見てみましょう

          1日 この日は天皇が喪中だったため、通常行なう元日の節会は停止つまり中止です。
          それでも道長は天皇に挨拶に行っています。
          3日には東宮や一条天皇の母、自分の姉に挨拶に行きます。
          4日は東三条院が主催する正月の仏教行事に出席しています。
          夜8時頃には、西京で火事があったようです。
          7日は白馬御覧といって天皇が馬を見ると書いてあります。
          9日は何と東三条院の北廊が放火にあいました。
          道長はすぐさま検非違使別当(警察の長官に当たる立場)に対処の指示をだしました。
          10日は雪が降り、4日に始まった仏教行事が結願、つまり終わりを迎えます。
          11日も12日も内裏へ行っています。
          13日には犬が出産した穢に触れてしまうとあります。
          当時動物がお産したり死んだりするとケガレが発生すると考えられていました。
          ケガレは人から人へ伝染すると考えられ、貴族たちは謹慎をしたりととてもおおごとでした。
          ところが道長はどうしても夕方に東三条院に行く用事があったようです。
          そこで東三条院に行ったものの、立ったままで用件を済ませました。
          着座するとケガレが伝染すると考えられていたためです。
          15日には年が明けて最初の「外記政」という政務処理を行っています。
          16日、17日は、さきほど紹介した陣定です。
          議題は受領功過定といって、地方役人の勤務評定です。
          実はこの後、除目という地方役人の人事異動があります。
          その前に「きちんと税を納めたか」などをチェックする会議でした。
          そのため、受領たちは一生懸命税を集めたのです。
          18日に内裏から家に帰ったと書いてあります。
          19日は前年に亡くなった太皇太后の四九日の法事がありました。
          22日から25日までは除目の会議でした。
          除目は国司などに誰を任命するかを決める会議です。
          24日には位を授ける叙位も行われました。
          27日には蔵人(天皇の秘書)と殿上人(天皇のお気に入りの貴族)の人事異動が行われました。
          28日には天皇の使者が道長のところへやってきて、娘の藤原彰子を女御から皇后にしてもよいとの連絡がありました。道長は大喜びで、安倍晴明を呼んで立后の日時を占ってもらいました。

          このような年中行事をしっかり実施するのは、平安貴族にとってはたいへん重要な仕事でした。
          またこの時代、貴族の間では、儀式を執り行う上でタブーがないかどうかを占うことは大切なことでした。そのような中で、陰陽道の発達とともに物忌・方違といった風習も広まりました。

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            2つ目のポイント、受領支配です。
            律令制の支配はだんだん行きづまっていました。班田収受は902年に終わります。
            その結果、税金などが取れなくなっていきます。
            そこで、国司の実権が強められ、中央政府へ税を納入することを条件に国内支配に関する大幅な実権を与えられました。こうして大きな実権を与えられた国司のトップの人受領(ずりょう)といいます。

            除目(じもく)」で任じられた受領(ずりょう)はその任国へ赴きます。
            任国に下る、「下向(げこう)」といわれるこの旅は、一大行事でした。

            任国についた受領は、その国の支配について大幅な裁量を委ねられました。
            そのため、税の強引な徴収などによって私服を肥やそうとする受領が出てきました。尾張国、今の愛知県では、受領の行動が大問題になったという記録があります。

            「尾張国郡司百姓等解文(おわりのくにぐんじひゃくしょうらげぶみ)」は988年、尾張の国の人々が当時の受領、尾張守藤原元命(おわりのかみ ふじわらのもとなが)が悪政を行なったとして、中央政府に解任を訴えたものです。
            解文には、都から柄の悪い郎党を引き連れてきて、現地の人々から税を取り立てたなど、元命(もとなが)の悪行が綿々と書き記されています。この結果、元命は国司を解任されました。

            10数年後、大江匡衡(おおえのまさひら)という貴族が尾張守(おわりのかみ)に任じられました。
            妻の赤染衛門(あかぞめえもん)も、尾張に同行しています。
            赤染衛門は百人一首にも登場する有名な女流歌人です。
            この時、匡衡と現地の人々との間にトラブルが生じ、人々は匡衡に対して「耕作を放棄する」という抗議行動に出ます。

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              妻の赤染衛門(あかぞめえもん)は人々の信仰の篤い地元の真清田神社(ますみだじんじゃ)に参拝し、“人々が田を耕さないのなら真澄田の神様に田を作ってもらおう”という意味の歌を詠みました。すると人々は抗議をやめて耕作を始めたと言われています。赤染衛門が和歌の力で夫の危機を救ったのです。
                 
              その後、大江匡衡(おおえのまさひら)は、役人を養成し儒学を広めるため、「学校院」を整えました。また、農民のために農業用水を建設し、有能な国司として評価されました。この「大江用水」はおよそ1000年後の現在も使われています。

              このように悪事をはたらくこともできましたが、やりすぎると訴えられたりしました。
              その一方で、「いい人だから、もっと続けさせろ」と報告された例もあります。
              結構政治的な駆け引きがあり、受領の支配は一筋縄ではいきませんでした。

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                ここで受領の支配について、整理してみましょう。
                律令制では戸籍によって一人一人を把握して税をとっていました。
                しかしそのような方法がうまくいかなくなったので、受領は有力農民などを押えて納税責任者として定め、その面積をもとに徴税するようにしました。
                つまり徴税方法を「人への課税から土地への課税」と変えたのです。
                こうすることによって徴税を円滑に進め、受領は政府から求められたときに、必要な額を納めました。
                そして、政府からの徴税分を納入すれば、あとは自由でした。
                したがって地元の人々の反発を買わずにいかにうまく徴税を行なうかが受領の腕の見せどころでした。そこで、私服を肥やそうと策略をめぐらせる悪徳受領もいたのです。

                この受領が摂関家の財政をも支えていました。
                道長が邸や寺を建てる際、受領などが贈り物の形で寄付することがよくありました。
                これは「志」とか「訪い」などと呼ばれ、この贈り物で屋敷が完成してしまうほどでした。
                おそらく除目(人事異動)の際に有利に取り計らってもらうことを期待したのだと考えられます。
                現代的な感覚ではワイロのように見えるかもしれませんが、当時は今と公私の感覚が少し違ったようです。
                国家行事の際にも費用が足りなければ、受領たちは訪いなどの贈り物をしていました。
                それによって政府の行事が運営できていました。
                したがって受領にとっては、朝廷に納めるのも道長に納めるのも同じことで、悪いという意識は無かったようです。

                摂関家には本来、地位と職に見合った収入が朝廷から保障されていたのですが、律令制がうまくいかないため、もともとの形ではもらえなくなっていきました。
                そこで道長の時代には、朝廷を通さずに受領から直接徴収していました。
                したがって受領の活躍は、この時代の国家財政や摂関家の生活を支えるとても大切なものだったのです。

                  国風文化と浄土信仰
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                  3つ目のポイント、国風文化と浄土信仰です。この時代は、唐風文化を基礎にして日本風の文化が作られた時代です。

                  例えば、漢字を改良して「ひらがな」が生まれたりしました。
                  その代表的な書に「寸松庵(すんしょうあん)」があります。前回の空海の書と比べて繊細で、優美な感じがします。
                  この時代の貴族の美意識は、現代の日本に続く伝統文化の基礎になっているものもあるといえます。

                  また、浄土信仰がこの時代に広まりました。
                  お釈迦さまが死んで2千年経つと、世の中が乱れる末法の世になる、という末法思想がはやりました。

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                    末法の世でも阿弥陀如来を信仰し、念仏を唱えれば、臨終のときに阿弥陀如来が迎えに現れ、極楽浄土に生まれ変わらせてくれると考えられました。これが浄土信仰です。
                       
                    末法の初年だと考えられた1052年ころ、飢饉(ききん)や疫病(えきびょう)が流行しました。
                    道長の子で関白として実力を振るっていた藤原頼通(ふじわらのよりみち)が父・道長の宇治の別荘を平等院という寺院に改めたのが、まさにこの年です。
                    翌年完成した阿弥陀堂は、左右対称の「翼廊(よくろう)」と後ろに伸びる「尾廊(びろう)」からなる画期的なデザインで、後世、「鳳凰堂」と呼ばれました。

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                      中心となる「中堂(ちゅうどう)」には、
                      <無限の命を持ち、無限の光を放って人々を救ってくれる>とされる、
                      巨大な阿弥陀如来像(あみだにょらいぞう)が安置されています。

                      阿弥陀如来は高さが3メートル近くあるものです。
                      一本の木ではできないため、いくつもの部材に分けて作る「寄木造(よせぎづくり)」の技法が用いられています。

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                        最近の研究で、完成直後の阿弥陀堂の姿がコンピューターグラフィックで復元されました。
                        それによると、堂の中は、極楽浄土をイメージさせる、極彩色(ごくさいしき)に彩られていました。

                        周囲の扉には、「阿弥陀如来の来迎(らいごう)」が描かれています。
                         
                        この絵の右半分には、宇治川の風景や宇治の山で遊ぶ鹿といった現実の世界が描かれています。
                        そして対となる左半分には、臨終に際して祈る男の許に、阿弥陀如来が菩薩(ぼさつ)と共に極楽浄土へ迎えに現れる光景が描かれています。

                        当時の童謡では「極楽浄土を知りたければ、平等院を見るがいい」と謡われました。
                        宇治川に面して建つ華麗な鳳凰堂には、平安貴族の極楽往生の願いが込められていたのです。

                        栄華を誇った藤原道長も、末期の時には自身が建立した法成寺阿弥陀堂で阿弥陀如来の手から引いた五色の糸を握りしめて亡くなったといいます。
                        栄華を極めた平安貴族といえども、死への恐怖や極楽往生を願う気持ちは私たちと変わらなかったのです。

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